東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本近世史料 廣橋兼胤公武御用日記 三

 本冊には、武家伝奏廣橋兼胤を記主とする「公武御用日記」の宝暦二年正月から同三年二月までと、「関東下向之日記」の宝暦二年正月から三月までを収めた。兼胤が朝廷・幕府間の要請の当職に就任して三年目に当たる。
 本冊に収録した兼胤の日記を通観して、まず気がつくのは、前年までに比較して記述が簡素になっていることである。これまで兼胤は、朝廷の儀式・儀礼に関する記事や朝廷・幕府間の懸案事項などのひとつひとつについて、それぞれかなりの行数をさいて詳述してきたが、宝暦二年になると次第に簡潔な記述でまとめるようになっている。その理由のひとつは、例えば、九条尚美の還俗と九条家相続問題、陰陽家土御門家と幕府天文方西川正休との暦測をめぐる対立、上賀茂神社の社司と氏人との争論、更には見鳥居池をめぐる東大寺と興福寺との境界争いなど、この年の重要な課題の多くは、いずれも前年から継続している問題であり、改めて事の経緯を詳述する必要がないと判断されたからであろう。第二の理由は、武家伝奏三年目に当たる兼胤の儀式や政務に対する習熟である。例えば、年頭勅使として初めて江戸へ下った寛延四年(宝暦元年)の東行記には、その準備の過程から江戸往復道中の様子、そして江戸における「対顔儀」「返答儀」などをはじめとする諸儀式の次第が、座次の指図などを用いつつ事細かく記録されていたのだが、本冊に収めた二度目の下向記事においては、全体としてきわめて簡潔な記述になっている。これは、兼胤が二度目の下向で、関東における諸儀式の遂行に自信を持つようになり、詳細な記録はもはや必要ないと考えたからであろう。事実、兼胤は、関東下向のみならず、朝廷の儀式・儀礼・政務の全般にわたって大過無く職務を遂行しているのである。なお、記述が簡素化されたからといって、彼の役務日記の史料的価値がいささかも低下するものではない。朝廷や幕府の懸案事項の推移を客観的に記し、かつ儀式・儀礼の要点は洩らさず記録する点において、兼胤の筆致の簡明さは益々磨きがかかってくるのである。
 本冊に収録した日記の記載記事はきわめて多岐にわたる。紙幅の都合から、朝廷方と幕府の双方における、重大な人事上の変化についてのみ紹介したい。それは、朝廷では、議奏芝山重豊が辞職してその跡を醍醐兼潔が襲職し、幕府では、所司代松平資訓が死去し大坂城代酒井忠用が後任として京にはいったことである。両者の経緯は密接に関連しているが、月次にしたがって前者から見ていこう。
 芝山重豊は、延享四年五月から議奏をつとめていたが、宝暦元年十月頃からは心臓を病んでほとんど参内せず、政務から遠ざかっていた。それでも同年十二月十六日の議奏衆に対する勤労の褒賞の際には、他の議奏とともに褒詞を頂戴し、彼は権中納言に昇進している。しかし、翌宝暦二年二月五日にいたり、大蔵少輔穂波尚明を通じ、武家伝奏に対して退役願いが提出された。願書は直ちに摂政一條道香のもとへ届けられたが、道香は慰留すべき旨を内示し、願書を預かり置くこととなった。十六日になって摂政から桃園天皇の意向が正式に示され、議奏の役儀はそのままとして、重豊はゆっくり療養すべきこととされた。あわせて外の議奏に対しても、芝山療養中は互いに扶助して政務を執り行うべきことが訓令されている。しかし、重豊には回復の気配が一向になかったので、兼胤らが年頭勅使として江戸から帰京した直後の三月二十二日に、再び退役願いが武家伝奏に提出された。この度は医師の診断も添えられていたので、摂政へ申し入れたところ、願い通り退役を許可する旨の天皇の意向が伝えられた。芝山辞職の報は、ただちに当番議奏姉小路公文と京都町奉行に伝達されている。本来なら武家方へは所司代に対して伝えられるべきであったが、このとき所司代松平資訓はすでに病床についていたので、代わって町奉行へ連絡されたのである。
 朝廷は後任議奏の人選にはいるが、ここでも所司代の病気が障害となった。すなわち、これまでの議奏の選任に当たっては、朝廷があらかじめ人選を行い、それを所司代に伝えて了解を得たのち、正式に任命するという手続きを取っていた。ところが、この度は所司代が重病で政務をとれないので如何するかという問題が生じたのである。武家伝奏からの問い合わせに対し、御附武士からは、後任議奏の人選は重大なので直接関東へ伝えて了解を得たいとの回答があった。
 しかし、いかなる理由からか不明だが、後任議奏の選任は、後任所司代酒井忠用の上京を待って、五月二十七日に醍醐兼潔にすべき内意が武家伝奏に伝えられ、二日後の二十九日に所司代役宅において伝奏から所司代へ伝えられた。そして、その場で所司代の同意を得て、六月五日、武家伝奏・議奏が列座する宮殿八景画間において、摂政から醍醐兼潔に対して議奏の役儀が命じられたのだった。
 一方、寛延二年十月から所司代の職にあった松平資訓も、すでに前年から体調が思わしくなく、参内の際にも襪(しとうず)の着用を願い出るほどであった。
宝暦二年になると病状が悪化して、兼胤が江戸から京への帰途にあった三月十八日には重体となり、政務が町奉行によって代行されることとなった。兼胤は二十一日の帰京当日に事態を知らされるが、その後間もない二十七日の夜明け方、資訓は養生叶わず死去した。享年五三歳、在任二年五月であった。京町中には当日一日の鳴物停止が触れ出されている。幕府は四月七日、後任に大坂城代の酒井忠用を充てることを決定し、十三日には老中奉書をもって朝廷方へ伝えてきた。ちなみに大坂城代の後任は松平輝高である。この間、朝幕間の文書のやり取りには苦慮の跡が見られる。例えば、幕府から有徳院(前将軍吉宗)の廟所拝殿の上棟をはじめとする諸儀式の日取定陣儀を依頼したときには、いまだ所司代が空役であったので幕府から老中奉書によって直接朝廷方に依頼され、朝廷方からの日時勘文ならびに宣旨は、後任の忠用が江戸在府中であったので御附武士に渡された。このような所司代抜きのやり取りが異例であることは、兼胤の日記に注記されている。なお、所司代拝命のため忠用が在府している間、佐保君御世話料のお礼の書状は摂政から直接老中に出されるが、土御門家の書付は忠用のもとへ届けるというように、案件によって朝廷方からの文書の経路を使い分けているようである。五月二十五日、予定より遅れて酒井忠用が上京し、翌々二十七日には参内して桃園天皇への面謁を果たした。この日、新所司代が武家伝奏を通じて醍醐兼潔の議奏就任を打診されたのは前述した通りである。
 以上のように、宝暦二年には偶然にも議奏と所司代の交替が重なった。これらの人事の変化、とくに当該職空役の間の朝幕間のやりとりは、朝廷と幕府おのおのの機構において、あるいは両者の関係において、議奏と所司代という重職の意味を考えるうえで興味深い事例といえよう。
(例言一頁、目次二頁、本文三一九頁)
担当者 橋本政宣・小宮木代良・馬場章


『東京大学史料編纂所報』第30号p.15