大日本史料第九編之二十

本冊には後柏原天皇大永三年四月三十日より九月末日まで、おおよそ五箇月分の史料を収める。
 日明貿易をめぐって、細川・大内両氏の使者が、明の寧波で衝突している。いわゆる寧波事件である。明の史料によると、事件の発生は嘉靖二年五月一日である。この時期日本と明とは違った暦を使用しており、嘉靖二年五月一日は大永三年四月三十日にあたるので、この日に綱文を立て、事件の発生から、事件の中心人物である宋素卿らが死亡するまでの関連史料を収めた。
 事件が明の寧波で起ったために、史料的価値の高いものは日本よりも明に残っている。ただし、倭寇活動の活発化に伴う日本への関心の高まりによって盛んに作成された明の日本研究書等は、本事件に言及してはいるものの、独自の記述を持った史料は少なく、多くは他の史料の孫引きである。今回の収載にあたっては、「明史」成立以前の史料のうち、独自の記述を持ったもののみを、おおむね史料的価値の高い順に掲げ(事件の概要を示すために「明史」を最初にあげている。)、孫引きと思われるものは、もととなった史料の末に史料名および異事なき旨を注するに止めた。また、史料収集の範囲は、本所以外では、東京大学東洋文化研究所・内閣文庫・東洋文庫所蔵の史料によった。脱漏については今後の補遺を期したい。
 同日条には、朝鮮王李懌による、大内船の一員である中林・望台多羅の捕獲と、明への送還に関する史料も合叙した。「李朝実録」の膨大な朝鮮官人の議論の中には、対馬に対する疑惑や、事大の強調など、当時の朝日・朝明関係に関する彼らの意識を表わす記述もみられて興味深い。
 七月十五日条には、毛利幸松丸の死と叔父元就の家督継承に関わる史料と、あわせて幸松丸の伝記史料を収める。幸松丸は六月十三日の尼子経久の鏡山城攻撃から帰陣後まもなく、安芸吉田において九歳で病死した。挿入図版としては、福原広俊他十四名が、元就の家督承諾を賀し、別心なき旨を誓った連署状を選んだ。連署者の並び方については、地位の高いものから低いものへ、日下・奥交互に並んでいる、という瀬田勝哉氏の指摘がある(「「連署者の順位」に関する一史料」『文化史泉』一)。
 大永三年は、北条氏綱が伊勢から北条に改姓する時期として注目されている。六月十二日条に収めた「箱根神社棟札」では「伊勢平氏綱」と記しており、一方、九月十三日条に収めた「後法成寺関白記」は、氏綱を「北条」と記している。佐脇栄智氏はこの二史料から、六月十二日以後九月十三日以前に改姓が行なわれたと推定している(「北条氏綱と北条改姓」『日本中世政治社会の研究』所収)。閏三月九日条に収めた、「北新」の記述を持つ「足利高基書状」の年次比定とあわせて、今後の検討が待たれる。
 九月十三日条には、近衛尚通が北条氏綱に「酒天童子絵巻」を贈ったことを伝える「後法成寺関白記」と、榊原悟氏の詳細な研究によって、この時贈られたものであることが明らかにされているサントリー美術館所蔵「酒伝童子絵巻」の詞書全文を収めた(「サントリー美術館本『酒伝童子絵巻』をめぐって」『国華』一〇七六・一〇七七号)。同絵巻から、当時の風俗をよく伝える下巻の頼光等凱旋場面を挿入図版として収めた。
 九月十五日には、室町殿御所において不動護摩が修されている。その詳細を伝える「室町殿護摩記」と「厳助往年記」は、従来写本によって利用されてきた史料である。今回は、近年国立歴史民俗博物館に収蔵された田中穰氏旧蔵典籍古文書中の厳助自筆本によった。
 九月二十一日条には、冷泉政為の薨伝を収める。政為は、歌道において後柏原天皇・三条西実隆と並び称せられる人物である。歌集「権大納言政為卿着到和歌」は、頁数の関係もあって、春・雑の部は全文を載せ、これ以外の夏・秋・冬・恋の部は歌題のみを収めた。本冊収載にあたって、井上宗雄氏のご好意で、氏所蔵の善本を利用することができた。挿入図版には、「実隆公記紙背文書」から、和歌会始の懐紙の寸法につき幕府の諮問に答えた自筆書状を選んだ。
 なお、本冊編纂中に、「二水記」の宮内庁書陵部所蔵柳原本に、本年七月から九月までと十二月二十五日の記事が、京都大学所蔵平松本に、七月から十二月までの記事があることがわかった。できる限り収めるようにつとめたが、なお脱漏もある。補遺による収載を期したい。
(目次一三頁、本文四七二頁、コロタイプ挿入図版三点)
担当者 桑山浩然・渡邉正男

『東京大学史料編纂所報』第29号 p.15*-16