大日本史料第五編之二十九

本冊には、後深草天皇の建長元年(1249)正月から4月までの史料を収めた。
 この間の主な事柄としては、閑院内裏の焼亡(2月1日の第4条、116頁)、改元(3月18日条、254頁)、京都大火と蓮華王院焼亡(3月23日条、325頁)などがある。京都で火災が続き、上記のほかにも、3月25日の第1条(333頁)、同月29日の条(354頁)、4月3日の第3条(365頁)などに火災の記事が見える。これらの火災に関連して、院評定における議定(3月27日の第1条、340頁)、後嵯峨上皇が宸筆御書を白河・後白河・後鳥羽三天皇の山陵法華堂に献じて天変火災のことを告申したこと(4月23日の第1条、376頁)、天変火災に依り東大・興福以下の諸大寺及び五畿七道諸国の寺々に最勝王経を、延暦・園城等の諸寺に大般若経を7日間を限って転読させたこと(4月26日の条、378頁)等の記事も見える。3月18日の改元も内裏の焼亡を契機に変異を理由として行われたものであった。
 閑院内裏の焼亡に依り、後深草天皇は西園寺実氏の冷泉富小路殿に移り、ここを皇居とした。2月1日の第4条には、冷泉富小路殿を皇居としたことに関連する史料も収めている。また、閑院の焼亡に関連して、3日間廃朝、警固を行い、音奏・昼御膳を停止したこと(2月2日の第1条)、閑院火災の咎を卜したこと(2月5日条)、火災後はじめての御拝(2月8日の第1条)、祈年祭の延引(2月10日条、142頁)、大祓(2月14日の第1条、145頁)、火災後の政始(2月14日の第2条、145頁)、釈奠の延引(2月15日の第1条、147頁)、春日祭の延引(2月18日条、155頁)、伊勢以下の8社に奉幣して閑院の火災を告げたこと(2月28日の条、173頁)等の記事が見える。閑院の再建に関しては、梁年にあたるため内裏造営の可否を諸道に勘ぜしめたこと(3月13日の第1条、241頁)、幕府が閑院の造営を奏したこと(4月4日の第2条、367頁)等の記事がある。周知のように、閑院の造営は幕府の力によって達成されることになるのであるが、建長元年8月4日に内裏造営の可否に関する諸道勘申を定めたこと、同2年7月13日に造営次第日時を定めたこと、同3年正月10日の上棟、同年6月27日に後深草天皇が閑院に移ったことなどの記事は、後続の冊に収められることになる。
 3月23日の火災で蓮華王院が焼亡したことも人々に大きな衝撃を与えた。
 藤原兼経は『岡屋関白記』の中で、前々年の法勝寺阿弥陀堂の焼亡(宝治元年8月28日条、第22冊の306頁に記事を収める)を思い起こしている(326頁)。蓮華王院の再建供養は文永3年(1266)4月27日に行われることになる。
 改元については、摂政藤原兼経、権中納言藤原公光、権中納言藤原資季、権中納言藤原定嗣が日記を遺している。それぞれの立場からの記述が比較でき、興味深い。
 前年閏12月29日に東寺長者行遍が罷免され、実賢が一長者に、宣厳が二長者に任じられていた(第27冊の402頁に記事を収める)が、本冊の3月6日の第1条(196頁)に宣厳の、3月19日条(298頁)に実賢の拝堂に関する史料を収めた。いずれも詳細な拝堂記が遺されている。
 正月16日に御室入道道助親王が死去した。同日の第2条に同人の事績を集録してある。
 2月6日条に叡尊が法華寺において尼慈善等12人に大比丘尼戒を授けた記事を収め、「法華寺結界記」のコロタイプ図版を挿入した。
(目次13頁、本文383頁、挿入図版1葉)
担当者 黒川高明・近藤成一

『東京大学史料編纂所報』第29号 p.14*-15