大日本古記録 實躬卿記二

この冊が収めるのは、正応四年から永仁元年までの日記と、その自筆本に拠った部分の紙背文書とである。実躬二八歳から三〇歳にいたる期間で、官位はこの間を通じて右近衛権中将正四位下、正応四年三月二五日に美作介を兼ねている。実躬の身辺にとりたてて大きな変動はなく、その中で目につくことと言えば、正応五年の六月以降同年末までのある時点でかれが勅勘によって出仕を止められ、翌永仁元年三月八日にいたってこれを宥されていることである。勅勘の時点での史料に欠けるため原因の詳細はわからないが、三条宗家の藤原実重が実躬のおのれに対する言動に礼節に欠けるところがあるとして訴訟に及んだもので、日記の上では、勅免の直前から勅免の後実重がそれをなお不満とするのにあらためて勅裁が下されて四月七日ようやく落着するまでの人の動きが細かくたどれ、当時の貴族の価値観の一面をうかがわせるとともに、実躬の宮廷生活に大覚寺統への奉仕と西園寺家との親近とが持った大きな意味を知らせてくれる。総じてこの冊には、これ以外にも貴族社会での人間関係・個人的交遊の実態をその心情的側面にまでわたって語る記述が多く見られる。
その他の記載内容については前冊の紹介で述べたところがほぼそのまま当てはまる。平禅門(頼綱)の乱の伝聞記事(永仁元年四月二五・二六日条)の存在を指摘するに止めよう。
この冊の正応四年五月〜六月の部分には首附(かしらづけ)が附されている。この部分の底本は写本であって、本書では自筆本に由来しない写本の首附は省くのが原則である。ところで、自筆本永仁元年八月及び同二年三月〜五月の巻には首附が附されていて、ここから帰納される自筆本の首附の性格によって、写本の首附のうちの自筆本に由来するものを判別することができる。この部分の首附は、そのような手続きによって、自筆本にすでに存在したものと判断されたものである。
紙背文書としては、弘安四年具注暦断簡・正応三年具注暦および書状(断簡とも)二七紙を収めた。第一のものには、その暦面に、正応四年の実躬のものと認められる、花押の手習いを主とする落書きが重ね書きされた部分があるが、この落書きは翻刻を省き、その箇所の写真を口絵とした。
実躬卿記の自筆本・写本が持つ解読の困難さは、その困難を十分に克服することができない担当者の非力によって、その本文整定に少なからぬ再考の余地を残す結果となった。読者の理解と、利用に当っての配慮とをお願いしたい。なお、そのような難読箇所のうちには、第一・第二両冊ともに、所外の先学のお教えを仰ぐことのできた部分がある。その部分では、本文の信頼性が著しく高められていることは言うまでもない。お教えを得なかった部分での誤りの累を及ぼすことを懼れてお名前を挙げることは控えるが、ここにその事実を明記して、心からお礼申し上げる。
(例言一頁、目次二頁、本文二七四頁、口絵図二葉、岩波書店発行)
担当者 龍福義友

『東京大学史料編纂所報』第29号 p.21*-22