東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古記録 二水記 三

 本冊には、大永五(一五二五)年三月までを収めた前冊の後をうけて、同年七月から享禄三(一五三〇)年一二月までを収めた。このうち大永六年春夏記は原本が現存せず、写本により本文が伝わる。また、大永五年夏記は、本来原本では同年秋冬記と同じ冊の前半部分であったと思われるが、慶長年間以前にすでに散逸してしまっており、わずかに六月の南都神楽参向の別記のみが本文とは別に写本で伝わる。享禄二年記も同様に早くから失われており、こちらの記事はまったく伝わらないが、原本の表紙に記された冊次や享禄三年三月六日条の内容から考えて、この年の日記ももとは存在したことが確実である。本冊の底本には、内閣文庫所蔵鷲尾隆康自筆原本の現存する部分はそれを用い、大永六年春夏記は、四月六日条までは東山御文庫本を用い、七日条以降は京都大学文学部博物館所蔵(勧修寺家旧蔵)の『鷲尾記』を用い、東山御文庫本および宮内庁書陵部所蔵葉室家旧蔵二二冊本の第一六冊により校訂した。また、南都神楽参向の別記はほかの別記とともに第四冊に収める。
 『二水記』のほぼ完全な写本では、慶長六(一六〇一)年頃に後陽成天皇が廷臣に分担書写させた禁裏書写本がもっとも古く、現在に伝わるほとんどの写本の祖本である。この本自体はおそらく寛文元(一六六一)年の禁裏仙洞御所火災により焼失したと思われるが、幸いにも火災の数年前の明暦年間に、後西天皇がこの本をさらに書写させた本が東山御文庫に現存する。この禁裏書写本は原本から直接写したと認められる冊が多いものであるが、大永六年春夏記の担当である中院通勝の慶長の書写態度はあまり原本に忠実ではなく、原本の上欄補書を日記本文に並べてしまうなど、体裁を改めているところが多い。一方、大永六年四月七日の後柏原天皇崩御から六月末までについては別系統の本文も伝わる。こちらは上欄補書や注記の形態など随所に原本の面影を残しており、この系統の祖本は明らかに原本であると認められる。勧修寺家旧蔵の『鷲尾記』は「自先君所持本也」という延宝六(一六七八)年勧修寺経慶の奥書をもち、実際にこの写本は経慶の父経広の代にはすでに勧修寺家にあった(泉涌寺文書七五『後柏原院崩御記』奥書)もので、この系統の写本ではもっとも古くかつ正確なものである。
現在、大永六年春夏記の写本は抄出本も含めて四十数本伝わるが、これらは二つの写本群に大別できる。まず一つは、禁裏書写本をそのまま写したもので、東山御文庫本を最善本とする一群である。京都大学附属図書館所蔵菊亭家旧蔵本・平松家旧蔵本、同文学部博物館所蔵勧修寺家旧蔵三冊本、宮内庁書陵部所蔵庭田家旧蔵本、静嘉堂文庫所蔵八条家旧蔵本、内閣文庫所蔵教部省旧蔵本・和学講談所旧蔵一五冊本・同二七冊本、学習院大学所蔵本、国文学研究資料館所蔵本、秋田県立図書館所蔵河邨家旧蔵本、本所所蔵北小路家旧蔵本などがこの系統の写本である。
 もう一つは、四月六日条までは禁裏書写本系統の本文を、同七日条から六月末までは『鷲尾記』と同じ系統の本文を、それぞれ取り合わせた一群である。『鷲尾記』系統の本文が禁裏書写本系統の本文より原本に近く、良質のものであることが江戸時代から認識されていたため、このような取り合わせ本が多く生まれた。宮内庁書陵部所蔵柳原家旧蔵七冊本・久世家旧蔵本(広橋本の写し)・葉室家旧蔵二二冊本、慶応義塾大学附属図書館所蔵石井泰次郎旧蔵本、中之島図書館所蔵本(慶応本の写し)、内閣文庫所蔵紅葉山文庫旧蔵本・内務省地理局旧蔵本、国会図書館所蔵松平定信旧蔵本、蓬左文庫所蔵本(紅葉山本の写し)、京都府立総合資料館所蔵広橋家旧蔵本(柳原本の写し)、北野天満宮所蔵賀茂三手文庫旧蔵本、神宮文庫所蔵豊宮崎文庫旧蔵本・林崎文庫旧蔵一二冊本、天理図書館所蔵吉田家旧蔵二三冊本、都立中央図書館所蔵安藤正次旧蔵本などがこの系統の写本である。このほか、四月七日以降を欠くものに宮内庁書陵部所蔵鷹司家旧蔵本、岡山大学附属図書館所蔵池田文庫土肥経平旧蔵本、無窮会神習文庫所蔵櫛笥家旧蔵本、神宮文庫所蔵神宮司庁旧蔵本・林崎文庫旧蔵一五冊本、本所所蔵押小路家旧蔵本などが、逆に四月六日以前を欠くものに前田育徳会尊経閣文庫所蔵二八冊本があるが、これらも同じ一群に属するものである。また、宮内庁書陵部所蔵壬生家旧蔵本、多和文庫所蔵本、神宮文庫所蔵林崎文庫旧蔵一冊本、本居宣長記念館所蔵宣長旧蔵本などの抄出本はこのような取り合わせ本を親本としている。
 このように二種類の本文を取り合わせることは、『二水記』大永六年春夏記においては最善の方策である。しかし、これらの取り合わせ本系統の写本には、春目録に錯乱があり、かつ正月一日条には脱文があるという共通の欠点があり、さらに二つの写本を除いては、本来の夏目録に加えて、四月七日以降の記事についての粗略な目録が後補されており、そのまま底本としては使用できない。本冊で『鷲尾記』の対校本として用いた葉室家旧蔵本第一六冊は、『鷲尾記』と微妙に異なる本文をもち、後補目録がない比較的古い写本である。このほかのやはり古い写本では、内閣文庫にも『鷲尾記』と題する小川坊城俊広(一七〇二年薨)旧蔵一冊本がある。この本文は葉室本にかなり近いが、葉室本・勧修寺本よりもやや劣るものである。
本冊の内容では、これまでと相変わらず家業である雅楽や神楽についての記事も多いが、大永六年四月の後柏原天皇の崩御と、同年七月の香西元盛謀殺事件から始まる足利義晴・細川高国勢と足利義維・細川晴元勢の京都近郊を舞台とする合戦の記録が中心である。また、私的なことでは享禄元年閏九月に息男がわずか五歳で夭折し、翌年二月には妻(柳原量光女)を失う。両親はすでに無く、これまで以上に寺社や墓所に参詣する記事が増えてくることも本冊の特徴である。
 巻頭図版には、後柏原天皇三回忌の享禄元年四月に行われた懺法講の際に、道場として用いられた清凉殿の指図を掲げた。本図には朱による彩色が一部に施されているため、原色図版として原本の面影を示した。また、隆康は本文中に空白の部分があることを嫌い、たとえば割書の部分で、左行の文字数が予想以上に多くなったため右行の下にできる空白部分を墨線で埋めている。本冊では、このような墨線も凡例に掲げた記号で示した。
なお、最終冊にあたる第四冊には、残る享禄四年正月から天文二年二月までの本文と、補遺として新たに存在が判明した大永三年秋冬記を収め、そのほかに別記・逸文・参考・記主年譜および系図・解題・索引などを付す予定である。
(例言一頁、目次一頁、本文二六六頁、原色巻頭図版一頁、岩波書店発行)
担当者 尾上陽介


『東京大学史料編纂所報』第29号p.22