東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本近世史料 細川家史料 十四

本冊には、寛永十五年正月より同十七年十二月までの、細川光尚宛細川忠利書状一七二通を収めた。これはすべて原本であり、うち第一四〇〇号および第一四〇一号文書は、光尚書状に忠利が自筆で返事を書き入れた複合文書である。
所報第二十七号の「本所出版物」の項に記したように、光尚宛忠利書状は、二十五印から三十二印まで三五三通、および天印二十七番から天印三十三番までの三三通がほぼ原本で残っており、収録にあたっては年代順にあらためて配列した。今回の収録分は、おおむね二十八印から三十印までと三十一印の一部であるが、「年代不知」とされた三十一印および三十二印の文書も、年代推定可能なものは適宜配列・収録した。
本冊は、寛永十五年からであるので、島原の乱鎮圧とその事後処理に関する書状が特徴的である。光尚は、寛永十四年末に熊本に帰り、天草に出陣する。忠利は、江戸にいたが、正月十二日、暇を与えられ、即日熊本に向かう。本書冒頭の正月八日付書状(第一二三一号文書)は、江戸にいる忠利が、天草出陣中の光尚を慮って出したもので、天草で敵に会わず、また島原でも人並みの働きだとしたら「大事之事」である、と光尚に合戦の心構えを教諭している。「此度我々者きも入り不申候ヘハ、上使次第次第と申候を、わらい事ニ可仕候間、なる事とミ切候ハゝ、きも入候て尤ニ候」という下りは、当時の大名の心情を吐露していて興味深い。上使の命令に従うことが武将の間では汚点になる場合があるのであり、このような雰囲気の中では、長崎奉行榊原職直や佐賀藩鍋島家の「抜け駆け」も起こりうることだったのである。
その後、忠利は有馬に至り、光尚と合流するので戦いに関する書状はないが、鎮圧後、忠利は熊本に帰り、光尚は江戸に向かうので、両者の間には頻繁に書状がやり取りされる。中でも興味深いのは、細川勢が一番乗りしたことに関して、江戸でさまざまな噂が流れていたことである。第一二三三号文書は、細川勢の一番乗りが偽りだという江戸の噂がいかに間違いかを書き、不満を述べている。このような記述の中に、当時の社会が生き生きと示されている。
細川家の家臣団に対する論功行賞については、熊本の忠利と江戸の光尚の間で議論がかわされている。忠利の意見は、第一二四〇号文書などに記されているが、光尚の意見とは齟齬する面もあったらしく、忠利の江戸参府まで最終結論は持ち越されている。第一二九一号文書には、光尚家臣のうち褒美を与えられた者が書き出されており、知行取りの中に林太郎四郎、中小姓のなかに阿部市大夫と、後の阿部一族事件にかかわる人名が見える。
また、細川三斎(忠興)が、八代の知行などにつき色々と幕閣に不満を漏らしていることに関して、忠利・光尚父子の間で意見が交わされている。三斎の不満は誤解に基づくものであり、年をとって頑固になっているのをいかになだめるか腐心しているようである。第一二七〇号文書は、それにつき、忠利が光尚に幕府年寄酒井忠勝に申し入れを行うよう指示したもので、署名・宛名ともないが、忠利の自筆書状である。参考のため挿入図版を収めたが、「三斎ハ、何も御申候事少しもうたかいなく、其まゝニ心ヘ候人」という忠利の父親評が興味深い。
寛永十六年三月、忠利は江戸に参府する。将軍徳川家光は、寛永十四年から苦しめられていた病気も回復し、島原の乱も鎮圧したことから上機嫌で、四月二十五日には、東西の諸大名を江戸城に集めて能を興行した。その席上、家光は、「天下ニ思召所もなく御満足侯」と述懐を述べる(第一三一二号文書)。これは、ほかならぬ将軍自身が天下泰平を認識し、それを宣言するという注目すべき記事である。そしてそこで懸案として述べられたのが、「日本之おごり大なる儀」と「きりしたん之儀」であって、その後、奢侈禁止とキリシタン禁令が諸大名領にも浸透していく、将軍の意向を受けて領内に奢侈禁止を命じる忠利の姿は、第一三四七号文書などに見られるが、当時の幕藩関係の実相を考える上で興味深い記述である。
寛永十七年六月、忠利は熊本に帰国し、のんびりとした生活を送るが、七月には隣領の人吉藩相良家で御家騒動が起こり、また長崎へは、貿易再開の嘆願にきたポルトガル人を処刑するために大目付加々爪忠澄らが派遣され、申し渡しを受けるために忠利自身が島原に赴くなどのことがあった。忠利の体調はすこぶるよく、「我等息災、十年比かた覚不申侯」と述べている(第一三九九号文書)。翌年正月に発病し三月に死去することを思えば、不思議な気分の高揚であった。
なお、巻頭には、寛永十七年八月の忠利書状の図版を収めた。人吉藩へ上使として派遣された能勢頼隆・三上季正が帰途につく際遣わしたもので、書状中に「自筆にて申侯」と明記している。これらを基準として、各書状の尚々書が自筆か否かを判定しているので、参考のため掲げたものである。また、巻末には、忠利の花押の典型的なものを収めた。花押2は、主に自筆書状に使われ、花押3は寛永十一年から使用され始め、祐筆による書状に使われることが多い。
(例言一頁、目次十三頁、本文三〇七頁、人名一覧三八頁、図版二葉)
担当者 山本博文・小宮木代良


『東京大学史料編纂所報』第29号p.17