大日本古文書 幕末外国関係文書之四十四

本冊には万延元年十一月一日から同月二十日(西暦一八六〇年十二月十二日から十二月三十一日)迄の日本側の外交関係諸文書、及びそれらに係りのある諸外国の外交書翰の翻訳を収めた。
日英関係での最大の焦点は、第二次アヘン戦争で清国を撃破した英国陸海軍の対日圧力の展開である。英仏連合軍大勝の事実は、既にオールコックによって十月段階で幕府に報ぜられていたが、領事レヴェルでもなされていたことは、箱館奉行所に対する英国領事代理フレッチャー書翰(第五五号文書)によっても明かである。十一月十四日、英国中国派遣軍司令官グラントが老中と会見し、その軍事的圧力を利用してオールコックが英日間の諸案件を有利に導こうとしたことは第七七号文書にうかがえる。更に十一月二十日には英国海軍少将ジョーンズと老中会見が設定され(第一一〇号文書)たが、両者の政治的機能のさせ方は、本国外相宛オールコック書翰(第一一二号文書)が、よく物語っている。
英日間の懸案事項の一つは、英商モスの遊猟発砲傷害事件の処理をめぐってであったが、英日両国の司法処理過程の原理的相違は、第二・第八一・第一〇二の各号文書に如実にあらわれており、領事裁判権問題を検討する際の重要な史料となっている。
但し、領事裁判権の行使が十全のものではなく、その内部に大きな矛盾を含んでいたことは、モス判決をめぐってオールコックが外相に率直に悩みをうちあけた第九二号文書からも見てとれるし、更に中国人召使の裁判権をめぐってのフレッチャー書翰(第九〇号文書)は、どこに問題が存在しているかを詳細に論じている。尚後述の長崎地所規則の紛争点もここにしぼられていた。
日仏関係においても、仏国の対日圧力問題が表面化する。第九一号文書は、十一月十六日におこなわれた仏国海軍准将パージュと老中との会談記録であるが、仏国公使の意図が那辺に存していたかは、第一〇七号文書を見られたい。また第一〇八号文書も彼の思考パターンを検討する上で面白い史料である。
この間の日米関係は平穏裡に推移していた。遣米使節の購入書籍に関しては第五六号文書が、米国贈物の正式受領書に関しては第六一号文書が扱っている。
ところで、一八五七年から六〇年にかけての第二次アヘン戦争を極めて重視していたのが帝政ロシアとその中国艦隊であった。第三一号文書は、露国中国艦隊司令官海軍大佐リハチョフの報告であるが、我々はそこから極東海域におけるロシア海軍の動きをリアルに知ることが出来るだろう。ゴスケヴィッチの長崎訪問はロシア海軍にとって重要な意味を持っていたに違いないが、残念ながら政治的意図に関しては、マルスコーイ・ズボール二クからは全く不明である。
日蘭関係では、長崎製鉄所蘭人教師の雇用延期問題(第一六号文書他)とともに、シーボルト問題が存在していたが、蘭国総領事館のシーボルトに対する複雑な感情は、第一一四号文書にもその一端があらわされている。
この間の幕府にとっての最大の外交案件は日孛条約締結交渉であった。両国間の意見の主要な対立は、プロイセン側が条約の対象に関税同盟及びハンザ三都市を加えさせようとしたことに対し、日本側が国内輿論を顧慮して、あくまでもプロセイン一国にしぼろうとした点にあった。この論議の詳細は、第五・第六二・第七〇・第七四・第七八・第九六の各号文書で把握出来るが、両国間の記録は微妙にズレており、両者を比較検討する中ではじめて論議の具体的展開を復元することが可能となる。
ところで、幕府側から外交問題をとらえ直した場合にも、十月二十五日の日孛条約交渉開始決定が大きな転機となっていた事実は、第二六号文書所収の同日付老中書取によっても明白となる。両都両港開市開港延期問題が幕府外交政策の眼目となっていくのである。そして、それと連動しながら、遊猟者取締規則の制定督促や不開港場への外国艦船入港禁止要請が具体化してくることは、第一七号文書や第二三号文書に見られる如くである。ここでも大名と共に朝廷に対する配慮が強く働いていた。
居留地の設定と地所割当作業がこの時期に具体化し、そのモデル規則としての長崎地所規則がクローズアップされることは、第二四・第八二・第一〇三の各号文書や数回の対話書にある如くだが、日本側では領事裁判権に対しどのように対応するかをめぐって外国奉行所と勘定奉行所の間で明確な対立が存在していた事実は、第八二号文書所収評議書から判明する。
貿易をめぐる紛争としては、第四二号文書他の輸出許可状の法的根拠をめぐる紛争が興味深いが、関税事務がどのように三港に徹底化されたのかは、第八六号文書の自用品関税取立に関する老中書取が好例を示してくれている。
日孛条約交渉過程での悲劇は、十一月六日の外国奉行堀利煕の自刃事件であったが、その直後どのような流言が飛んだかに関しては第四三号文書を参照されたい。そこでも見られるように、英仏艦隊の江戸湾入港という軍事的圧力が流言と深くからんでおり、この軍事的圧力への一つの反発が水戸浪士による横浜焼打ちの風説となって表面化し、幕府が苦慮することとなる。その一端は村垣範正公務日記への註記の中で示しておいた。
尚、日露関係の接点は箱館・長崎とともにカラフトに存していた。同地の動向に関しては第三〇号文書及び第六九号文書を見られたい。
(目次二七頁、本文五二四頁、索引一四頁)
担当者 宮地正人・横山伊徳・保谷徹・松本良太

『東京大学史料編纂所報』第28号 p.78-79