東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古記録 中右記 一

 本書は、「中御門右大臣」と称された藤原宗忠(一〇六二−一一四一)の日記である。他に「中御門右府記」「宗忠公記」「愚林」などの名称があるが、最も通用している「中右記」を書名とした。
 本書の起筆・擱筆の時期については、宗忠自身が日記中に記している。即ち、保安元年(一一二〇)六月一七日条に「今日私日記部類了、従寛治元年至此五月卅日、〔卅脱力〕四年間暦記也、」、保延四年(一一三八)二月二九日条に「世事従今心長断、不日記也、」とあり、宗忠二六歳の寛治元年(一〇八七)正月一日から、七七歳の保延四年二月二九日まで、五一年二ヵ月にわたる。この間ほぼ連続して書かれたと思われるが、一年の一部にせよ、逸文ではなく『中右記』として現存する年は三六年である。また本書には、本記の他に部類記があり、「中右記部類」等と称され、その一部が現存する。本記とは別に一括して収載する予定である。なお本書は、国立公文書館内閣文庫所蔵百九冊本を主たる底本として、『史料通覧』『増補史料大成』により刊行されている。
 本書の自筆本は現存が確認されていない。古写本としては、陽明文庫所蔵本(二三巻)及び宮内庁書陵部に所蔵される九条家旧蔵本(一五冊六巻)・伏見宮家旧蔵本(一巻)・柳原家旧蔵本(一巻)がある。
 陽明文庫本は、『猪隈関白記』正治二年(一二〇〇)一〇月一九日条・建仁元年(一二〇一)七月二〇日条にみえる、近衛基通が宗忠の曽孫中御門宗国から借用した、恐らくは宗忠自筆本を、底本として書写させた本であろう。この古写本のうち五巻は、陽明文庫所蔵本をはじめとする各種の新写本に収められていない。
 九条本の由来等は明らかではないが、一部に安貞二年(一二二八)の書写奥書があり、紙背文書からみて概ね同時期の書写と思われる。
 伏見宮本・柳原本にも書写奥書等はないが、鎌倉期の写本と考えられる。
 本書の刊行にあたり、古写本の存在する部分は古写本を、存在しない部分は、新写本のうち善本と思われるものを底本とした。
 第一冊の底本及び校合に用いた新写本は、東山御文庫収蔵本(七四冊)・陽明文庫所蔵本(一二一冊)・京都大学文学部国史研究室所蔵勧修寺家旧蔵本(二二冊)・国立公文書館内閣文庫所蔵百九冊本で、第二冊以降も底本等に用いる予定である。
 東山御文庫本は、書写奥書等はなく、後西天皇(一六三七−八五)が校合している。寛治四年五年・寛治六年春・寛治六年夏の三冊の巻末に、「加一見、少々抄出之、」の奥書と花押影があり、これは陽明文庫所蔵古写本の寛治六年秋・寛治七年秋の巻末に見える、藤原基嗣(一三〇五−五四)の加えたと思われる一見奥書と一連のものとみてよいであろう。陽明文庫には前記三巻の古写本は現存せず、東山御文庫本は陽明文庫から流出した古写本を祖本とする良質の写本を底本としたのであろう。こうしたことから、東山御文庫本が当時の善本を集めて底本にしていたことがうかがえ、書写も底本に忠実のようである。
 陽明文庫所蔵新写本は、書写奥書等はなく、大部分の冊の表紙の題は近衛家煕筆であり、陽明文庫長名和修氏の御教示によれば、元禄(一六八八−一七〇四)ごろの筆跡である。
 勧修寺本は、勧修寺経慶の貞享年中(一六八四−六八)の奥書がある本が大部分を占める。陽明文庫本と同系統の本と思われるが、丁寧な書写とはいいがたい。
 百九冊本は、既刊本の底本に用いられ、よく知られている。明治期に近衛・九条両家の古写本により書写した本を除く部分の中核は、元禄一一年に久我通誠が書写させた本である。
 第一冊には、寛治元年より寛治七年までを収めた。寛治四年五年記の巻末に、「此巻年少之間依注付、旧暦中甚以狼籍也、仍令少将清書、但寛治三年自清書也、本暦記破却了、皆見合也、」とあり、後年長子宗能に命じて寛治元年−五年の日記を書き直させ、うち寛治三年は宗忠自身が清書したことがわかる、このため記事の大部分はごく簡潔である。
 本冊の期間の宗忠は、年齢は二六歳−三二歳、位階は正五位下から従四位下・従四位上を経て正四位下、官職は左近衛権少将から右近衛に遷った後これを止め、堀河天皇の侍従となっている。
 日記が始まる寛治元年の前年の応徳三年一二月に、白河天皇が堀河天皇に譲位し院政を開始した。前述のごとく、寛治元年−五年の記事は簡略で、上皇・天皇の動向や、各種の行事について概ね簡単に記している。寛治六年からは、一変して詳細な記述となり、時には宗忠の感想が付されることもある。注目される出来事の一端をあげれば、寛治六年八月、暴風雨により伊勢両宮の殿舎が倒れ、公卿勅使発遣・仮殿遷宮などの一運の措置がとられた。また九月には、延暦寺衆徒の訴えにより、藤原為房等が流罪となった。翌七年七・八月には、延暦寺では衆徒の合戦から座主良真の辞任にいたり、一方興福寺衆徒が春日社神木を奉じて入京し訴えたため(神木動座の始め)、近江守高階為家等の流罪が行われるという騒動があった。一二月の源俊房の任大将の日には、源氏の隆盛について、「他門誠希有之例也、為藤氏甚有懼之故歟、」との感懐が記されている。
 最後に本書の印刷について触れておく。近年の出版界における急速な電算化の進行により、岩波書店及び精興社からの要請を受け、『大日本古記録』においても、新規出版物は今回から電算印刷により出版することとなった(現在刊行中の書目も、五、六年以内には移行の予定である)。そこでデータの有効利用を図り、『中右記』では次のような手順をとることとした。即ち本文を、本所の「史料編纂所歴史情報システム」(SHIPS)の記録古文書フルテキストデータベースの入力形式にほぼ従う形のデータとして二部作成する。一部は精興社において標出を加えるなど加工して組版する。もう一部は、本所において修正しデータベース化する。というものである。実際にもとのデータからこれまでの活版印刷とほぼ同じ体裁に組み上げるまでには、何回もテストや行き違いを繰り返さねばならなかったが、岩波書店及び精興社の担当者の尽力もあって刊行することができた。感謝の意を記しておきたい。
(例言四頁、目次二頁、本文二六七頁、口絵一葉、岩波書店発行)
担当者 吉田早苗


『東京大学史料編纂所報』第28号p.74