日本関係海外史料 オランダ商館長日記 原文編之八

本冊は、オランダ商館長日記原文編之八(自寛永二十年九月至寛永二十一年十月Original Text Selection I, Volume VIII. November 8, 1643-November 24, 1644.)として、ヤン・ファン・エルセラック(Jan van Elserack)の二回目の商館長としての任期の後半、すなわち一六四三年十一月八日に江戸への参府のため長崎を発ったところから、翌年十一月二十四日バタフィアにむけて出帆するまでの間の公務日記を翻字翻刻したものである。
底本として用いたのは、
Dagregister des Comptoirs Nangazackij van de jaaren 1642/1643 en 1644
という標題を持つ写本の、第四七葉裏から末尾の第一二〇葉裏までである(同写本の全体の構成については、所報第二四号参照)。原本は、オランダ国ハーグ市、オランダ国立中央文書館(Het Algemeen Rijksarchief, 以下ARA )所蔵、『日本商館文書』(以下NFJ)第五七号、旧番号(KA)一一六八七号である。翻刻に際しては、本所所蔵のマイクロフィルム複本(本所架蔵マイクロフィルム番号六九九八−一−四−一、同焼付本七五九八−二−二、三)に拠った。
右の底本(〔A本〕)に対して、次の三種の異本により校合を行なった。
〔B本〕
Dachregister des Comptoirs Nangasacquij gehouden bij den E. Johan van Elseracq, opperhooft over des Compagnies ommeslach in Japan zedert 8en november anno 1643 dat 't jacht de Waterhont over Tayouan naer Batavia vertreckt, ende zijn gemelte E. naer Jedo opreyst omme de reverentie aen Zijne keyserlijcke Mayt,de rijcxraden ende andere heeren bevelhebberen te doen, tot [15en] october anno 1644 als wanneer de scheepen Swaan, Castricum ende den Swarten Beer werden affgedispacheert ende over Tayouan naer Batavia vertrecken, vervaetende 'tgeene in Jedo te hoove ende in Nangasacquij geduyrende de negotie als andersints is voorgevallen ende gepasseert. (NFJ58, KA11686, ff. 89r.-131r.)(本所マイクロフィルム六九九八−一−三−一三、同焼付本七五九八−二−四)
この写本は、一六四三年一一月八日から一六四四年一〇月一五日までの記載を含み、本来、一〇月一六日に出帆したズワーン号、カストリクム号、ズワルテン・ベール号の何れかに積まれバタフィアヘ届けられるはずのものであったが何らかの事情によりそのまま長崎に残され、日本商館文書(NFJ)中に見出される。
〔C本〕
't Vervolgh van 't daghregister des Comptoirs Nangasacquij gehouden bij den Edele president Johan van Elserack 't zedert 16 october anno 1644 dat de scheepen de Swaen, Beer ende Castricum naer haere gedestineerde plaetse t' seyl gaen, tot 24 november volgende als wanneer Zijn gemelte Edele met 't fluytschip Capelle over Tayouan naer Batavia vertreckt.(VOC1148, KA1055, ff. 415r.-424v.)(本所マイクロフィルム六九九八−五−七−五〇、同焼付本七五九八−六〇−四九(i))
この写本は、一六四四年一〇月一六日以降一一月二四日までの記載を含み、おそらく〔B本〕に続くものとして作成され、エルセラックの離日の際バタフィアヘ持ち帰られた。
〔D本〕
Vervolch van 't dachregister des [Comptoirs] Nangasacquij 'tsedert 5 november [1644 dat 't jacht] Lillo van hier vertrocken is tot [den 24 november dat] 't fluytschip Cappelle meede ver[trocken is.] (VOC1150, KA1056, ff. 1r.-6v.)(本所マイクロフィルム六九九八−五−七−五四、同焼付本七五九八−六〇−四九(m))
同じくバタフィアヘ送られた写本で、一六四四年一一月五日から二四日までの記載を含む。
以上、本文とその校訂に利用したA、B、C、Dの写本の間には、個々の書記による僅かな単語の脱漏や挿入、綴字や語順の相異が散見するほかは、決定的な相異は見られない。
 本冊には、本文の日記に関する一〇点の文書を附録一〜一〇として掲載した。
このうち、I〜Vは東インド総督の書状で、一六四四年の『バタフィア発信文書控簿』(Batavia's Uitgaand Briefboek 1644. VOC868. KA771 本所マイクロフィルム六九九八−二三−四/一〜四、未焼付)に謄写されているものを底本とし、同年の長崎商館受信文書控(Ontvangen Brieven te Nagasaki 1644, NFJ 281, KA11723. 本所マイクロフィルム六九九八−一−三一、同焼付本七五九八−九−五)によって校訂した。�〜�は商館長ヤン・ファン・エルセラックの手によるもので、バタフィアから本国へ送られた一六四五年『到着文書集』(Overgekomen Brieven en Papieren uit Indië VOC1148. KA1055. 本所マイクロフィルム六九九八−五−七、同焼付本七五九八−六〇−四九)に収録されているものを底本とした。内容は、次の通りである。
附録一、「商館長ヤン・ファン・エルセラック充東インド総督アント二オ・ファン・ディーメン書状」一六四四年五月二日付
Missive van den Gouverneur-Generaal Anthonio van Diemen aan den president Jan van Elserack. Batavia, 2 Mey 1644.
附録二、「長崎奉行山崎権八郎充東インド総督アント二オ・ファン・ディーメン書状」一六四四年五月二日付
Missive van den Gouverneur-Generaal Anthonio van Diemen aan den gouverneur van Nangasackij. Batavia, 2 Mey 1644.
附録三、「築島乙名海老屋四郎右衛門充東インド総督アント二オ・ファン・ディーメン書状」一六四四年五月二日付
Missive van den Gouverneur-Generaal Anthonio van Diemen aan Ebiya Shiroemon, huyswaart van des Compagnies dienaren. Batavia, 2 Mey 1644.
附録四、「商館長ヤン・ファン・エルセラック充東インド総督アント二オ・ファン・ディーメン書状」一六四四年五月末日付
Missive van den Gouverneur-Generaal Anthonio van Diemen aan den President Jan van Elserack. Batavia, ultimo Mey 1644.
附録五、「商館長ヤン・ファン・エルセラック充東インド総督アント二オ・ファン・ディーメン書状」一六四四年七月四日付
Missive van den Gouverneur-Generaal Anthonio van Diemen aan den President Jan van Elserack. Batavia, 4 Julij 1644.
附録六、「トンキンヘ赴くアントニイ・ファン・ブルックホルストに対する訓令書」一六四四年一〇月二二日付
Instructie voor Anthonij van Brouckhorst naar Tonkin. Nangasacquij, 22 October 1644.
附録七、「長崎商館資産引継目録」一六四四年一一月一〇日付
Transport van d' effecten aen Pieter Anthonissen Overtwater. Nangasacquij, 10 November 1644.
附録八、「ピーテル・アント二ッセン・オーフルトワーテルに対する職務権限委譲書」一六四四年一一月一四日付
Authorisatie voor Pieter Anthonissen Overtwater. Nangasacquij, 14 November 1644.
附録九、「ピーテル・アント二ッセン・オーフルトワーテルに対する訓令書」一六四四年一一月二〇日付
Instructie voor Pieter Anthonissen Overtwater. Nangasacquij, 20 November 1644.
附録一〇、「ヤン・ファン・エルセラックの履歴に関する報告」一六四五年七月一五日付
Sommierlijck verhael der perticuliere gelegentheyt van den President Jan van Elserack. In 't schip Nieuw Selandia, 15 Julij 1645.
 本冊は、一六四三年一一月八日商館長エルセラック一行の江戸参府への出発から始まる。同年七月二九日南部領山田浦で捕縛された十人のオランダ人、すなわちオランダ東インド会社のヤハト船ブレスケンス号の乗組員等の江戸での取調べに伴い、長崎奉行の勧告によって、この年は例年より早く参府が行なわれることになったのである。一二月一日に江戸へ到着したエルセラックは、早速大目付井上筑後守等の審問を受け、八日には十人のオランダ人の引渡しを受ける。一七日暇を許されるとともに、この事件の処理と今後のオランダ人の取り扱いについての申渡しを読み聞かされ、二一日にその書付けを受け取り(それは両長崎奉行に充てた年寄衆連署の下知状の写であり、『到着文書集』中に現存する。本冊の口絵一として掲載)、一二月二四日に江戸を発つ。本冊の記載の前半はこの間の経緯で占められる。
 一月二四日長崎帰着以降の記載の中では、中国各地から来着したジャンク船によってもたらされた中国本土の内乱や一官(鄭芝竜)の動静、オランダ艦隊のカンボディアにおける復讐戦の失敗などの東南アジア情報、ジャンク船に乗組んでいたシナ人の中にキリシタンが発見された一件などが注目される。
 なお、本冊の巻頭には口絵として、前述の「江戸幕府年寄衆下知状案」寛永二〇年一一月七日付(VOC1156,KA10599)、同文書の蘭訳を含む本文底本一六四三年一二月二一日の条のうち一部、附録一〇文書の末尾にあるヤン・ファン・エルセラックの自署を白黒で掲載した。
 本冊の校訂に関しては、ワウテル・エリアス・ミルデ(Wouter Elias Milde)氏、本所外国人研究員レイ二アー・H・ヘスリンク(Reinier H. Hesselink)氏から多大の協力を受けた。編集・校正については、非常勤職員石田千尋、大橋明子、行武和博各氏の協力を得た。
(解説・例言一二頁、目次二頁、図版三、本文三三八頁、索引二二頁)
担当者 加藤榮一・松井洋子

『東京大学史料編纂所報』第28号 p.79*-81