東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本史料 第二編之二十四

 本冊には、後一条天皇の万寿四年(一〇二七)三月から、同年十月までの史料が収めてある。
 この間の主な事柄としては、禎子内親王(三条天皇皇女)の東宮敦良親王参入(三月二十三日の条、二一頁以下)と皇太后藤原妍子(藤原道長女、禎子内親王母)の崩御があげられる(九月十四日の第二条、二七六頁以下)。これより先、妍子はその御所枇杷殿にあって、所生の禎子内親王の婚儀の諸事に腐心していたが、その慌忙のうちに病がちとなり、四月十九日の御悩による御読経及び御修法(同日の条、六一頁以下)を始めとして、権大僧都心誉等による御修法(五月十二日の第二条、八五頁以下)、権少僧都明尊等による御修法(同月二十七日の第二条、一〇三頁以下)などが行われたが、病状は快方に向かうこと無く、八月十三日に至り、御悩により法成寺に渡っている(同日の条、二三四頁以下)。この後も御修法及び大般若御読経が行われるなどしたが(八月二十九日の第一条、二五三頁)、九月七日に至り、御悩により今南御所に遷り(同日の第二条、二六一頁以下)、十四日、同御所に於いて崩じた(前掲)。同日遺令を奏し、翌十五日には固関・警固の儀があり(同日の条、三一一頁以下)、遺骸は同月十六日に大谷に於いて火葬され、ついで木幡に埋葬された(同日の第二条、三一三頁以下)。十月十九日には五七日法会があり(同日の条、三三〇頁以下)、同月二十八日には、法成寺阿弥陀堂に於いて七々日法会が行われた(同日の第一条、三四二頁以下)。
 また、後一条天皇に関する事柄として、内裏飛香舎に於いて行われた中宮藤原威子所生の章子内親王百日の儀(三月二十日の第二条、一九頁以下)と、御悩(五月二十四日の第一条、一〇〇頁以下)とがあり、東宮敦良親王に関する事柄として、禎子内親王との婚儀(前掲)の他に、王子親仁着袴の儀(四月五日の第二条、四〇頁以下)があるが、これには上東門院藤原彰子が臨席している。
 次に入道前太政大臣道長の行動についてみると、前冊と同様に仏事関係にその特色がある。まず五月三日の法成寺阿弥陀堂に於ける等身不動明王像百体の供養(五月五日の条に合叙、七五頁以下)を始めとして、同寺に於ける丈六阿弥陀仏像の供養(同日の条)、同寺新堂への釈迦仏像の安置(六月二十一日の条、一七五頁以下)と続き、八月二十三日には上東門院彰子及び皇太后妍子の臨席を得て、同寺釈迦堂の供養を行っている(同日の第一条、二四三頁以下)。また、四月十三日には道長の病により関白左大臣藤原頼通の賀茂詣が停められる(同日の条、五五頁以下)など、道長の病状は前冊と同様に一進一退を繰り返している。
 この他、太政大臣藤原公季に関する事柄として、男藤原実成第への移徙とこれに伴う藤原能信の閑院への移徙(八月十日の第二条、二二八頁以下)、また外交に関する事柄として、宋の商船の大宰府管内への来着(同日の第三条、二三〇頁以下)とその商客等の滞留の可否などを議す陣定のこと(九月八日の条、二六四頁以下)、宗教に関する事柄として関寺供養(三月一日の条、一頁以下)や法成寺に於ける尼戒壇の建立(同月二十七日の第一条、三四頁以下)などをあげることができる。
 本冊に於いて、その事蹟を集録した者は、入道前右馬頭藤原顕信(五月十四日の条、八七頁以下)・民部卿前権大納言源俊賢(六月十三日の条、一一三頁以下)・木工頭源政職(七月三日の第二条、一八八頁以下)・少僧都実誓(同月七日の条、一九八頁以下)・皇太后妍子(前掲)・命婦乳母(十月十九日の条に合叙、三三三頁以下)などである。
(目次一三頁、本文三四八頁)
担当者 加藤友康・厚谷和雄


『東京大学史料編纂所報』第27号p.69