東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本古文書家わけ第二十一 蜷川家文書之四

 本冊において、これまで概ね年月日順に収載してきた文書の部分が終了した。ひき続き後半部分には、有職故実書類を付録として収めたが、残る故実書および和歌懐紙類についても、付録として次冊に収載する予定である。
 さて前半、文書の部分には、天正五年より安政六年に至る八十七点の文書を収めた。これは、主人伊勢氏の敗死と室町幕府の滅亡によって、蜷川氏が一旦京都を離れ、やがて徳川家康に召されて江戸幕府の旗本として存続していった時期にあたる。従って文書の内容も、室町幕府政所関係史料を中心とした既刊三冊とは大きく異なっているといえる。
 このうち特に点数の多いのは、出羽で客死した親俊(親世)の子にあたる親長(道標)関係のものである。彼はその夫人が長宗我部元親室と姉妹であった縁から土佐に下向し、その地に長くとどまっていた。八一八・八一九・八二二・八六二号等の長宗我部氏関係の史料が蜷川家文書中に存在するのはこのような経緯によるものである。しかし慶長五年、長宗我部氏が領地を没収されるに及んで道標も再び京畿に戻ったらしく、やがて、こんどは家康に召されて、慶長七年山城国内に五百石の地を拝領する(八二九号)。そして以後江戸幕府の旗本として幕末に至るのである。道標は連歌をよくし、また武家故実に関する造詣も深かったとみえ、蜷川家文書中の武家故実書類には道標の手にたる写本が多数存在する。このような関係から家康を取り巻く御伽衆等との親交が生じたのであろう。『寛政重修諸家譜』には、道標が山岡景友(道阿弥)を介して出仕の命をうけ、家康に饗応配膳等の故実を言上したとある。一方家康の側でも、道標のような文化的素養に富み、かつ伊勢氏被官とはいえ旧幕府の中枢に関わった家を旗本に列することは、意味のあることだったといえる。道標の交友の範囲は多様で、彼充ての書状類がそれを物語っているが、なかでも、冷泉為満等知人の何人かに、文書をはじめとする家財を預けている点は、文書を残した家の在り方として興味をひかれる(八四六号紙背・八五三号等)。また、八四二号寿庵祐心書状のいくつかの部分が、『澤巽阿弥覚書』(『続群書類従』武家部二四下)と重なることは、故実書の成立について一つの材料を提供しているといえよう。
 道標関係以外では、彼の孫にあたる親房が伝授を受けた覚天流槍術関係史料(八七五~八八一号)、親房と町野幸長の間で取り交された斎藤・蜷川両氏の系譜調査に関する史料(八八六号~八九四号)、小松川で発掘されたという銅板に関する史料(九〇〇~九〇三号)などが、それぞれの時期の蜷川氏を中心とする旗本層の関心の在り方を示していて興味深い。
 次に付録についてだが、まず配列は概ね故実書、和歌懐紙、その他の順とし、それぞれのなかでは原則として冊次番号順に収載した。本冊には五集と六集の途中までの故実書類を収めたが、特に五集に多い断簡状態のものは、筆跡・料紙寸法等より一連のものと推定できる場合、同一の箇所に収載した。また特に関係しあう史料については、必ずしも冊次番号順によらず、前後して収録することとした。先にもふれたように、故実書類のなかには道標の手になるものが多く、道標充書状を料紙として用いたものもままみられる点が目をひく。なお、蜷川氏と伊勢氏との関係からいって、これらは伊勢流故実と推測できるが、『正続群書類従』武家部等に集められた故実書類と一致するものは極めて少ないことが指摘できる。
(例言四頁、目次一四頁、本文四一二頁、花押一覧三丁、価六、二〇〇円)
担当者 久留島典子


『東京大学史料編纂所報』第27号p.72