東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古記録 二水記 二

 本冊には、前冊のあとを受けて大永元年(一五二一)正月から同五年三月までを収めた。原本の第八に相当していた同四年は、四季すべて伝っていない。また、同三年は、原本の第七(上)に相当する春夏のほか、秋と十二月二十五日条の逸文が伝っているが、事情によって、補遺として最終冊に収めることになった。これらは、往時の原本では第五(上)から第九(上)までに当る部分である。なお、当初全三冊を予定していたが、全四冊に改編することになった。
 さて、前記大永三年秋の冊は、『史料編纂所研究紀要』創刊号(平成元年)の研究報告「二水記について」では、原本の第七ノ下に当るとして、冬の部分と合わさって一冊をなしていたと推論していたが、この部分が写本として存在していたことにより、秋の部分を第七ノ中の冊、冬の部分を第七ノ下の冊として扱われていた可能性が強くなってきた。もっとも、秋冬両方を第七ノ下の冊として扱ってきた冊から、秋冬が別れ別れになったとも考えられるが、写本として存在する秋の冊には、原本の表紙に記されていた筈の巻第、書写者名が写されていない。
 後陽成天皇が廷臣達を分って書写させた禁裏書写本では、この冊が入るべきところに大永五年秋冬の冊を入れて誤って写されている。恐らくは誤ったのではなく、この慶長時点で、書写の底本である原本一括のなかに既に本物の大永三年秋冬の冊はなく、大永五年秋冬の冊が本物然として納まっていたものと思われる。
 本冊の翻刻に際しては、前冊どおり内閣文庫に原本が存在する部分はそれにより、原本の散逸した部分は、禁裏書写本系に属する京都大学文学部国史研究室所蔵の中御門本(勧修寺家旧蔵)によっているが、次の冊から出版担当者となる尾上陽介の調査によって、東山御文庫所蔵の二水記が、禁裏書写本そのものであろうということが分ったため、今後は原本が伝らない部分の翻刻は、多くこの写本によることとなろう。この本によれば、これまでの底本とした写本には欠落していた慶長の禁裏書写本の表紙の巻第と書写者名が記されて遺っているという。二(永正十四年)水無瀬中将(氏成)、三(永正十五年)頭弁(烏丸光広)、四(永正十六年)四辻少将(季継)、五(同年)記名欠く、六(永正十七年)九条殿(兼孝)、七(同年)鷹司殿(信房)、八(同年)日野大納言(輝資)、九(大永元年)二条殿(昭実)、十(同年)左大弁宰相(日野資勝)、十一(大永二年)平宰相(西洞院時慶)がそれである。
 本冊には、後柏原天皇の即位儀(大永元年三月)が収められている。天皇は、明応九年(一五〇〇)践祚したが、二十年もの間、即位の式を挙行することができなかった。永正十六年に挙行を企てたが、頼みとする幕府から用途不調を伝えられ延期となり、翌年も延期、次の大永元年になってやっと挙行の運びとなったものである。記主鷲尾隆康は、日記の中に即位礼服御覧、同叙位儀、即位儀を記しているが、「委細別記之」と断わっている。(三月十七日、二十二日条)別にこれを記す、すなわち別記が存在していたことになるが、現在のところ、行方が分らない。また四月二十七日の女叙位にも「委細別記之」とあるが、これも未だ所在を明かにしない。なお、前に触れた大永三年十二月二十五日条、後柏原天皇笙御灌頂に関する記事も、恐らくもとは日記の中からの抜粋と思われるが、のちに笙や箏など天皇の御灌頂を纏め別冊として収録されていた記事かも知れない。
 天皇の即位にともなって、翌大永二年の日記は、朝儀の記事が詳細になってくる。元日節会、三十年中絶して再興した殿上淵酔、叙位儀、白馬節会、踏歌節会、二十余年中絶して再興した県召除目などである。この点が本冊の特徴といえよう。
(例言・目次三頁、本文二〇二頁、図版二頁、岩波書店発行)
担当者 益田宗


『東京大学史料編纂所報』第27号p.75