東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本近世史料 細川家史料 十三

本冊には、寛永十七年正月より同十八年三月十三日までの三斎忠興宛忠利書状案六六通と年未詳の三斎宛忠利書状案三通(うち一通原本)、および寛永九年十二月十日より寛永十四年末までの光尚宛忠利書状一四五通を収めた。
三斎宛忠利書状は、主に次の案文の留書に収録されたものである。
『三斎様江御書案文』寛永十七年正月−寛永十八年三月(整理番号八−一−三五ノ一ノ四)忠利文書のうち忠興宛書状は、第八巻より収録してきたが、忠利が寛永十八年三月十七日に熊本で歿したため、本冊第一〇八五号文書で一先ず終了する。
次に、忠利文書の継続として、嫡子光尚宛書状を収録する。光尚宛書状は、ほぼ原本で残っており、以下の通りに整理されている、
「忠利公より光尚公ヱ」二十五印   四十通
「同           」二十六印 四十二通
「同           」二十七印 三十三通
「同           」二十八印 三十三通
「同           」二十九印 四十四通
「同           」  三十印 五十一通
「同           」三十一印 三十四通
「同           」三十二印 六十六通
他に、天印二十七番より天印三十三番までに三十三通の光尚宛書状がある。二十五印より三十印までは、概ね年代順に整理されているが、中に「年号不知」とされるもの、年代推定を誤っているものが混在している。三十一印・三十二印は一部を除いて「年代不知」の分である。今回収録するにあたって、年代推定可能なものは年代順に配列することにした。本冊は、寛永九年より同十四年までの書状を収めたので、主に二十五印から二十七印迄と二十八印の一部であるが、全体にわたって目を通し、当該年次にかかる書状を収録した。
忠興宛文書の重要記事としては、まず隣藩相良家の御家騒動があげられる。忠利は寛永十七年四月に暇を与えられ、在国していた。六月、人吉城主相良頼寛と対立する同藩重臣相良頼兄が、那須山の件で、幕府より江戸に召喚されたことに端を発し、七月には、頼寛から派遣された神瀬外記が人吉に到着する。頼兄与党の犬童頼昌は外記を呼び寄せ殺害し、自邸に立て籠った。人吉藩の留守居等は頼昌屋敷を包囲し、七月七日に討ち果たした。忠利は情報収集に努め、三斎や幕府に報告している。事態を重く見た幕府は、人吉に上使三上季正・能瀬頼隆を派遣し、事後処理にあたらせている。この事件は、あまり事情があきらかでないが、この間の忠利書状は、事件の経過を伝える重要な史料である。
八月には、八代城本丸の石垣が、大雨によってふくれ崩れそうになった。この石垣修築についての忠利・三斎の対応は、他にも関連史料が多く興味深い。本冊に収録した史料でも、三斎は、危険回避のため石垣を取り除くには、忠利より島原城主高力忠房・長崎奉行柘植正時に申し入れればどうかと打診し、忠利は両人では何とも返事はできまいと答えている(第一〇四七号文書)。
明けて寛永十八年初頭、忠利は体調を崩した。二月六日書状(第一〇七八号)によれば、前年には全く気分が悪いことはなかったというが、この頃は舌がすくみ手足が痺れるといった症状であった。絶筆となった三月十三日書状案では、手が震えて花押が書けず印判を用いている。この時まだ意識ははっきりしていたが、十四日夜病状が急変し、十七日に歿する。享年五十六歳であった。
次に光尚宛忠利書状であるが、内容的には三斎宛書状と重複するものが多いので、第十一巻・第十二巻の解説(『所報』第二十三号・第二十五号)を参照されたい。
光尚は、元和五年生まれ、幼名は六、寛永十年には十五歳になる。寛永十一年三月、江戸邸において従妹烏丸〓々と結婚。この年十二月には疱瘡にかかったが、半井驢庵の薬で快復する。翌十二年七月には元服し、従四位下侍従・肥後守に補任される。将軍家光から一字を拝領して光利と名乗り、のち光貞、光尚と改名する。寛永十三年十月二日には、〓々との間に男子が誕生するが夭折、〓々も産後の肥立ちが悪く、同月十四日に死去する。
これら光尚身辺に関する記事のほか、光尚宛書状で特徴的なのは、忠利の教育的配慮が如実に窺える点である。
寛永九年末から、忠利は、帰国中の江戸のことをある程度光尚に任せようとしている。光尚が成長し、かつ新領国肥後の統治に専念する必要があったからである。しかしまだ光尚では心許ないということで、折りに触れて幕府や諸家との交際の仕方を指示している。また、光尚に良い家臣を付けてやろうとしており、「新参にても、人からよく、其方心ニあひ可申者ならば」と伝えている(第一〇八七号文書)。これに関連して、柳生宗矩に出入りしていた梅原九兵衛の召し抱えについての忠利の意見は、当時の大名の家についての意識の典型的な一例として興味深い(第一一八九号文書)。
なお、巻頭図版に掲げた書状には、熊本城に初めて入った時の感懐を「事の外ひろキ囲ニて候、城も江戸の外ニこれほどひろキハ見不申候」と自筆にて記している。その時城門に額づいた彼の逸話が想起される。光尚宛書状は原本であるため、忠利の花押の形状を番号で示し、巻末にその典型的なものを掲げた。
(例言二頁、目次一七頁、本文二八三頁、人名一覧三三頁、図版二葉)
担当者 加藤秀幸・山本博文


『東京大学史料編纂所報』第27号p.77