大日本史料第九編之十九

本冊には後柏原天皇大永三年正月より四月まで、この年は閏三月があるので、計五箇月分の史料を収める。
 世上は比較的安定しており、禁裏では、元日の四方拝、小朝拝、節会に続き、和歌御会始(正月十九日)、御楽始(二月十日)、連歌御会(二月十八日)など恒例の行事が滞りなく行なわれた。これ以降月次に行なわれる和歌御会、御楽、連歌御会などの記事は、いずれも年初の記事に併せて収められている。三月二十四日に行なわれた観花御宴は、甘露寺元長の手に成ると推定される御会記が残っており(三千院文書)、花見もまたいわゆる「晴儀」として執り行われたことが窺われる。合叙した二水記・実隆公記などによると、女性たちも連れ立って花見や土筆摘みに出かけている。相次ぐ戦乱のみが思い浮かぶこの時期にあって、生活の余裕を感じさせる記事ではある。
 二月六日、勾当内侍東坊城松子が罷め、高倉継子がこれに替った。松子は典侍に任じられる。時に八十二歳であった。勾当内侍は女房奉書の発給に与かる実務を伴う地位であるといわれる。立ち居もままならぬ松子に果してそれが可能であったのか、この時期の女性の役割を考える一つの史料であろう。
 三月八日、近江の六角定頼は日野城の蒲生秀紀を攻め落した。落城の第一報を朽木氏に伝える朽木文書は(滋賀県)東浅井郡志に収められているが、今この原文書の所在は確認できない。閏三月九日条には、常陸小田政治が同国屋代の合戦で敗れたことを伝える史料が集成されている。無年号文書が多いが、閏月の表示がある真壁文書によってこの年と判断し、綱文を立てた。ここにはまた関東管領の上杉憲房が花押の代りに朱印を捺した文書三点を収めている。臼田文書に「眼病之間、用印判候」と見えるところからすれば、印判の使用は一時的な措置であったらしい。群馬県史編さん室を介して採訪することが出来た小林文書にも、戦傷を見舞う朱印を捺した憲房文書がある。年次はないが一連のものと判断してここに収めた。同じくこの事件に言及している古河公方足利高基の自筆書状(本所所蔵)は、関東の諸情勢を伝える史料としても貴重である。
 知恩院と知恩寺が浄土宗総本寺になろうとして争っている(四月十八日条)。知恩院を推した青蓮院入道尊鎮親王(後柏原天皇皇子)が、知恩寺を本寺と定めた幕府の決定に抗議して高野山へ出奔する、という事件に発展し、幕府も捲き込んだ事件となった。ただし知恩院が本寺になった正確な年次は分からないようである。
 醍醐寺理性院の宗永が弟子の厳助らを連れて高野山へ参詣した記事(閏三月三日条)は、この時期の旅行記として興味深い、この記録は黒川春村の撰になる歴代残闕日記九九に収められていた。ただ同書の当該部分は焼失して、現在では原本との校合不可能である(東京大学史料編纂所報一一号二三頁参照)。幸い和学講談所旧蔵の永正記に引用されていることが判明したため、今回は永正記によって収載することができた。
 この冊には、足利義稙(四月九日)、飛鳥井雅俊(四月十一日)の卒伝を収めている。義稙については、主な事件は既に綱文を立ててあるので、連絡按文によって必要箇所を参照していただきたい。ここでは薨去の事実と、履歴、世系、家族、めぼしい事蹟などの史料をまとめ、ついで義材として将軍位に就いた時期、クーデターで将軍位を追われ諸国を流浪した時期、将軍に復帰した時期と、境遇が変わる度に大きく変化した義稙の花押を一覧できるようにした。概ね同型花押の初見と終見を示した。阿波へ渡ってからの義稙の動静は、京都を中心とした史料からでは不明の点が多く、義澄の男で義稙の猶子となった義雄(義冬)についても、確かなことは義稙の七回忌に堺から仏事銭を寄せたことを伝える実隆公記(享禄二年四月八日条)の記事くらいのものである。義稙の面影を伝える画像は伝わっておらず、わずかに江戸時代の作成とされる京都等持院の木像だけがそのよすがとなる。等持院に安置される足利氏歴代の木像については、人物比定になお検討の余地があり(東京大学史料編纂所報二四号一二〇頁以下の採訪調査報告参照)、今回は収載を見合わせた。飛鳥井雅俊は歌道と蹴鞠で知られた人物である。永正十七年周防に下り、彼の地で没した。雅親の男であるが、雅親が早く出家してしまったため、叔父の雅康(二楽院宋世)が養親となり、歌鞠は雅康から学んだ。晩年の歌集である園草(井上宗雄氏所蔵)は、明記はないものの、少なくともその一部は自筆と見なしうるものである。本冊に収載するにあたっては、所蔵者のご好意で、原本によって校合することができた。飛鳥井家が蹴鞠道家として確固たる地位を占めるのは、およそ雅康から雅俊の時期であったと考えられる。その意味で雅俊によって作成された蹴鞠伝書は重要である。本冊の印刷に入ってから、滋賀県大津市の平野神社に所蔵される、難波家の旧蔵で、飛鳥井家関係の史料も多く含む蹴鞠関係史料群の調査が進められた。雅俊に関する史料でもなお付け加えなければならぬものが出てきているが、全面的な組替えが不可能のため、一部史料について原本と校合したにとどまる。後日を期したい。
(目次一四頁、本文四四五頁、コロタイプ挿入図版三点)
担当者 桑山浩然・渡邉正男

『東京大学史料編纂所報』第26号 p.94-95