東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料 十七

 本冊には安政六年二月の史料と長野義言の日記「秘中要記」一〜三を収めた。
 この時期の中心になった問題は、まず鷹司政通・同輔煕・近衛忠煕・三条実万の四人をはじめとする堂上の処罰であった。この手筈について、義言は二月五日の宇津木景福に充てた書状の中で、次のように記している。
 「政通以下の四方が先非を悔い辞官落飾を願っているから、願い通りに認めるようにという勅答を、老中間部詮勝が関白九条尚忠に届けている。この四方の自白が済んだならば、久我建通以下を吟味し、その罪状を内密に関東へ言上する。関東では彼らの罪状を決定し、それを内々に尚忠へ伝える。尚忠は、その内容を主上に伝えた上で、時宜をみて罰の軽減や免除につき奏上する」(四号)。
 また井伊直弼は、政通などの処罰は天皇の思召であり、関東の指図ではない点を明確にするよう詮勝に指示し、詮勝は二月六日に御意を拝承すると返信している(五号)。こうした処罰手続きについては、天皇も二月七日に承諾の意向を尚忠に伝えていた。ところが二月九日、天皇は急に前言をひるがえし、参内した尚忠に「四方と大原重徳の入道は承知できない。入道させるならば譲位する」と述べた。尚忠が天皇の意見に反対したので、翌十日、天皇は「自分が四方処罰に反対だということは、関東へ申し遣わすには及ばない」と答えた(一四号)。しかし天皇の意向が変わったわけではない。尚忠は十四日に、前述の詮勝の勅答を天皇に差し出したが(一六号)、天皇は、それにも難色を示したようである。
 二十一日、尚忠は京都所司代酒井忠義に、「主上が御不承知なので、四方の入道を取り止められないか」と相談をもちかけたが、忠義は「それは御為にならない」と述べている(二三・二四・二五号)。さらに忠義は二十四日に、右の趣旨を文書にして朝廷に差し出し、尚忠は二十七日、それを奏上すると同時に、「四方処罰の軽減は、関東が反対しているので無理だ」と発言した。ここに至って天皇は尚忠の意見を容れ、「四方処罰の件は尚忠に委任する」との意向を示した(三六号)。以上のような経過で、ともかく四方処罰については幕府の方針が貫徹したのである。
 江戸へ下した公卿の家臣などの吟味の進行は、四方処罰と密接な関連があった。五手掛の中で寺社奉行板倉勝静と勘定奉行佐々木顕発が、吟味打切りを主張していることを報じた景福書状が、二月初めに京都に到着した。義言は二月五日、「関東で弱腰の意見を吐く者がいると、京都で悪人どもが再び力を得る恐れがある。速やかに両人を罷免せよ」と景福に返信し(四号)、詮勝も六日の直弼充て書状で、同様の考えを記している(五号)。義言は更に「江戸表での吟味が穏当との噂が流れているので、京都では辞官落飾を願っていた者が、それを見合わせようとしている」と述べ、罷免を督促した(九号)。両人は二月二日に罷免された。その報知をうけた義言は、「これで王道方が力を得た」と記している(一六号)。
 もう一つの重要な問題は、安政五年八月八日の勅書を水戸藩から返上させることであった。二月六日、朝廷から幕府に充てて「八月八日付け勅書を返上せよ、水戸中納言に対しても返上するよう通達せよ」との御沙汰書が下った。第六号には、これについての詮勝と忠義との往復文書、義言の筆になる御沙汰書の案文などが収められている。八日に江戸の景福が義言に発信した書状の草稿には、「貴兄より詮勝に御差し出しの水勅取り戻し御沙汰書案に、直弼は御不満である」という意味の文が記された後、消してある。御沙汰書の降下にも、義言が尚忠と連絡をとり関与していたことは、以上からも明らかである。
 義言は二月八日、景福に充て「勅書取り戻しが公式に仰せ出され、尚忠も安心している」と書き送った(九号)。この御沙汰書は、詮勝が江戸へ持ちかえることになった。ただ直弼は、「水勅取り戻しは伝奏より仰せ出され、それを所司代から水戸家へ伝達するのが望ましい」という考えであった(二六号)。御沙汰書の文言や伝達手続きをめぐり意見が分かれたため、御沙汰書の水戸家への伝達は、結局、安政六年の末になった。
 間部詮勝は二月二十日、京都を発し大坂へ向かい、二十七日、大坂から帰府の途についた。尚忠は、かねてから詮勝の在京を希望し、直弼も「帰府の可否は、尚忠と詮勝が相談して決めるように」との意向であった(八・三一号)。しかし詮勝の帰府の決意が固かったので、尚忠の希望により、鯖江藩士芥川舟之と義言が京都に残ることになった(一四・一九号)。
 安政五年の五か国との修好通商条約の締結により、六年六月から神奈川・長崎・箱館の開港が決まった。幕府は、右三港の内、神奈川を横浜に変更しようとして、六年二月初め、外国奉行永井尚志・井上清直が神奈川でアメリカ総領事ハリスと交渉を開始した。しかし数次の交渉は不調に終わり、両人の報告を受けた幕閣は、神奈川開港は止むを得ないという意見に傾いた。直弼は、これに反対し、永井・井上を呼び戻して、新たに水野忠徳・堀利煕・村垣範正の三人の外国奉行に交渉継続を命じた(一七号)。その結果、ハリスから「神奈川から横浜への場所がえの可否の返答は五月に行う」との申し出があった。永井と井上は責任を問われ、二十四日に転役となった(三一号)。
 末尾に収めた「手控」一冊・「秘中要記」三冊は、安政五年八月二十五日から六年三月十五日までの長野義言の日記である。自らの日々の行動はもちろん、人の往来、書状の発着などが全て記してあるので、書状の内容やその背景の理解に役立つだけでなく、この時期の朝幕関係を知る上での重要史料といえよう。
(目次九頁、本文三三一頁、図版一葉)
担当者 小野正雄・杉本史子


『東京大学史料編纂所報』第26号p.97