東京大学史料編纂所

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鹿児島県下幕末維新期史料調査

 一九八九年十月二十二日から二十八日まで、鹿児島大学附属図書館・鹿児島県歴史資料センター黎明館・鹿児島県立図書館において、幕末維新期の史料調査をおこなった。なおこの調査には、保谷徹・松本良太および旧所員稲垣敏子が同行した。
一、鹿児島大学附属図書館玉里文庫

天83—666 公辺秘録                        一一冊

  前の九冊は近世中期の地方書で、代官の心得ておくべき箇条を記している。代官から勘定奉行への伺書とそれに対する付札が、朱で注記してある箇所がある。引載してある文書の中でもっとも年代の新しいものは天保年間なので、本書の成立は天保以降であろう。後の二冊は「大坂御政事向之部」と題して、寛永〜寛文期の大坂の触留である。以下、地方書の部分の目録を示す。
 第一巻
  御領私領入会其外万端取扱方伺之事 但 西国御郡代伺廿八ヶ条・用水悪水出入之事・博打出入之事・他所〓添状ニ而来る出入之事・百姓帯刀之事・取上申間敷出入之事・証拠無之出入之事・勤方ニ組入候出入之事・人数吟味懸り之事・囚人差出方之事・関所手形之事・往来手形之事・盗もの質入致候者取斗方之事・密通之男女取斗方之事・疵改之事・盗人ニ逢其儘打過候もの咎申付方之事・親被殺候を不訴出伜之事・欠落者囲置候者之事・長袖類取扱之事・追訴之事・川附寄之事・全日之事・手鎖封印改方之事・在々〓御府内江懸り候出入之事・再欠落者永尋申付方之事・奉公人欠落之者尋申付方之事・奉公人給金本金済申付方之事・逆論之もの取斗方之事・相対死等仕置之事・私領百姓御料所之村役人を相勤候類之事・出作百姓加り候出入之事・出入ニ付添状之事・名田小作等之事・吟味掛り合之者名前年齢相違之事・私領之者御料所之地所所持致居候得者御料所之者エ成訴詔等致度躰之事・由緒有之百姓之事・受証文認方之事・貸金利倍之事・修験自分滅罪之事・旧離帳外届之事
 第二巻
  御料私領寺社領出入公事訴詔其外取斗方伺之事 但 御代官〓伺十八ヶ条・高札墨入并書入在之貸金之儀ニ付問合答之事・聟を帳外いたし候事・横取引負之事・女を誘引出し出入之事・預ヶ米滞之事・強而帰村願候節之事・公事人病気見届之事・公事人江戸旅宿ニ而相果候節之事・人打擲いたし候者御咎之事・裁許并落着伺認方之事・囚人駕籠人足賃之事・寄附地之事・洗濯下女之事・屋敷成之事・喧嘩一件先届之事・召仕候もの欠落之事・他領江片付候女被致殺害吟味願出候節之事・御奉行所ニ而永尋ニ相成候者帳外願出候節之事・妻子を捨家出致候者御咎之事・屋敷内江祠立之事・奥州町大蔵院召捕引渡之事ニ付伺之事・私領入会公事出入等取斗方伺之事 但 御代官〓伺四ヶ条・奥州長友村ニ而口論之節取揚置候脇差取斗方伺之事・信州伊奈郡逢野村百姓金次郎母こん勘当并江戸〓帰村之節町宿御手判形之事・離縁之事・聟養子離縁致再養子娘ニ為娶候事・六ヶ月届之事・六ヶ月届ふり合之事・手鎖之事・下手人之事・身代限り之事・欠落田畑質入之事・勘当伺之事・浪人者取扱等之事・食売下女之事・質屋株之事・出入雑用之事・附込帳之事・疵人療治代之事・他支配之者出入名代ニ頼み候事・裁許伺差出候上内済ニ相成候出入之事・捨子之儀ニ付窺御附札之事・寺院出入被仰出方之事・往来之侍御料之百姓を致殺害候節之事・通懸り浪人願之義有之節之事・通懸り之壱人者相願候節之事・家督出入取捌方之事・公事出入済口等之事
 第三巻
  関八州御料私領〓訴出候出入之事・双方御料私領〓訴出候出入之事・口書認方之事・口書詰文言之事・追放之事・所払之事・上ヶ証文之事・欠落人跡株之事・穢多非人引上ヶ之事・穢多非人帰住之事・越石之事・小作金貸金訴詔一紙ニ而願出之事・小作米金済方日限等之事・切金申付方之事・切金可成分之事・家質金日限申付方之事・切金証文申付方之事・御料私領入組候出入御勘定奉行江裏判添状之事・質地取斗方之事・他所之支配之者参りあばれ候節之事・目安掛并差出ニ相成候出入差別之事・公事出入吟味者差別之事・追込者召捕方心得之事・他領者江手鎖申付之事・盗賊等之義ニ付他領〓掛合在之節之事・疵人有之出入内済之事・親伯父等を相手ニ取候出入之事・入牢之事・手当致置可及沙汰者之事・致牢舎候者病気ニ付江戸宿江御預ヶ之節請書取方之事・百姓刀を帯者売事并仏像建立之義御代官江御沙汰之事・町方地代宿之事・地方取扱之部・日本国中惣高仕訳之事・日本国中人高之事・欠米込米等之事・東海道筋三分一金納之事・厘付之事・夫食種貸之事・名寄帳之事・田畑位付之事・往還道替并新屋敷之事・地境之事
 第四巻
  評定所一座之面々江被仰渡候御書付之事・領地被召上城地并地方請取之事・御代官郷村請取渡心得之事・口米口永之事・諸石代之事・奥州福島領七百文出目之事・伊豆下田御舟蔵大石取払御損失ニ相成候事・岩松万治郎手作田畑始末之事・木を伐候心得之事・川普請申付方心得之事・御伝馬宿絵図前広仕置出火之節用意ニ致候事・宿継限りニ致間敷事・御老中方御状箱取落候者之事・御料私領不法出入之事・下総国赤塚を堀崩シ候始末之事・従者抔ヲ行候裁断候共御代官ニ而率爾ニ聞届申間敷事
 第五巻
  諸宗寺院江□々被仰出御書付之事・寺社懸り江勤方之儀被仰出候御書付之事・田畑永代売買御停止ニ而年季質流御構無之訳之事・年季売之事・抜荷ニ付被仰出候御条目之事・抜荷之者御仕置之儀ニ付伺之事・抜荷ニ付三段御仕置之事・石盛之事・知行分郷之事・夏成之事・検見御取箇附之事
 第六巻
  新規寺社取立之事・出入相済候趣評定所江相届候事・武家江掛り候出入之事・他〓売掛帳面証文等譲受済方願出候節之事・村差出明細帳之事・名主給米之事・裁許と落着差別之事・親殺主殺之事・鉦打類取斗之事・畑上江新家作いたし候事・加判人江掛り候出入之事・寺院呼出其外取斗之事・名代之者咎候事・惣御代官江御料御取締之儀ニ付御触之事・定免ニ付田畑四分以上損毛引方立様之事・御定免年季内田畑荒山欠等之事・公事方御勘定奉行ニ可付分之事・御勝手方勘定奉行江可付分之事・御廻米船積之義ニ付御沙汰之事・御年貢米御蔵納之節不足米金納之義ニ付御書付之事・御代官連名ニ而相伺候廉之事・上知ニ相成御代官被仰付候処先納金有之ニ付取斗方伺之事・唐船持渡之諸色抜荷買取御制禁御書付之事・出売出買之儀御触之事・鉄砲御改之儀ニ付御書付之事・猪鹿おどし鉄砲願之義ニ付御書付之事・鉄砲打并隠鉄砲所持之義ニ付御触書之写・鉄砲打捕候もの御褒美之事・科無之趣ニ候処推量ニ而御仕置伺之義ニ付被仰渡候事・被疵付候もの外之為ニ而相果疵付候者御仕置之事・口論ニ而枉合候上相手相果候得者頓死と相見疵無之ニ付不及下手人事・死罪ニ可成者遠嶋ニ成り候事・巧を以度々金子をかたり取候者盗〓品重キ旨御書付之事・鉄砲あた落ニ而人殺之事・子供怪我ニ而相手相果下手人ニ不及事・奉行所ニ而法外致候もの之事
 第七巻
  御朱印地寺社領心得之事・諸国相場出之事・諸国俵入之事・米取之場所永取ニ不相成事・切支丹類族之義取斗方之事・道中ニ而旅人病死変死等之節之事・野田籐三郎無支配之事・東海道筋ニ而はやり神を取立候宿之事・見取田畑見取場之事・農民取扱心得之事・地方取扱諸事心得之事十八箇条之事・定免之事・高之事・新田開発并起返心得之事
 第八巻
  普請心得之事・検地之事・諸運上之事・土地并村方上下分別心得之事・本石之事・御代官蔵より材木請取候節手数等之事(下略)
 第九巻
  銭と鐚と之訳之事・高掛り物之事・国役金取立方案文等之事(下略)
 第十巻・第十一巻
  幕府の大坂町への触を引載し、それに続いて、大坂町奉行が大坂天満三郷年寄宛に、幕府の仰付を厳守するよう記している。二冊とも全て同形式。
天59—587 天保雑記
  文政年間から安政年間にかけての幕府の達・大名から幕府への差出・町奉行の触・風聞書などを、二二巻(二五冊)に分けて留めてある。主に江戸中心の情報を集めたもので、天保改革の時の詳細な人事の情報(御沙汰書抜)なども含む。全巻が同一人の筆で整然と記してあるので、もろ〓の書付を安政以降に整理して記録したものと思われる。以下、主な巻の内容を紹介する。
 第一巻
  甲州郡内騒動一件。一部を左に例示する。
 「(前略)甲州都留郡八代郡山梨郡村々百姓共騒動之儀ニ付、私領分境江も家来差出置、押来候ハ、取鎮候様申付置候、…品ニ寄玉込相用候而も苦ヶ間敷候、此段奉伺候、以上
   八月廿七日                        諏訪伊勢守
  御付札
  可為伺之通候、時宜ニ寄玉込をも相用候様可被致候」
 第二巻
 「一竹島一件
   松平周防守様御隠居下野守様御事、御老中勤役中、右御在所御家老岡田頼母事、竹島之儀、朝鮮之属地ニ而も候哉、又ハ日本地中ニ□候哉、可致穿鑿存念之由(中略)
     右去十四日、神戸平大夫、私宅へ差越、極内密咄申聞候(下略)」
 第三巻
  出石侯減石一件。「仙石左京〓御近親様方江差出候一件」ほか詳細な記述がある。
 第四巻
  大塩兵八郎挙兵一件。挙兵の翌日の天保八年二月二十日付のものを最初として、大坂にいた田中善左衛門から高崎金之進に充てて連日発信された長文の書状を引載。そのほか、大坂町奉行の廻状、人相書など大塩挙兵に関する記事が多い。
 第五巻
  大塩兵八郎挙兵一件。第四巻の続き。風説書、市中取締令、幕臣や他藩士の書状、大塩の家族の吟味書、焼失家数の町ごとの明細など。
 第九巻
  将軍宣下一件。
 第十一巻
  文化一〇年代初めの雑記事(狂詩/歌謡/事件/象渡来/清朝風俗など)および封廻状/大名の動向(病気届け等)/上覧一件/賞罰記事など。
 第十二巻
  天保九年四月四日、長崎出火一件/同絵図/同風聞類(長崎町役人の報告)/田辺静馬一件/阿蘭人シーフルト一件
 第十三巻
  天保九年三月十日、西丸出火一件/西丸造営御用掛名前書上/西丸造営手伝上納金書上(大名名と金高)/九月三日、西丸書院番松平靱負刃傷沙汰につき切腹一件
 第十四巻
  天保九年の雑記事
 第十五巻
  天保十年神田祭番組書上/肥前国松浦郡百姓騒動一件/天保十年阿蘭陀風説書
 第十七巻
  天保十二年の記事を収める。文例を左に示す。
 「一御沙汰書之内御役替書抜之事、
     附御坊主沢幸佐〓来紙之事、
      尚々別紙之通り承り置候付、御用立候得とも此役は急々は相分り不申候、本文之訳故、呉々も御内覧可被下候、以上
  過刻は御細簡被成下候処、勤中ニ而略儀之御答申上、奉恐入候、先以昨今は少々凌克相成候、益安泰被成御勤仕奉賀上候、しかれハ御問合之筋、別紙ニ仕上ヶ申候、御内覧可被下候、且亦御医師之内御匕之内江御達ニ而も有之候次第ニ候ハゝ可申上旨被仰下奉得其意候、然ル処、右は奥向之儀にて一向風説もいまた及承不申次第ニ付、心当之方相探候得共、此節柄ニ而容易ニ相咄不申候間、有無共相分り不申候、其内何そ能拍子ニ而承り出し候事候ハゝ可申上候、何分も厳密ニ而一寸いたし候雑談も憚り候次第、其上去ル廿五日御目付衆手附之仲間共江は、惣而御政務之儀相洩候風聞ニ付、堅相洩し申間敷、若外々ニ而洩し候者有之候ハゝ可申出旨、御目付衆被申渡、表坊主組頭立合仕候程之訳ニ付、惣坊主共も右之心得ニ而何事も洩し候儀は勿論禁止、并懸り合不申儀は承り不申様ニ自然厳重之次第ニ付、先々当分之内は別而用心不仕候而ハ直ニ及御沙汰候間、何事も相慎ミ申候、右之処ニ而万々御賢察被成下候様奉願候、此段も誠ニ〓僅御心易申上候儀、固く御胸中限御内秘可被下候、穴賢、
    七月廿八日
   尚々此節は御小人目付之方一統隠密方ニ罷出候間、何そあれハ直ニ風聞可申上と申様成時節ニ付、別紙之次第等御小人方江堅ク御咄も無之様ニ奉願候、此節柄故、御小人目付御願之明跡有之候而も容易ニは願出申間敷ト考合仕候、何れニも右次第、何方江も御風聞は堅御用捨可被下候、折角御使故、無拠内事申上候事ニ御座候、御賢察可被下候、以上、                                     」
  本史料から、鹿児島藩が御坊主沢幸佐から情報を得ていたこと、当時天保改革の最中であり、機密漏洩が厳しく警戒されていたことがよくわかる。幸佐書翰中の別紙とは、本書に収められている天保十二年三月二十二日から七月十二日迄の御沙汰書写のことであろう。
 第十八巻
  嘉永五年のもの。情報提供者は田中権左衛門(十番組世話掛、高輪町名主)、柳元文蔵、古谷堅助等である。
 第十九巻
  嘉永六年・安政元年の記事を収めている。情報提供者は田中権左衛門、安藤金平(品川宿役人か)、原田才輔(京都情報)、南部弥八郎等である。ペリー来航時の情報に付、左に紹介する。
 「(前略)
  右見聞之成行、遠見又は船方百姓共申口ニ而不取止儀ニハ御座候得共、奉申上候、以上、
   喜永六年丑六月七日                   南 部 弥八郎」
 「浦賀表異船入津ニ付、町奉行所ニおゐて市中江被仰渡一件
  (中略)
  右は此程之様子承合候処、書面之趣ニ御座候、猶追々可申上候、以上、
   六月九日                       田 中 権左衛門」
 第二十二巻
  安政四年の記事を収める。情報提供者は田中権左衛門が主で、他に神田孫一郎が、四月十四日におきた「細川若狭守家来乱心之事」を左の如く届けている。
 「(前略)
  右は是迄右様之義あまり無之珍事ニ付、申上候、以上、
   安政四年巳四月                     神 田 孫一郎」
地 —2103 幕府目録
  内表紙に「文久二年壬戌十月二日造之、幕府日記 一 起文久二年閏八月二日、尽同年十二月廿九日 源久光白記」とある。島津久光の記した幕府日記写である。但し収録期間は文久三年正月二日迄。   

天182—1225 「歩兵学校」乾坤                   二冊

  歩兵手銃を使用し身体を挙動する大法の図解(図は略されており説明文のみ)/歩兵使銃動身軌範(一七九一年八月一日鏤行)巻一(箕作院甫訳・鈴木春山校とあり)。後者は二編に分けられる。
  第一編 戦陣を部署する時烈競猛屯を布き練る法
  第二編 歩兵学校
 「歩兵学校の区別
  歩兵学校を分けて三部と為す、其一部ハ新兵いまた手銃を操らさる前教練すへき件々を述る
  其二部は手銃を使用し、弾薬を装し、之を点放する方法を載す
  其三部ハ諸種の歩法〔パスセン〕正面・側面の行進法、嚮ふへき方向を取る法、又ハ方向を旋転し変換する法を説く」   

天84—697・698 亜墨利伽図説 海防名応接記 嘉永癸丑       一冊

  はじめに「亜墨利伽略説」がある。
 「アメリカ洲北アメリカ国此大州ハエウロッパ及アフリカ…………ノ極西ニアリ……其初メ西洋人此大州アル〓ヲ知ラズ……三百八十余年前イスハニア覊旅ノ臣閣竜人名幼ヨリシテ航海術ヲ講ズ……
  干時嘉永六癸丑年六月下旬 恕堂原姓写                  」
  次に絵及図を収める。
 「喜永六丑年六月三日……渡来ヨリ帰帆一件浦賀奉行井戸石見守戸田伊豆守両組与力応接掛り役合原両人并ニ飯塚久米三香山栄左衛門近藤良治外一人ヨリ極密ニ聴聞ス不免他見
                         水戸 皆保帆平      」
  とあり合原惣蔵・飯塚久米三・樋田多々郎・香山栄左衛門の五名からの聞書を収める。その中で同じ部分は省いてある。皆保は水戸藩士。

天182—1246 遠西軍艦砲要 全(巻一巻二合綴)           一冊
  和蘭千八百二十八年文政十年ニ当
  海将 以摂(イーセー)姓比喇阿児(ビラール)名著述
  和蘭書林歩也姓部陸引斯(ブロインス)名開板
  日本訳司名村姓貞五郎元義訳文

   名村元義は文政五年稽古通詞(和蘭通詞)、同十一年小通事来席、天保十二年には小通詞となる。(洋学史事典)

天180—1177 西洋諸島詳説二編
  和蘭国都(ロッテルダム)之大学校諸般究理窺
  検術碩学長 哥尓搦里斯納熱万 著述
  和蘭都府亜模斯得児達謨之大学校官人本草究理
  画吏 祈利斯氏亜安設弗 写真
  日本崎陽和蘭訳司 堀好謙訳編
   ロッテルダム大学造物究理窺検術学医メ—ステルマルチアアン、ホウトトインの一七八九年の題言がある。

二、鹿児島大学附属図書館郷土資料室
  同室には、伝記資料が豊富にそろえてある。一部を次に掲げる。
092・8—Ka19 鹿児島市三方限名士顕彰会『三方限名士略伝』一九三五年
092・8—I29 南州神社社務所『丁丑役戦没五氏実歴及外氏名』一九二七年
092・8—I29 野村綱吉『伊地知正治小伝』、鹿児島県教育委員会 一九三六年
092・8—Y73 鹿児島市編『洋学者伝』(郷土叢書)第一輯 一九四八年
           ※八木称平・皆吉鳳徳・松木弘安・中原猶介・足立梅渓
092・8—G55 後醍院良望編輯『自疑舎後醍院真柱先生伝』、鹿児島県教育委員会 一九二九年
092・8—Ko79 黒木弥千代『幕末志士是枝柳右衛門』、是枝翁顕彰会 一九六三年
289・3—W74 佐藤八郎『英医ウイリアム・ウイリス略伝』一九六五年

三 鹿児島県歴史資料センタ—黎明館
  黎明館では展示および収蔵庫を見学の後、葛城文書と山崎御仮屋文書(写真版)とを閲覧した。葛城文書について所見を記す。
○葛城彦一文書
 � 41 船越衛書翰 葛城彦一宛  明治元年十月五日
 「拝誦仕候、然は若松城落去一件書御廻し被下、難有落手仕候、尊藩当春已来不容易御尽力御座候而御成功ニ相成、誠ニ以大賀之至奉存候、扨又昨夜依旧大失敬恐縮之至奉存候、御海恕可被下候、不日参堂実々御礼可申述候、右は貴酬迄若斯御座候、
   初冬五日                             」
 � 112 安政五年二月より六年四月迄の政情手控、一部を左に示す。
「抑去ル嘉永癸丑年墨夷浦賀江入港難題申掛以来ハ、征夷府之御所置古今時勢之変革ニ在之、一概ニ御国威御主張被遊儀ハ、治世之風習左も可有之事ニ候得共、申迄も無之、然処去ル卯年迄ハ追々内備厳重之御達有之、江海之御守衛被仰付候大名ニ到り候而ハ、多年防禦之為国力を費シて励忠勤候処、不測も去ル辰年和親交易御取詰之上、恐多も征夷府将軍之御居城へ夷賊共登城被仰付、剰御饗応、尊敬を被尽候有様、依之夷情切迫之義ニ付、諸藩〓上書且又投文等も有之、無拠次第ニ候哉、去ル巳年十二月林大学頭津田半三郎上京いたし(後略)                               」
 � 114 文久三年日記
  葛城彦一の日記。但し九月二日よりのもの。また途中より文久二年四月島津久光上書等の写となっている。
 � 115 元治元年日記
  葛城彦一の日記。記載例を左に示す。
 「  十一月朔日
  朔日長州為征伐御国人数八手、二本松御屋敷朝五ツ時操出、行軍ニ而御所内罷通、南門ニ而惣勢拝伏、左候而境町御門〓境町筋を押、伏見へ押下候、惣勢皆甲胄陣羽織、奇羅美成立也、御広しき御門前〓御所内伏見迄貴賤男女見物山をなし候、近衛前関白様御初御惣見〓御見物被為在候、                           」
 「  十一月二十六日
  福井頼ニ付、八田知紀へ短冊五枚持参いたし、歌かきもらい、朝四ツ時福井へ相渡候、                                     」
 「  十二月朔日
  朔日終日雨降、朝川畑宗之進来、昼伊達遠江守様内上甲貞一来、藤井氏留守ニ付取会候処、此節水府浪士武田高雲斎初木曽路〓押登ニ付、幕府〓打留候様、尾州・江州・大垣等江下知有之処、昨日江州〓□□□着、廿九日タゴウト川迄着ニ付、朔日ニハ戦争ニ可及趣申来由、彦根藩〓御承候との由也、                     」
  葛城彦一は加治木島津家の家臣で文化十四年十一月五日の生れ。天保五年出府し、同九年平田篤胤に入門、嘉永二年のお由良騒動の際、宗藩の同志井上出雲(藤井良節)、木村仲之丞(北条右門)等とともに筑前に亡命した。文久三年赦されて帰国、邑主の女貞姫が近衛忠房に嫁したので、彦一も近衛家に仕え、明治十三年一月、近衛邸に没した。なお、この文書の大部分は「葛城彦一伝」に引載されている。
四 鹿児島県立図書館
  同館の郷土資料目録でK24に分類されている幕末維新期史料を閲覧した。同史料の大部分はコピーが開架書架にある。   

・天保三年卯四番唐船より送来候流人一件                  一冊

  坊ノ津沖に漂着した唐船が、唐国に漂流した日本人(松平豊後守家来ならびに同領分のもの)十人を護送してきた一件について、目安方が月番老中に報告したもの。
・薩藩四逋士之保庇
  お由良騒動で筑前に逃亡した薩藩士四名の嘉永二年から文久二年迄の経過を記したもの。記載は詳細である。   

・御登御下向御道中日帳 (嘉永四年)                   一冊

  一門加治木島津家の、嘉永四年の正月八日から二月六日までの鹿児島から江戸への往路、三月二十日から五月十二日までの帰路の道中の日記。当時鹿児島藩は「お由羅騒動」によって老中阿部正弘から齊興隠居の内諭をうけ、嘉永四年二月に齊興隠居、四月に十一代藩主齊彬襲封という局面をむかえており、この上下行もそれに関連したものである可能性が強い。「此節ノ御出府ハ、御中途至極ノ御急ニ付、為御持道具等モ過半御引取ニテ被遊御出府候付、御家格不相応ノ御手細ニ付テハ、昼ノ内江戸御着ノ儀ハ御控、夜入御着」と、あわただしい様子が窺われる。   

・江夏十郎関係文書 上下                         二冊

  本所に写本(島津家維新関係史料�・12・5)がある(鹿児島県立図書館のものは原本か)。江夏十郎直義は庭奉行兼鳥預頭取で伽役(「島津斉彬文書」—吉川弘文館—の註による)。集成館・反射炉製造の掛員をつとめ、安政五年には松木弘安と共に長崎に赴き勝海舟や和蘭人と交渉して蒸気船購入をはかった(斉彬の死により中断)。内容は上書及び息子壮七郎にあてた書翰である。
  なお本所所蔵島津家維新関係史料中の江夏十郎関係の史料は、右のほかに、(一)「江夏家書類」(�・12・17)、(二)「江夏十郎上書」(�・1・54)、(三)「江夏家文書」(�・12・12)がある。(一)は江夏の娘歌子自筆の「なミだの雨」と題 する十郎の伝記(他に一点合綴)、(二)(三)は写本で、(二)は上書一点、(三)は大砲鋳造に関する八木稱平・石川確太郎の報告等及び十郎の子壮七郎から父宛の書翰三点である。   

・柴山愛次郎日記 (文久元年)                      一冊

  「鹿児島県史」三巻によると、柴山愛次郎は道隆、寺田屋で討たれた有馬新七の一派。内表紙に「大正九年十二月中浣謄写」「温故知新齊主蔵」、末尾に「長田長愛寄贈」とある。原稿用紙にペン書き。
  九月二十五日分の一部を左に記す。
 「幕役の面々、安藤所におひて折々夷人と応接をなし、機密の事にいたりては外国懸てふ役々を初、左右を払ひのけ、安藤等相対に談合ニ及ぶとなん、今は幕府の内政も醜虜に決をとるかたち也とみゆ、和蘭人シーボルトやら申者は事の大小なく其談合にたちさわりし」 ・藩達留 (文久元年〜元治元年)
  幕令の触流し、藩内への指令、藩役人の人事などの留。   

・京都見聞記 (文久二年四月〜元治元年四月)               一冊

  片山信太郎寄贈。「戌四月十四日薩州侯御上京同日近衛様江御参り」にはじまり、大名の動向、嶋田左兵衛・本間精一郎・池内大学・唐橋村農惣助等の天誅事件、文久三年二月十一日轟武兵衛・久坂玄端・寺島忠三郎の関白宛建白の写、二月二十二日足利氏木像梟首一件等を記す。「亥八月十八日御所騒動之由来」については長州の隠動を強調し、四国連合艦隊下関砲撃の後には
 「此儘ニ而は朝敵幕敵諸藩敵洋敵ニ相成世界中之憎ミを蒙り可申候外無之候御勘考〓
    亥九月廿一日                            」
 という書き手不明の文章があり、その後に「鳴呼此書的当いたしたる書附なれ共洋敵ニ相成候儀を歎息したる心底可憎之甚也」と記す。
 元治元年は二月二十五日の伊勢屋平兵衛暗殺や、四月十六日毛利家厳命家中江触出し之写しなど。

・文久三年薩英戦闘(虎嘯)日乗
  文久三年六月二十七日より記述が始まる。以下内容を示す。
  ○八月(我七月ノ十一日)新聞紙
  ○新聞紙翻訳七月廿二日仕出、長崎詰伊地知氏より同廿五日到来なり
  ○七月十一日南部矢八郎より木村宗之丞へ送遣候書付之写 亥七月廿九日町便より到来
  ○一八六三年八月二十一日(七月八日)横浜新聞写
  ○唐人鐘山へ問合書
  「一鐘山上海におひて英人より合戦の事承居候由、
   一薩州長州に比すれハ格別強しと英人申候由、
   一英人より薩州へ再ひ軍艦差向候筈、薩長共に和議整されハ、いつまても軍艦差向可申と英人含之由、
   一英船七艘の内壱艘ハ上海へ赴き、残り六艘ハ横浜へ行候事、
   一英船弐艘損所尤強し、用ひかたし、
   一英船主弐人打死 一官吏四人打死
   一兵卒何拾人打死
   一魯の合戦を見届候事、虚説ならん、
   一幕府より鹿児島まて案内船の事分明ならす、
   一薩方死亡不少由、
   一薩の蒸気船弐艘湊掛を英より大砲打掛焼、
   一薩の町家数多焼、

  ○一八六三年八月二十二日(七月九日)新聞写
   本文文久三年亥七月廿二日牧野備中守の藩中鵜殿□次郎より加納雄左衛門致借用写取、予九月十二日春山氏より借得て写置ものなり右文久三癸亥八月中中原猶介より実兄周介へ到来
  ○一八六三年八月二十六日(七月十三日)新聞写
  ○「薩与英戦、以薩為強乎為弱乎、勝敗如何、唐人林雲達曰、英人歴年以戦為事、好勝喜争無論、薩之強弱、不勝不止、以今而論、若薩敗則易了詰、若薩勝則英必再起大兵来、兵交愈久則糜費愈多、将来講和之事、貼補之項亦愈大、此一定不易之理也、   」   

・文久三亥六月廿八日英国軍艦薩州山川港江渡来戦争聞書           一冊

  「同年八月写之」とある写本。内容は、・薩州産之者咄/・英夷寇薩彙聞書(長州人の話等)/・(高岡町徳助の話)/同(七月)八日薩州高岡郷士日高十郎江問合候聞書/・(鹿児島城下町喜平治書状)/・高岡志賀清左衛門話。
 「一、七月朔日鹿児島表江夷国船乗込候旨申来候ニ付、高木正右衛門・志賀清左衛門両人即刻出立、都野城迄馬ニ而二時半ニ着、夫〓歩行ニ而重富迄八時半頃着いたし候処、重富町江繋在候薩州蒸気船三艘を異国之者引行候折柄ニ御座候由、…夫〓鹿児島江馳参候処、城下大騒き、大炮之玉所々ニ飛ちり居申候、高木正右衛門ハ城下ニ残り、志賀清左衛門ハ其儘直ニ帰り候と申事ニ御座候」  

・前之浜江異国船七艘到来之上及砲戦候覚                  一冊
  「田代清右衛門記」とある写本。六月二十七日から七月七日までの日誌/風説留。
・英国軍艦渡来戦争実見聞日記/元治元甲子七月於京都長州逆臣一戦実録    一綴

  前者には「再命山大和尚」、後者には「北条氏」と注記がある。前者は、鹿児島戦争をめぐる島津家の届、幕府の命、薩藩内の布達・情報類の留書など。後者は、禁門の変をめぐる記事/七月二十日付在京田代宗次郎より国元同役への問合状ほか/亥十二月長藩家老から薩藩家老宛書状/同返状/文久三年六月二十八日薩州政府→英公使官/同二十九日薩藩川上但馬→ニール宛書簡「右両書共英国ミニストル館ニテ盗写ニ致候故、伝写の誤ハなかれとも本文字義明ならす」とあり。   

・薩英戦大門口台場人数                          一巻
  各砲に配置した人員録
・馬関鹿児島砲撃始末                           一冊

  刊本であるが著者および発行年の記載はない。四一二頁。ペリー来航より四国艦隊下関砲撃までの時期の関連史料を列挙している。対話書が多く引用されている。   

・文久三癸亥年七月島津家ヨリ英国軍艦ヲ打払並鹿児島城略図         一冊

  文久二年三月から同三年八月までの諸史料を引載。「鹿児島県史編纂事務局」の印が押してある。主な内容は左の通りである。
 薩州様ニ而内々御家中江御直書写(文久二年三月)、和泉様被仰出之趣(同年三月)、堺町御門北側への張紙(文久三年二月、開港を主張している嶋津三郎に天誅を加える)、英国軍艦〓差出候書翰之大意(同年二月)、右への薩摩藩の返書(同年二月)、嶋津三郎公武への上書(同年三月)、老中達(同年三月)、薩州イギリスとの戦争書取り大略之次第(同年七月、長岡監物家来駒井卯三郎が見聞の趣を国許へ報じたものを、肥後藩清水彦一より某が聞いて記した)、戦争の見聞(水俣御惣庄屋高橋一之充の見聞記)、横浜新聞紙写(同年七月)。
・外異風説書(写 ペン書き)
  内表紙に「元治元甲子 外異風説書 谷島」とある。文久三年八月より元治元年末に至る風説留。江戸・京・大坂・小倉等より国許に来たものの留である。小倉からは二日で、大坂からは七日から一〇日できている。また長崎代官高木作右衛門の達も多く収められている。
・元治元年甲子自四月至七月京師騒動見聞雑記録(写、ペン書き)
  中に七月二十日付内田仲之助書翰並びに同日付田代宗次郎書翰が収められている。
・五代才助氏書信写
  本写に「此書信原本ハ新屋敷桂家ニ保管シアルモノニシテ、大正五年九月借用ノ上謄写写シ置クモノナリ 大正五年九月二日 川上久良謄写」との注記がある。すべて桂右衛門宛の書翰である。慶応二・三年のもの、年月日順にすると次の通り。
 ○慶応二年六月二十五日付書翰
  「長防馬関辺も既ニ兵端相開候云々」
 ○慶応二年十月十七日付書翰
  「開聞丸米穀運送之儀云々」。つづいて次の文章がある。
 「 長防形勢之儀ハ追々御承知之通ニて、小倉ハボチボチ相戦ひ候由之処、比日宰府〓三雲藤一郎出掛和議周旋取掛候由、芸州ハ今ニ守兵是迄之通相備置有之候、石州ハ都而平静、此内勝房州、芸州厳島迄相下、長より井上文太・広沢勝左衛門外壱人出掛談話ニ及候処、只管薩長を賞美いたし、幕府之失態を歎し、頻ニ開兵之策を相立候由御座候得共、高杉等ハ至極不同意ニ而、三名応接之次第不宜抔と余程異論も有之候由、併山口政府之内ニハ勝之周旋を甘し候説も有之候由、勝ニも再度三田尻辺迄出掛応接いたし度趣意も可有之候付、帰坂之上再会を約置候由御座候得共、当今勝論も不相立、軍艦修覆ニ関係、浪花辺へ碌々進退を見合居申候由、
  一高杉ニも此内〓病気ニ而至極難症ニ相見得、同人相欠候ハゝ、馬関ニも外ニ人物全無之、当地之内情相探候処、近来長府本藩と内実ハ至極之不平ニ相見得、長府政府之三四名ニ面会仕候処、右様之事情ニ付、偏ニ此御方之御援助を相願、長府生子之御内室、御似合之御方も御座候ハゝ、御素生ハ如何様とも不苦候付、申受候儀ハ相叶間敷哉之歎願ニ御座候間、程能相答置申候、乍恐長府之儀ハ極密相懐置候へハ、時変ニ応し離間の一助ニも相成可申哉、本藩ハ馬関之地を奪ひ度赤心ニて、種々策略相醸候由、又小倉之戦ひより奇兵隊□□隊之隔意甚様相聞得申候、                      」
 ○慶応三年正月十三日付書翰
  「宇和嶋注文のポンプ云々」
 ○慶応三年正月二十三日付書翰
  「朝鮮貿易之儀ハ既ニ有川士ニも憤発仕居申候得共、段々熟考仕り申候処、私式手を付候而ハ、往々永続相聞不申様ニも奉存候云々」。また大洲への鉄砲売掛金五千両の件やグラバーに開聞丸を五万□で売却したいとの件等がある。
 ○慶応三年四月十二日付書翰
  「此節他国修行学生都而御引取云々」
 ○慶応三年五月三日付書翰
   石炭商売の件。
 ○慶応三年八月朔日付書翰
  「モンプラン抔多人数罷出候由云々」
 ○慶応三年十月七日付書翰
  「同人儀(折田要茂のこと)私同様人望無之、又余り堂々過きたる所置も御座候得共、……白山一条殆相片付可申候……此節京師ニ於て兵端相開候儀ニも立至候節ハ各国へ布告一条之云々、岩下太夫より細々御聞取被下候半歟、此件ハ最緊要之重事件ニて、御布告之御書面ニよく各国之動静を究候事之由御座候付、克々御吟味之上御認相成候様奉存候、勿論我朝ニ於て感動いたし候文意と彼の感する処ハ大ニ異申候付、夫等之処も御注目有御座度、岩太夫方御退崎後、長藩伊東春助出崎、彼よりも布告之義論有之、既ニ草稿相認め参申候ニ付、刑太夫より御披露相成候半、右之草稿ハ彼之意ニ応相認候趣ニ候得共、拙もの歟と存居申候、右趣意大体御認御送相成候ハゝ、白山ニも申談候方ニも可有御座候哉、             」   

・京在日記 卯九月より 利秋                       一冊

  印刷されていて解題付の桐野利秋の日記。慶応三年九月一日〜十二月十日。日記の所有者は利秋の妹が嫁した伊藤才蔵の後裔に当るらしい人である。   

・江戸増上寺在陣御軍賦役                         一冊

 ○(慶応四)閏四月二十三日付書状、六番隊・足軽隊・五番隊戦死者名
  「(前略)四月廿日同廿三日、岩井駅又者野州宇都宮城ニ於て賊兵攻撃官軍大勝利之次第并御国兵隊之内手負・戦死之人数別紙之通去ル八日朝廷江被為及御伺候段申来候、此段被致承知候、向々江も可致通達候
     閏四月                         内膳   」
 ○閏四月八日付 新納嘉兵衛書状(岩井駅及び宇都宮城攻防に関する戦況報告)
 ○三月晦日付 奥羽鎮撫使参謀大山格之助書状(岡山糺・田尻務宛)
 ○仙台守将内三好監物届書(会津藩の動向・兵力等)
 ○江戸城引渡しに関する記事  

・春日艦船将赤塚源六北征日誌                       一冊

  三月二十日頃から六月四日の記事、赤塚の戦況報告。大正十年、海軍中将東郷吉太郎による写(図書館罫紙に再度写したもの)   

・復古秘録(一〜三)                           三冊
  図書館罫紙による写
・慶応四年辰正月三日より同五日迄鳥羽街道接戦之一記            一冊
  薩藩隊長市来勘兵衛配下の報告書
・戊辰天草出兵記                             一冊

  薩藩天草出兵をめぐる正月二十一日から二月十一日の日誌。出水郷士隊竹添 弥八兵衛(長演)によるものか。付記に「男長禅記」とある。   

・戊辰役出陣日誌                             一冊

  辰七月出兵から巳正月二日帰郷の間の陣中記録。
 「慶応四年七月正月被仰付候段承知仕候ニ付、急速出府仕候処、番兵三番隊島津新八郎隊江被召入、八月三日前ノ浜出帆相成候…(八月)十八日朝四ツ時分同所(久保田)〓行軍ニ而官軍御本営江罷出候所、九条様〓御目通り被仰付、直ニ拝謁相済、…」

・慶応出軍戦状并雑記                           九冊

  薩藩各隊の戦状報告、軍務局調役中宛か。明治二年二〜三月に一斉に提出させたもの。隊により記事に精粗がある。
 �本府小銃第一隊〜第二隊
 �同第七隊〜第一二隊(うち小銃第八隊は「徴兵一番隊ト云」と注記あり)
 �(一〜四番大砲隊)
 �本府小銃第一三〜一六隊/遊撃第一〜三隊
 �本府小荷駄方/器械方
 �外城一〜六番隊
  一、高岡/二、加世田・伊作/三、市来・伊集院・串木野/四、出水・阿久根/五、国府・蒲生/六、川辺
 �御兵具方付士一〜二番隊
 �私領一〜五番隊/大砲隊
  一、都城/二、知覧・鹿籠/三、加治木/四、宮之城/五、岩川
・(慶応)出軍之日誌
  山野田政養によるもの。記事は慶応三年十二月九日から明治元年十一月十二日まで。小隊の戦状報告。
・東山道出軍小荷駄方日記

 弐之三(慶応四年七月二十二日〜九月十一日)               一冊
 弐之四(明治元年九月十日〜明治二年正月三日)              一冊
 三                                   一冊

 ○目次
  「慶應四戊辰年一
   一戦亡記 一戦傷記 一雑記 一警衛出張日記 一凱旋日記三 一東城軍用日記 一出軍略記共三本 一開戦略記
    小荷駄奉行 樺山休兵衛                       」
 ○「東山東海西道進軍并奥州会津エ寄屯り候各隊
        戦亡帳                         」
 ○「東都水道橋辺兵隊警衛ニ付出張日記」(辰四月十六日〜十九日)
 ○「戦争中従奥州毎度東城エ致往来候日記」(辰六月十五日〜十九日、七月八日〜二十三日)
 ○「十月十六日東京出立之各隊肝付郷右衛門曳受致帰陣候日記写」(辰十月十六日〜十一月四日)
・東山道出軍小荷駄方日記

 (雑誌)                                一冊
 原題は「別籍漏余東山道出軍小荷駄方日記 雑誌」。
 ○「別籍漏余 雑誌 東海道出軍人員等込ル」
  内容は各隊宿割・出軍中諸入用払勘定総本・兵食方人員・於白川八月中旬相改総人員等。
 ○「開戦略記」
 ○「城州鳥羽ヨリ奥州会津迄出軍略記」
  末尾に「明治二年己巳七月初旬、此略記忠義公依命備 尊覧候事」とある。
・明治戊辰伏見鳥羽戦役戦死負傷人名並ニ報告集               一冊

  ペン書き。坂田長愛寄贈(坂田氏は島津家編纂員)。
 (書キ出シ)「久留島伊豫守様藩中小川平蔵作間主税京都〓去ル十七日鹿児嶋江罷通候節御船手之者とも中村藤助覚書左之通……
  一正月六日…(箇条書で経過を記述)
  一今度朝敵征討ニ付九州之諸侯よりは此御方〓夫々使節被差向……布告文被相渡…逆賊…則追討…一統奉承知候様向々江致通達……領主諸所へ可申渡候
    慶応四年正月 図書・右衛門・龍衛・内膳               」
  (報告)
 「○山之内一郎殿親父作次郎殿江被遣候書状写
  ○大砲隊小隊長平吉左衛門報告
  ○大寺矢七殿書状写 辰正月十六日 大寺雄之介宛(…戦争後金子五両頂戴……外に壱両被成羅沙之パッチ抔相調申候)
  ○森八之進 正月十日 父宛
  ○相良甚之丞氏書簡 辰正月五日 母・主水・守衛宛            」   

・戊辰戦役薩藩各隊行動                          一冊

 「一鹿児島出発年月日並上陸地
  二出征地並月日
  三戦斗又ハ守衛場所並月日
  四凱旋出発地月日並鹿児島着月日
  五隊長並官軍氏名(小隊長・分隊長・監事・教導の氏名)
   (隊名は、私領四番隊・四番砲隊・私領五番隊・出水隊・帖佐隊・垂水隊・頴娃隊・喜入隊・加治木隊・苗代川隊・阿多隊・平佐垂水隊・伊集院郡山隊・隈ノ城串木野隊・清水日當山隊・財部末吉隊・鹿屋小根占隊・重富都之城隊・高江水引隊)
   (高江水引隊は函館に行く命令があったが、西郷が城下兵を率いて来り、乗艦の都合上、此の隊は出征するをえず止むを得ず隊長・半隊長のみ出征)    

・殉難人名誌 (明治元年)                        一冊

  戦死した鹿児島藩士の名簿。明治元年、山城・下野・出羽・下総・上総・武蔵・陸奥・越後の各国の戦いにおける戦死者を、「隊号・等級・官名・姓名・年齢」「死没年月日・地名」「本貫属族・国郡郷里・親族」の項目に整理して表にしてある。
                       (小野正雄・宮地正人・杉本史子)


『東京大学史料編纂所報』第25号p.36