大日本史料第十一編之十九

本冊には、天正十三年(一五八五)閏八月から同月是月まで、ちょうど一ヶ月間の史料を収載した。
 前月の八月に、羽柴秀吉は土佐の長宗我部元親と、越中の佐々成政を降し、畿内とその周辺はおしなべて秀吉の傘下に入ったが、閏八月になると、秀吉はこの地域で大がかりな国替えを次々と断行した。まず越前と加賀半国を領していた丹羽長重を若狭に移し、堀秀政を越前北荘に入れた(十三日条)。ついで大和の筒井定次を伊賀に移して、大和は自らの弟の羽柴秀長に与え(十八日条)、さらに近江に甥の羽柴秀次を入れ、山内一豊らに補佐させ、また高山重友を播磨明石に、中川秀政を同国三木にそれぞれ配置した(二十二日条)。短時日のうちになしとげた国替えによって、秀吉の畿内近国支配は大きく前進したが、国替えの対象となった地方の混乱は大きく、大和の武士たちが動転しているさまが「多聞院日記」から窺える。
 畿内近国では統一が終了していたが、東国や西国では、依然として戦いがくり広げられていた。信濃では上田の真田昌幸が、上野沼田の放棄を強要されたのに怒って、徳川家康に反旗をひるがえし、家康の将の鳥居元忠・大久保忠世らが大軍を率いて昌幸を上田に攻めるという事件がおきた。真田方は大軍を相手に善戦し、国分寺において大勝利を収めた(二日条)。徳川勢はその後丸子で若干の勝利を得たが(二十六日条)、上田を陥すことの難しいことを悟った家康は、井伊直政らを派遣して軍兵を引きとらせ、徳川の大軍は撤兵した(二十八日条)。
 また九州薩摩の島津氏は、肥後の甲斐氏に八月に花山城を陥された報復を試み、閏八月になって肥後に出兵し、ついに肥後一国を手中に収めた(十五日条)。また奥羽の伊達政宗は、対立する大内定綱の属城の小手森城を攻め、ついにこれを陥した(二十七日条)。中央では戦乱が終息したこの同じ時期に、九州の島津氏と奥羽の伊達氏は領土拡張の戦いを進めていたのである。
 なお以前から伊勢神宮の遷宮が企画されていたが、遷宮の前後をめぐって内宮と外宮が対立し、結局は秀吉の意をうけて内宮遷宮を先行することが決定した(二十三日条)。伊勢神宮の遷宮は十月に行なわれるが、内宮・外宮の対立に関係する史料は本冊に収めた。
 このほか史料の量はさほど多くないが、秀吉による諸公家・諸門跡領の安堵(十一日条)、紀伊国内の検地(九日条)、大和の寺社の秀吉への所領指出提出(是月条)、大和多武峯衆徒の兵器の没収(二十五日条)などの、秀吉の畿内支配の進展を示す記事が存在する。また国替えの行なわれた直後の越前において、国中蝋燭司の補任(十四日条)、北荘天守の修築と縄の徴収(二十五日条)などの施策がなされていることも注目される。
(目次一〇頁、本文五三四頁)
担当者 酒井信彦・山田邦明・鴨川達夫

『東京大学史料編纂所報』第25号 p.79*