大日本史料第三編之二十二

本冊には、鳥羽天皇元永二年(一一一九)四月から同年七月までの史料を収める。
 この間の主な記事を掲げると、四月一日、暦道が日蝕の由を奏したので清涼殿で御読経を行ったが、蝕は現れなかった。同月十四日、仁和寺の堂舎の殆どが護摩の失火により焼亡した。法皇の発願で再建が始まり、七月二十三日に観音院灌頂堂の木作始が行われた。
 五月二十八日、後の崇徳天皇となる鳥羽天皇の第一皇子顕仁親王が誕生。前年正月二十六日中宮に冊立された藤原公実の女璋子は本年正月五日に御着帯の儀が行われ、種々の平産祈願(四月二十七日条・五月二十一日条・同二十六日第二条)及び未断軽囚の原免が行われ(五月十四日第二条)、四月十五日及び五月二日に御産定を行っている。顕仁親王誕生及びその後の産養については、白河法皇の積極的な指示や中宮の祖母藤原光子・伯母同実子の参与や、乳母の動静や、更に堀河天皇に近侍し、その崩御の前後を「讃岐典侍日記」に著わした藤原長子が憑依し堀河天皇霊と称し、皇子の誕生を予告するなどの生々しい記事を含む「長秋記」・次第を整然と記し定文を収める「源礼記」と「同委記」・御湯殿読書の役を奉仕した大外記中原師遠の「外師記」・大学頭藤原敦光の「敦記」・鳴弦の役を奉仕した藤原有成の「有成記」等があり(「源礼記」以下は『御産部類記』所収)、後一条天皇の誕生の記事と共に平安時代の御産の最も詳細な記事となっている。
 なお「古事談」では皇子の父を白河法皇とし、鳥羽の「叔父子」と記している。皇子は六月十九日、顕仁と命名され、家司等が補任され、七月二十日、親王御行始、同月二十一日、御五十日の儀が行われた。
 またこの冊では白河法皇が摂関家の荘園所領を抑える動きとして、伊賀国春日社領荘園の停止(五月二日条)、山科散所を寄進せしめ(同月十二日条)、春日社と興福寺の蔵人所御厨への横妨を咎める(六月七日条)等がある。
 文芸では七月十三日に内大臣藤原忠通歌合が行われた。題は草花・晩月・尋失恋で、歌人は忠通・藤原基俊等二十二人。判者は藤原顕季。引用した根津美術館所蔵「内大臣殿歌合」は顕季の判詞のみを記すが、静嘉堂文庫本は基俊と考えられる判詞も収めているので、校合を行う形で載録した。根津美術館所蔵本は陽明文庫所蔵の「類聚歌合」の断簡で草花・晩月の部分のみで、題の「尋失恋」の三字を擦消し、「題三」の三を二に改めているので、巻首の部分を挿入図版とした。
 七月から九月にかけて、白河法皇が藤原宗忠に対し「後小野宮記」の献上を求めた(七月二十六日条)。「中右記」は、この法皇の求めを受けて、講じた種々の対応を詳細に記しており、当時の貴族社会における重書の扱われ方を示す書誌学上極めて興味深い史料である。
 本冊にその事蹟を収めた者は、法成寺上座宗厳(四月二十一日第二条)、前大宰権帥藤原季仲(六月一日条)、前権大納言源俊実(同月八日条)、大仏師頼助(同月九日条)、阿闍梨静俊(同月十六日条)、淡路守藤原説雅(七月十六日条)、左衛門少志安倍資清(同月二十三日条)である。このうち藤原季仲は、蔵人頭として時の得人と称せられ、その記録である「玄記」は「平家物語」に「くろき頭」と嘲弄せられたように色黒に因むものか。大宰権帥在任中荘園整理を行うなど活躍したが、筑前竈門宮との紛争から周防、のち常陸に配流された。源俊実は蔵人頭・検非違使別当を経て、天永二年権大納言で病により職を辞したものである。
(目次九頁、本文三六一頁、挿入図版一葉)
担当者 岡田隆夫・石井正敏・上杉和彦

『東京大学史料編纂所報』第25号 p.77