東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本近世史料 細川家史料 十二

本冊には、前冊に引きつづき、寛永十二年正月より、同十六年末に至る五年間の、三斎忠興宛忠利書状二二九通(第七八六号〜第一〇一四号)と関連文書三通を収めた。このうち、書状原本は一通である。その他は、案文の留書に収録されているものと、一紙の書状写である。本冊に収録した留書の書名及び整理番号は、次の通りである。

『三斎様御書案文』寛永十二年正月−十二月 (整理番号四−二−一〇五ノニ)
『三斎様御書案文』寛永十三年三月−十二月 (整理番号八−一−三四ノ二)
『三斎様御書案文』寛永十四年正月−十一月 (整理番号四−二−一〇五ノ一ノ二)
『三斎様御書案文』寛永十四年十一月−同十五年正月 (整理番号四−二−一〇五ノ一ノ一)
『三斎様御書案文』寛永十五年正月−十二月 (整理番号八−一−三四ノ三)
『三斎様御書案文』寛永十六年正月−十二月 (整理番号八−一−三四ノ四)


右の書状案を収載するにあたっては、前冊までと同様、必ずしも留書の記載順によらず、年月日の順に配列し、各冊ごとの整理番号は省略した。なお、本冊所収の忠利書状の時期は、忠興文書の第六・七巻に当る。
寛永十二年初頭、忠利・三斎ともに帰国していたが、忠利は正月十六日に熊本を、三斎は三月十二日に八代を立ち、参府の途につく。二月十四日に江戸に到着した忠利は、幕府政治の動きに注意している。三月十二日には、対馬藩の御家騒動である柳川一件が親裁され、四月中旬には、年寄等が日々夜々武家諸法度の起草に追われている。三斎は眼病治療のため、暫く京に滞留した後出府し、九月六日には江戸を立ち、国元に帰っている。
将軍家光の動静に詳しいのも忠利文書の特徴で、この年四月には、家光の咳気に言及し、その健康状態の不安なるを報じている。翌年五月には、家光の威光強く、年寄等もなかなか事の披露が仕難いといった政治の裏面を伝えている。
寛永十三年五月十二日、暇を与えられた忠利は、翌日江戸を立ち、六月六日熊本に到着した。七月十六日には、落雷のあった熊本城本丸を見、「ふしぎ成者にて御座侯」と感想を述べている。八月四日には、前年十月より八代に帰っていた三斎に柳生流の雲林院某を送り、兵法を供覧している。
翌寛永十四年三月十二日、忠利は熊本を立ち、閏三月九日江戸に到着する。この年、家光の健康状態はことに悪く、発作がしばしば起り、気弱になったり、周囲の者に当たりちらしたりという状態であった。八七七号覚書案等に、家光の病気の詳細な報告がある。そのような中で、年寄中の実力者土井利勝と酒井忠勝の仲が険悪になり、利勝は下屋敷に引き寵もった。忠利は、利勝を欠いて円滑な政務処理はできないだろうと感想を漏らしている。
十月十六日、健康をそこねていた忠利は、少し回復したのを機に、鎌倉へ湯治に赴いている。滞在中に旧知の間柄である長崎奉行榊原職直等が訪れたのは、嬉しい出来事であったろう。
十月二十七日、島原と天草においてキリシタンが鋒起した。いわゆる島原の乱である。最初光尚が出陣を命じられ、乱の長期化に伴い、出陣の命を受けた忠利は、病み上がりの身であるにもかかわらず、三斎も驚くほどの速度で有馬に向かい、諸部隊に指示を与えている。この戦いの様子が詳細なのが、本巻の最大の特色である。攻城の際の戦略が様々な形で行われている。先ず仕寄にて寄せ、井楼を立てて城内の様子を探り、井楼から鉄炮で撃ちおろし、忍びの者を送るなど当時の戦略が展開されている。また、黒田勢や寺沢勢の仕寄の遅れや、総攻撃の際の黒田勢と鍋島勢との競り合い、味方討ちなども詳細に記されている。翌十五年二月二十七日の総攻撃では、忠利が一番乗りを果たしたが、江戸ではそれを虚偽とする噂もあり、江戸の三斎へ自分の真意を伝えるのに苦慮している。戦後の論功行賞に関する忠利と三斎のやりとり、信長時代との比較も興味深い。
その後、忠利は国元にて休息し、翌十六年三月二十三日に出府する。家光の健康状態も回復しており、平穏な生活であった。
細川家の家族関係では、寛永十二年七月光尚が元服・任官。光尚室〓々が翌十三年十月十四日に死去し、〓々に生まれた男児も十二月十二日に夭折しているが、これらについては本冊に記事はない。また、同十五年、〓々の実家烏丸家では、八月七日に当主光広が、九月二十一日には光広の嫡子、〓々の父光賢が歿した。忠利は、打続く不幸に驚き、また一人残された幼い資慶を思いやっている。
口絵には、留書中、同一書状であるにもかかわらず、丁替りに執筆者が替っている例、また一つ書の問・指示に対する請書の書方の例として二点を載せた。
(口絵二枚、例言二頁、目次一九頁、本文二九二頁、人名一覧二二頁)
担当者 加藤秀幸・山本博文


『東京大学史料編纂所報』第25 号p.80