東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本史料 第二編之二十三

 本冊には、後一条天皇の万寿三年(一〇二六)二月から、同四年二月までの史料が収めてある。
 この間の主な事柄としては、右大臣藤原実資が上卿を勤めた旬(三年四月一日の第一条、三一頁以下)と中宮藤原威子の御産(十二月九日の条、二一七頁以下)があげられる。二孟旬の行なわれたのは、寛仁元年四月一日以来実に九年ぶりのことで、旬儀を見ようとする公卿官人等による喧騒の中に行なわれた儀式の模様については『官奏記』(小右記逸文)に詳しい。また威子の御産については、閏五月二十八日に御懐妊による御祈りが一条院や大神宮以下の諸社・諸寺で行なわれた(同日の条、一二一頁以下)のを始めとして、御退出の日時・場所等の卜定(六月十七日の条、一二六頁以下)、御着帯(七月四日の第二条、一三一頁)、御産のための大炊御門第行啓(九月二日の条、一六二頁以下)と次第し、十二月九日の皇女章子の誕生(前掲)に至っている。この後、四年正月三日に、威子は章子を伴って内裏に参入し(同日の第二条、二八八頁以下)、ついで同月二十九日には中宮御所において章子の五十日の儀が行なわれ(同日の第一条、三二七頁以下)、二月十一日には章子を内親王と為す宣旨が下されている(同日の第二条、三三七頁以下)。
 また後一条天皇に関する事柄として、御悩があげられる。御悩は、三年五月二日頃より起こり(同日の条、六八頁以下)、同月九日に至り一時平癒(同日の第一条、七一頁以下)、翌閏五月五日には再度の御悩により御修法が行なわれている(同日の条、一一八頁以下)。御悩は寸白また気腫ともいい、訶梨勒の服用を始め種々の治療が施されているが、この間御悩平癒のための御祈りや御修法も行なわれ、五月十一日には、大僧正深覚に御悩加持の勧賞を以て輦車が聴されている(同日の条、七七頁以下)。なお東宮敦良親王についても、御悩により四年二月二十六日東宮御所において孔雀経が転読されている(同日の第三条、三四六頁以下)。
 太皇太后藤原彰子は、これより先、三年正月十九日落飾して上東門院と号したが、二月十三日には封戸二百戸が加え奉られ(同日の第二条、一〇頁以下)、三月二十六日に至り始めて内裏に参入し(同日の第一条、二六頁以下)、四月二十七日には同院殿上始が行なわれている(同日の第二条、五八頁以下)。
 次に入道前太政大臣藤原道長の行動についてみると、前冊と同様に仏事関係にその特色がある。まず四月三日に法成寺に逆修を行なった(同日の第二条、四六頁)のを始めとして、家例仏事(七月八日の条、一三一頁以下)、家法華三十講(九月八日の条、一六六頁以下)、法成寺における修正(四年正月九日の条、三〇五頁以下)と続き、二月二十九日には同寺十斎堂に丈六仏を安直している(同日の第二条、三五二頁以下)。また、この間の三年八月十五日には出家後始めての輦車による参内を果している(同日の条、一五五頁以下)が、四年正月八日以降病悩に関する記事が多く見受けられるようになり、病状は一進一退を繰り返している(同日の第三条、三〇三頁以下)。
 この他、関白左大臣藤原頼通に関する事柄として上表のこと(三年三月二十一日の第一条、二二頁)、実資に関する事柄として輦車を聴されたこと(四月一日の第二条、四三頁以下)、内大臣藤原教通に関する事柄として三条天皇皇女�子内親王の降嫁(二月五日の条、三頁以下)をあげることができる。
 また四年正月から二月にかけては焼亡に関する記事が多く注目されるが、正月三日の法興院・安養院の焼亡(同日の第三条、二八九頁以下)を始めとして、皇太后宮における放火(二月二日の条、三三二頁以下)、右近衛府及び図書寮雑舎等の焼亡(同月二十六日の第四条、三四九頁以下)、兵部卿昭登親王第の焼亡(同月二十八日の第一条、三五一頁)などをあげることができる。
 本冊において、その事蹟を集録した者は、少僧都懐寿(三年四月二十八日の条、六二頁以下)・権中納言藤原公信(五月十五日の条、八四頁以下)・主計頭安倍吉平(十二月十八日の第二条、二三〇頁以下)・蔵人所雑色藤原重経(年末雑載、社会の条、二五九頁以下)・典薬頭菅原典雅(同上、二六〇頁以下)・神祇権大副大中臣公枝(同上、二六三頁以下)・豊受大神宮禰宜度会常貴(同上、二六五頁以下)などである。
(目次一八頁、本文三五四頁、原色挿入図版一葉)
担当者 加藤友康・厚谷和雄


『東京大学史料編纂所報』第24号p.64