東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古記録 二水記 一

 『建内記』全十冊の刊行終了の後を受けて、権中納言鷲尾隆康(天文二年薨、四十九歳)の日記『二水記』の刊行を開始する。全三冊。平成六年度完結を目標にしている。本冊には、隆康二十歳・二十一歳の、永正元年(一五〇四)・同二年の日記抜粋と、三十三歳から三十六歳まで、永正十四年から同十七年までとを収めた。
 『二水記』の出版計画は四十年以上も前に溯り、原稿の作成も既に終っていたが、諸般の事情で今日まで延引して来た。内閣文庫所蔵の原本を底本とし、勧修寺家旧蔵の中御門資�書写本を以って散逸部分を補うという方針も、その時のままである。
しかし、四十年前とすべてが同じかというと、若干、異った点もある。その後の諸写本の調査によって、写本の多くが、慶長六年(一六〇一)、禁裡の命を受け、廷臣らが各自分担を決めて原本を書写した一祖本から派生したものであること、この祖本からさらに派生した流れは未詳であるが、写本を彼此対照することによって、祖本の復原は可能であるとの結論に達したこと、翻刻に際しては割愛された紙背文書や原本の記述からみて、この原本は、日々、記録された日次記ではなく、後年になって記主自身が整理浄書した本であること等が判明したため、以前の校訂の方針を改めることになった。
 また、『二水記』の写本には誤字が多いが、それは必ずしも写し手の粗雑さに起因しているものばかりではなく、隆康の浄書の際に犯したと思われる誤りに因るものも多いようである。一例を挙げれば「堂」と「室」の字の混淆である。隆康は「堂」の上半分と「室」の下半分とを重ねた「〓」と書くことが多いが、この「堂」らしく見える字も、例えば東大寺西室公順を指す人物に多く用いられているところから考えれば、「室」を充てる方が穏当であろう。「御堂」を塗沫して「御室」と自ら傍書した例もある如く、堂室の混淆は、両者それぞれに似通った意味もあるため、校訂、判読に苦しむところである。したがって写本における「局」と「房」との混淆も、あるいは原本における筆の運び方の癖に起因した誤写から出たものと考えられる。翻字校訂に神経の多くを費やした所以は、ここにあるといってよい。
 さて『二水記』は、隆康の死の前後には、次のような形であった。記の始まりは、永正十四年(一五一七)、記の終りは、天文二年(一五三三)で、全体を十七巻に分ち、多くの巻が、上下、あるいは上中下に分冊されている冊子本であった。この日記のほかに、隆康自身が、後年、日記から抜粋した記事(永正元年・二年)一冊がある。永正三年から同十三年までは、何故か、隆康は日記をつけようとはしなかった。また後年にも、日記をつけない期間がある。このように、原形態を具体的にすることができる日記は、珍しいものといえよう。このうちから、永正十五年八月−十二月、同十六年五月−九月、大永三年秋冬、同四年四季、同五年夏、享禄二年四季、天文元年夏を収めていた冊は早く散逸したため、写本としても本文が今日に伝っていない。これらの点については、別に稿を改めて述べる予定である。
 なお、書名に用いた「二水記」という記名であるが、原本では、日月を意味する烏兎を使った「烏兎私記」のほかに、「一水記」(永正の永に因るか)、「一止記」(永正の正に因るか)、「二水記」(永正の永の異体〓に因るとされている)など、区々である。何故か、江戸時代から「二水記」の記名で全体を呼ぶようになって来た。今、『大日本古記録』に収めるにあたって、この「二水記」を用いることにした。また、解題、索引、記主の略系と年譜は、他の日記と同様、最終冊に附収する予定である。
(例言・目次七頁、本文二五九頁、図版二、岩波書店発行)
担当者 益田宗


『東京大学史料編纂所報』第24号p.68