東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

日本関係海外史料 オランダ商館長日記 原文編之七

 本冊は、オランダ商館長日記原文編の七冊目に当たり、原文編之七(自寛永十九年閏九月至寛永二十年九月 Original Text Selection I, Volume VII. October 29, 1642-November 8, 1643.)として刊行したものである。本冊の底本となった原写本は、一六四二年十月二十九日から一六四四年十一月二十四日に至る、ピーテル・アント二スゾーン・オーフルトワーテル(Pieter Antonisz. Overtwater)とヤン・ファン・エルセラック(Jan van Elserack)の商館長二代、二ヶ年余に及ぶ三種類の記録を一冊の簿冊に追い込みで謄写したものであるが、本冊では紙数の関係からこれを二分し、その前半部分を翻字翻刻した。
 底本として利用した原写本は次の(イ)、(ロ)、(ハ)の三種の記録より成る。
(イ)上級商務員ピーテル・アント二スゾーン・オーフルトワーテルの長崎商館長としての公務日記、一六四二年十月二十九日に始まり、一六四三年八月一日に及ぶ。底本の原写本には、表紙にこの写本全体の標題として、
Dagregister des Comptoir〔s〕 Nangazackij van de jaaren 1642/1643 en 1644
なる記載があるが、この第一の日記固有の標題を欠いている。そのため、翻刻に当たっては、便宜上、他の二写本〔B、C本〕に拠り、左記の標題を補った。
Daghregister ofte dagelijckse aentekeningen des Comptoirs Nangasacquij gehouden ende gedaen bij Pieter Antonisz. Overtwater, oppercoopman ende opperhooft over 's Compagnies ommeslagh en handel in Japan, naer 't vertreck van den E. Jan van Elserack, t'sedert 29en October des jaers 1642 tot den [8en November 1643.]
なお、オーフルトワーテルの商館長としての任期は一六四三年八月一日までであり、それ以降、彼が同年十一月中旬に長崎を離れるまでの期間は後任のエルセラックの公務日記に含まれ、本文の記載も一六四三年八月一日で終わっている。
(ロ)上級商務員ヤン・ファン・エルセラックのバタフィアよりトンキン・タイオワン経由で長崎に到るヤハト船リロ号('t jacht Lillo)の航海日記、一六四三年四月二十四日に始まり同年七月三十一日に及ぶ。次の標題を有する。
Dachregister gehouden bij den E. Jan van Elseracq, vertreckende van Batavia's rede met 't jacht Lillo over Toncquyn naer het Keyserrijcke van Japan omme aldaer des Compagnies ommeslagh als opperhooft te dirigeren, beginnende den 24en aprill anno 1643.
(ハ)上級商務員ヤン・ファン・エルセラックが一六四三年八月一日、長崎に上陸し、オーフルトワーテルより長崎商館長の職務を引き継いでから、翌一六四四年再度エルセラックの後任として長崎に来航したオーフルトワーテルにその職務を引き継ぎ、十一月二十四日に離日するまでの公務日記で、本冊では、一六四三年十一月八日の条、即ち、エルセラックが参府のため長崎を離れるまでの分を掲載した。冒頭に次の標題がある。
't Vervolgh van 't dagregister des comptoirs Nangasacquij gehouden bij den E. Jan van Elseracq, opperhooft over 's Compagnies ommeslagh in Japan, t'sedert primo augustij anno 1643 dat aldaer arriveert tot 24en november anno 1644 dat wederom over Tayouan naer Batavia vertreckt.
以上が、本文の底本に用いた写本の構成である。原本はオランダ国ハーグ市、オランダ国立中央文書館(Het Algemeen Rijksarchief, 略称ARA)所蔵、『日本商館文書』(以下NFJと略記する)第五七号、旧番号KA一一六八七番で、翻刻に際しては、本所所蔵のマイクロフィルム複本(本所架蔵マイクロフィルム番号六九九八−一−四−一、同焼付本七五九八−二−二〜三)に拠った。なお、本文の校訂に利用した異本、ならびに附録に収録した記録の底本と異本も、すべてオランダ国立中央文書館の原本のマイクロフィルム複本に拠る。
 本文の校訂に用いた異本は次の二種の写本で、ともに長崎よりバタフィアに帰る便船に託して、その都度書写されてバタフィアに送られ、同地から更にアムステルダム本社に送付されたもので、今日、『連合東インド会社文書』(VOC Archief, 以下VOCと略記する)と称する文書系列に属し、その中で特に「インド発信到着文書集」(Overgekomen Brieven en Papieren uit Indië)と称せられる文書群に属する。本冊では、便宜上、前記の底本をA本(Text A)、二つの異本をそれぞれB本(Text B)、C本(Text C)と称した。
〔B本〕
〔Dagregister des Comptoirs Nagasaki, gehouden bij den opperhoofden Pieter Antonisz. Overtwater en Jan van Elserack, t'sedert 29 oktober 1642 tot 5 oktober 1643, nevens scheepsdagregister van het jacht Lillo, varende van Batavia via Tonkin naar Japan, 24 april tot 1 augustus 1643〕(VOC. 1143, KA. 1051 bis. ff. 791-829.)(本所架蔵マイクロフィルム六九九八−五−七−一、同焼付本七五九八−六〇−四一)
この写本は、それぞれ、第七九一丁オ〜第八〇三丁オ、第八〇三丁ウ〜第八一〇丁オ、第八一〇丁ウ〜第八二九丁ウに、上述の三種の日記を謄写しているが、第三の日記は一六四三年十月十五日の条で終わっている。原写本には、全体の標題はないが、各日記の冒頭には、ともに底本の(イ)、(ロ)、(ハ)の項に掲げた標題を有する。但し、(イ)の標題はB・C本のそれに拠っているが、両本はともに末尾の日付は空欄となっている。
〔C本〕
〔Dagregister des Comptoirs Nagasaki, gehouden bij de opperhoofden Pieter Antonisz. Overtwater en Jan van Elserack, t'sedert 29 oktober 1642 tot 7 september 1643, met scheepsregister van het jacht Lillo, varende van Batavia via Tonkin naar Japan, van 24 april tot 1 augustus 1643.〕 (VOC. 1145, KA. 1053, ff.38r.-82v.)(本所架蔵マイクロフィルム六九九八−五−七−一一、同焼付本七五九八−六〇−四三)
この写本も、前項同様、前掲(イ)、(ロ)、(ハ)の三つの日記をそれぞれ、第三八丁オ〜第五〇丁オ、第五〇丁ウ〜第六一丁オ、第六一丁オ〜第八二丁ウに収めており、それぞれの日記の冒頭にB本と同様の標題を付している。但し、第三の日記は一六四三年九月三十日の条を以て終わっている。恐らく、一六四三年十月一日に長崎を出帆したスヒップ船ズヴァーン号('t schip de Swaen)またはヤハト船リロ号にこの写本を託送させたためであろう。
 以上、本文とその校訂に利用したA、B、C三種の写本の間には、個々の書記による僅かな単語の脱漏や挿入、恣意的な綴字や語順の相異が散見するほかは、決定的な相異は見られない。
 本冊には、本文の日記に関する八点の文書・記録を附録一〜八として掲載した。
このうち、附録一〜六は、バタフィアのオランダ東インド総督の政庁が発信した文書控簿の一六四三年の簿冊(Batavia's Uitgaand Briefboek 1643. VOC. 867,KA.770. 以下BUBと略記する)の第一七八頁〜第二一二頁に謄写されている六点の文書で、附録三以外の文書はすべて「日本商館文書」の一六四三年度長崎商館受信文書控(Ontvangen Briefboek Nagasaki 1643. NFJ. 280, KA. 11729. OBNと略記する)にも記録されている。内容は次の通りである。
附録一、「日本に赴くヤン・ファン・エルセラックに対して東インド総督アントニオ・ファン・ディーメンより与えられた任命状」一六四三年四月二十三日付
Commissie voor Jan van Elserack varende van Batavia naar Japan, gegeven door Anthonio van Diemen, Gouverneur-Generaal. Batavia, 23 April 1643. (BUB. 1643, pp. 178-179.)
附録二、「ヤン・ファン・エルセラック並びにヤハト船リロ号評議会に与えられた航海中及び日本貿易に関する訓令書」一六四三年四月二十三日付
Instructie voor Jan van Elserack ende den raad van 't jacht Lillo, gaande door den Gouverneur-Generaal ende Raden van Indië. Batavia, 23 April 1643. (BUB. 1643, pp. 180-197.)
附録三、「トンキン駐在商務員アント二イ・ファン・ブロンクホルスト充東インド総督他書状」一六四三年四月二十三日付
Brief van den Gouverneur-Generaal Anthonio van Diemen, enz. aan Anthonij van Bronckhorst, coopman te Tonkin. Batavia, 23 April 1643. (BUB. 1643 pp. 197-201.)
附録四、「長崎駐在上級商務員ピーテル・アント二スゾーン・オーフルトワーテル充東インド総督他書状」一六四三年四月二十三日付
Brief van den Gouverneur-Generaal Anthonio van Diemen, enz. aan Pieter Antonisz. Overtwater, oppercoopman te Nagasaki. Batavia, 23 April 1643. (BUB. 1643, pp.201-205_)
附録五、「長崎奉行馬場三郎左衛門充東インド総督書状」一六四三年四月二十三日付
Brief van den Gouverneur-Generaal Anthonio van Diemen aan den Gouverneur van Nagasaki. Batavia, 23 April 1643. (BUB. 1643, pp. 205-208. )
附録六、「築島乙名海老屋四郎右衛門充東インド総督書状」一六四三年四月二十三日付
Brief van den Gouverneur-Generaal Anthonio van Diemen aan Ebiya Shiroemon, burgermeester van 't Eyland Tsukishima. Batavia, 23 April 1643. (BUB. 1643, pp. 208-212.)
附録七は、海老屋四郎右衛門の東インド総督充書状を蘭訳したもので、長崎発一六四二年十月二十八日付である。『原文編之六』の附録四、五に掲載した総督の江戸幕府年寄衆と長崎奉行に充てた書状に対する日本側当局者の意向を暗に伝達するために書かれたもので、前掲の附録六の書状はこれに対する総督の返書である。原本は「インド発信到着文書集」(VOC.1141,KA.1050,ff.36-38)に収められている。(本所架蔵マイクロフィルム六九九八−五−六−五七、同焼付本七五九八−六〇−四〇a)。原題は次の如くである。
Translaet Japanse brief van Siroyemondonne, burgermeester in Nangasacqui aen den Gouverneur-Generael per den oppercoopman Jan van Elserack geschreven.
 右の文書はイザーク・コンメリン編『連合東インド会社の起源と発展』一六四六年刊(Isaak Commelin ed. Begin ende Voortgang van de Vereenigde Nederlantsche Geoctroyeerde Oost-Indische Compagnie, 1646) に、「シラゲモンドノ(Siragemondonne)の日本文書状の訳文」として掲載されているが、若干、文体に変更が見られる。
 以上の七編は、本編の日記の記載事項の背景となるバタフィア側の対日政策の方針を把握するための参考資料ともいうべきものである。更に、オーフルトワーテルの日記は、これまでの日記の筆者と比較して、その記述が極めて簡単で、これまでに刊行してきた日記に共通して記載されていた献上品や進物の計算書や積荷の覚書などが省略されているため、これを補う目的で、附録八には、長崎商館の一六四二・四三年度の仕訳帳の全文を翻刻した。これは、オーフルトワーテルが職務を引継いでから、彼が一六四三年十一月十日にヤハト船ワーテルホント号('t jacht Waterhond)に乗って長崎を出帆するまでの期間を会計期間とする会計帳簿である。原題は次の如くである。
Journael van 't Negotieboek des Comptoirs Nangasackij, t' sedert primo November 1642 tot 10e November anno 1643. (NFJ. 843, KA. 11828)(本所架蔵マイクロフィルム六九九八−一−九一−一五、焼付本七五九八−三九−二b)
この記録の翻刻に当たっては、組版の関係上、単位等の記載には、適宜、縮小形や略号を用いた。また検索の便を図るため、巻全体の索引とは別個に附録八のための索引を作成した。この索引は勘定科目索引・人名索引・地名索引・船名索引・件名索引より成り、それぞれ、所収の仕訳帳丁数を検索するようになっている。
 本冊の巻頭には、一六四三年七月二十九日、奥州南部領山田浦に薪水を求めて入港したオランダ船ブレスケンス号('t jacht Breskens)の船姿を描いた、正保度の「奥州南部領国絵図」(盛岡市中央公民館蔵)の、山田浦の部分を色刷で掲げた。この図版の撮影・掲載を許可された盛岡市中央公民館の御好意に感謝の意を表する。
なお口絵にはこの他、底本本文第一葉・同表紙、商館長オーフルトワーテルの自署を白黒で掲載した。
 本冊は複数の筆者(商館長)による三種類の日記から成っているため、テキストの書誌的解説に紙数を費さざるを得ないので、詳しい内容の解説は一九九〇年度出版予定の『訳文編之七』の折に譲ることとする。
 本冊の校訂に関しては、ワウテル・エリアス・ミルデ(Wouter Elias Milde)氏の協力を得た。また、索引の作成、全体の編輯・校訂などの過程で、非常勤職員石田千尋・大橋明子・高橋典子の協力を得た。
(解説・例言一八頁、目次二頁、図版四、本文三三八頁、索引二〇頁)
担当者 加藤榮一・松井洋子


『東京大学史料編纂所報』第24号p.70