大日本史料第一編之二十四

本冊には、花山天皇寛和元年(九八五)是歳より同二年六月まで及び花山天皇御代の史料を収めた。
 はじめにこの間の主要な公事について述べる。焼亡後十年を経て前年五月に始まった武徳殿の造営が、寛和二年四月二十七日竣功した。造営の功による叙位が五月十四日に見え、同二十六日新造武徳殿で臨時小五月節会が催された。同十八日には一代一度大仁王会が宮中及び五畿七道諸国に修された。花山朝の政策との関わりでは、三月二十九日に定められた京中物価沽価の法がある。これは銭価下落等による物価騰貴に対する措置で、永観二年十一月の破銭法と関連する法令であろう。続いて六月十六日には銭価流通のための祈祷が企てられている。また、永観二年に出された荘園整理令の適用に端を発すると思われる紛争が、興福寺領備前国鹿田荘と同国守藤原理兼との間で寛和元年末頃より表面化し、ここに氏長者藤原頼忠も絡み、同二年には当事者それぞれの言い分が交錯して複雑な展開を見せるに至った(正月十九日、二月二十六日、三月四日、四月二十八日、六月十九日の各条)。
 寛和二年には京内外に火災の頻発したことが知られ(正月十八・十九日、二月二・二十四日、三月五・八・十七・三十日、五月十三日、六月二十二日の各条)、また内裏等での怪異も目に付く(二月十六・二十七日、三月十二・十三日の各条)。六月十日、近臣の藤原義懐・同惟成らを中心に内裏歌合が催されたが、同二十二日深夜、花山天皇はにわかに遜位を決意し、藤原道兼らの手引きで密かに禁中を出て、花山寺に出家した(六月二十三日条)。年十九歳、在位一年十か月であった。義懐・惟成も天皇を追って即日出家した。花山朝の政治に関する史料、及びそれに深く関わった惟成の性格等をうかがわせる史料を、花山天皇御代・同雑載の諸条に収めた。
 前年に出家した円融法皇は、寛和二年三月十九日円融寺より仁和寺観音院に遷御、二十一日東大寺に御幸して翌日具足戒を受け、二十三日円融寺に還御した。ここには、源為憲撰『太上法皇御受戒記』の諸本に関する書誌事項を合わせて収録した。
 宗教関係では、播磨介藤原季孝による円教寺法華堂建立の条を立て、性空の円教寺十講会創始及び同法華堂供養のことを合わせ収めた(寛和元年是歳条)。寛和二年は出家する者が多く、ここにはその一々は挙げないが、浄土教盛行との関わりで大内記慶滋保胤の出家が特に目を引く(四月二十二日条)。同条には、保胤の『日本往生極楽記』撰修のことを合わせ収め、同書に見えて他所に歿伝を立てていない人物の事蹟を合叙した。その数は十余人に及ぶ。また、覚超ら延暦寺首楞厳院僧徒が二十五三昧式を定めた記事は、念仏結社たる二十五三昧会の早い事例として注目される(五月二十三日条)。なお、飯室北谷に安楽院の寺地を定めた記事もこれらの動向と関連するものである(寛和元年雑載・宗教の条)。
 学芸については、村上天皇女御前斎宮従四位上徽子女王(斎宮女御)卒伝(寛和元年是歳条)及び先に挙げた内裏歌合の条が大きな記事である。徽子女王卒伝には『斎宮女御集』の大半を事蹟にかけて収め、同集に関する書誌事項も掲げた。なお、同集の一部は娘の前斎宮規子内親王薨伝(五月十五日条)にも収録している。また、菅家証本たる『文選』の伝授を示した金沢文庫本『文選』奥書写の記事も注目される(寛和元年雑載・学芸の条)。
 本冊に事蹟を集録したものは、徽子女王及びその兄弟姉妹の旅子女王・源行正・同信正(寛和元年是歳条)、故有明親王室従三位藤原暁子(三月十四日、同人出家の条)、左馬権助藤原邦明(同二十一日、同人出家の条)、侍従藤原相中(同二十五日、同人出家の条)、梵釈寺十禅師兼算・延暦寺首楞厳院十禅師尋静・延暦寺定心院十禅師春素・明靖等(四月二十二日条)、四品盛明親王(同二十八日条)、規子内親王(五月十五日条)などである。
 大日本史料第一編は、本冊を以て仁和三年(八八七)より寛和二年に至る七代九十九年間の全範囲について一通りの編纂を終えた。しかしながら大正十一年の第一冊刊行以来既に六十六年を経、各冊刊行ののち新たに発見、公表された史料で未収録のものを始めとして、収録すべくしてこれを漏らした史料も少なくない。これを補うべき補遺の刊行は、第二・第三・第六の各冊の巻末にその冊の追加という形で実施したほかはこれを行なわず、一通りの編纂を終えたのちの作業に委ねることとし、この間本編編纂の傍ら補遺収録材料の蒐集を行なってきた。今般、本編編纂を一まず終了することを得たので、今後は三冊程度の計画で全編にわたる補遺を刊行していく予定である。
(目次一二頁、本文四七〇頁、挿入図版一葉)
担当者 石上英一・厚谷和雄・山口英男

『東京大学史料編纂所報』第23号 p.42-43