大日本古記録「後愚昧記」三

本冊は、前半に康暦元年より永徳三年にいたる日次記とその紙背文書を収め、後半に後愚昧記の附帯文書のうち康安元年より応安六年にいたる分を収める。
日次記の部分において、記主三条公忠は、五十六歳より六十歳の没年に及ぶ。これは、足利義満が、康暦の政変で管領細川頼之を失脚させ幕府権力内部での勢力交替を乗り切るとともに、一方公家に交わって大納言右大将から内大臣、左大臣、准三后と次々に昇進、朝廷世界の内部でその存在感を急速に大きくした時期である。すなわち、先に後円融天皇の即位大礼の時に行われた単なる経済的助成と異なり、白馬節会の見物、摂関きどりの参内、泉殿を飾りたてた後円融天皇の招待など、異例、非公式の参内を繰り返して、徐々に朝廷世界の慣例を切り崩しはじめた。公忠は、こうした過程を驚きをもって書きとめつつ、息実冬の義満右大将拝賀への扈従を皮切りに、自ら義満への依存を深めていった。永徳元年には、三条家への幕府の助成金を取り付け、実冬の大納言昇進を吹挙してもらい、実冬は義満の内大臣拝賀にも直衣始にも扈従した。特に義満の執奏により京都の地一所を得ようとして、後円融天皇の逆鱗に触れた事件は、京都支配をめぐる朝幕のつばぜりあいにほかならない。
永徳二年四月、後円融天皇は譲位して後小松天皇が践祚したが、同年九月以降その即位大礼をめぐり、院と義満の間はこじれた、義満は有職故実にすぐれた二条良基等の協力を得て強行したのである。公忠は新帝の外戚に当たるにもかかわらず、かえって義満等にうとまれたか、この間ほとんど部外者でしかなかった。しかし永徳三年、公忠は、義満に家宝のひとつを提供するなどで接近を試みた。また後小松天皇の生母たる息女厳子が、太刀の峰で後円融上皇に切り付けられて大怪我をするという痴情がらみの事件があり、これらをきっかけに三条家は、かえって義満との関係を好転させている。厳子負傷と時を同じく後円融上皇の愛妾橘氏が義満との密通を疑われた事件もあった。朝廷独自の支配権の喪失を裏面から象徴するかのごとくである。
公忠は、以上のような過程を、自らの実見によるのではないが、厳子等による良質のルートから得た情報によって後愚昧記に書き込んだ。しかし応安七年以後再三、詳細は実冬の日記に譲る旨の記入が見られることからすれば、日記を付ける責任は、既に建前上実冬に移行していたのであろう。現存する日次記は永徳三年十二月の没日を待たず、八月でおわり、ただ附載文書の内容だけは、十月にさしかかっている。
後愚昧記の附帯文書とここでいうのは、以上に収録してきた日次記と日次記の中に継ぎ入れられた附載文書、及びこの双方の紙背文書とは別でありながら、日次記と不即不離の関係で、記主三条公忠の許に集積され、しかも後愚昧記の一部として伝来された事実の知られる多くの問答消息・別記等の総てである。このように規定することによって、諮問抄・諮問抄抄出等のように、後に独立の書物として取り扱われたものも、元に戻して附帯文書に含めることにしたのである。
しかし原本や諸写本の混乱した状態を見ると、附帯文書の全貌を当初の形態に復元することは、今日ほとんど不可能にちかい。ただその成立事情を推測すれば、�日次記自体に「在別」等と記される、この種の文書の保管法への言及(所報第十九号出版物紹介「後愚味記二」参照)により、まず公忠自身、ある程度一連の事項についての文書をまとめて保管していたことが窺える。�公忠の息実冬が諸人諮問目録(次冊収録予定)を作成するにあたり、おそらく公忠の手になる小さな文書群のいくつかを、便宜的にまとめて計十巻に成巻した。しかし「経顕公並実継公大臣拝賀諮問事等」は、このほかであって、目録をとらず幕要抄と称した。�また原本と諸写本の今の姿よりも古い形態を残している後愚昧記の目録(砂巌所収、次冊収録予定)を参勘すると、実冬が整理した以外に少なくとも二巻分があったと考えられる。�そしてその後伝来の過程で�の編成自体が大きくくずれ、散逸した分も多い。
とはいうものの原本・諸写本の附帯文書の配列は、これを部分的にみていくと実冬の目録のそれとしばしば一致する場合がある、このような小文書群のまとまりは、公忠自身の作業に由来する可能性もある。もしもこれらの文書を単純な日付順に配列しなおせば、まったく違う編成に変わるが、それでは後愚昧記に附帯されてきたこの文書群としての重要な性格のひとつを失ってしまうだろう。
以上の事情から、編纂の目標を、当面辿りうる限りで小文書群の古い形態を復元することに定めた。そのための作業としては、伝存する附帯文書の諸本を比較し、部分的配列の出来るだけ古い形態を捜しだし、それと内容の具体的な連関性とから、いったん三四十の群に分類した上で、これと実冬の目録等とを照応させて、まとまり方を確定した。なお紙背文書は内容の如何にかかわらず、各々の文書と共に配することとした。こうしてできた小文書群に、内容に応じて適宜仮題を付して収録していくことにしたのである。ただし目下他に関連文書の見当たらない単独のものは、実冬の目録に該当の項があっても、年毎に一括してしまい、仮に某年関係文書と名付けた。
小文書群相互の配列は、実冬の目録に依らず、年代順とした。そのほうが検索や日次記との照合に便利であり、実冬の目録との対照にもさして支障がないと考えたからである。
この附帯文書から、後愚昧記の情報源として、書状類がどのように大きな位置をしめているかが具体的に確かめられる。また公忠によるこれら附帯文書の集積には、年代的に消長があるようで、それは日次記自体に対する記主の態度の変遷と対応していると思われる、
(例言三頁、目次三頁、本文三〇六頁、挿入図版二頁、岩波書店発行)
担当者 菅原昭英

『東京大学史料編纂所報』第23号 p.45*-46