正倉院文書目録一

正倉院文書は、光明皇后の皇后宮職から東大寺写経所に至る一連の写経所で作成された、事務用帳簿を主体とする文書で、写経所に送られた文書、写経所から出された文書の控、反故として使用された紙背文書などを含み、また石山寺造営関係の一群の文書もその中に伝えられている。
 正倉院文書がはじめて紹介されたのは、天保四年から七年までを要した校倉修理のための開封によるものである。この時、穂井田忠友により正倉院文書(正集)四五巻が成巻され、その写本が国学者の間に流布した。明治時代に入って、初期に塵芥文書三九巻三冊が内務省によって整理され、続修古文書五〇巻、続修古文書後集五二巻、続修古文書別集五〇巻が浅草文庫に於て整理され、中期に宮内省内の正倉院御物整理掛によって続々修正倉院古文書四四〇巻二冊が整理された。現在合計六六七巻五冊が正倉院宝庫の中倉に収蔵されている。
 昭和四年、奈良帝室博物館正倉院掛は、事務上の目録を『正倉院古文書目録』二冊として刊行したが、これより先、本所は明治三十三年はじめて原本調査の許可を得、翌三十四年より昭和十五年にかけて『大日本古文書』編年文書二五冊を刊行し、その中に正倉院文書のほとんど全部が収録された。
 『大日本古文書』編年文書が、『続日本紀』や『万葉集』、律令などの法制書、さらにまた最近続々と発見される木簡と並んで、奈良時代史料の重要な分野を形成し、古代史の研究に貢献した功績は計り知れないものがある。しかし、正倉院文書の利用の深化とともに、その史料学的研究も戦後とみに進展し、『大日本古文書』編纂の不備を指摘する声も次第に大きくなった。現在ではマイクロフィルムの写真によって原本の形態を確めなければ、満足できない段階に至っている。
 『大日本古文書』が史料集として不十分であるという、その責の大半は、幕末以来の正倉院文書の整理方法にあったといっても過言ではあるまい。すなわち、正集以下の整理は、めぼしい文書、珍しい文書を巻物の中から抜き取ったものであり、特に紙背文書となっていた戸籍・計帳・正税帳や中央官司の文書が先に選ばれることになり、そのため、連続していた写経所の帳簿がほとんど破壊されてしまい、多くの所属不明の断簡を生じた。最後に整理された続々修の中には、破壊されずに残ったものもあるが、その多くは残骸の集積という状態にある。『大日本古文書』は、編纂にあたり極力その復原につとめたが、十分な成果をあげることができず、また編年という編纂方法のため、新たな分断を余儀なくされた文書も多いのである。
 本所は『大日本古文書』の刊行後も、毎年秋の宝物曝凉の際に原本調査を行ない、編纂の見直しと校正を行なって来た。しかし、今日学界の要望に応え得る改訂版を刊行するには、限られた期間の調査では百年河清を待つに等しいのである。そこで本所は学界の急需に応ずるため、調査目録の形式による正倉院文書の原形の復原を企画し、将来の改訂版編纂に備えることとした。そのために昭和三十五年以降、断簡ごとの調書の作成を継続して行なって今日に至ったが、本目録はその成果として今回公刊を開始したものである。本冊はその第一冊であり、ここに収めた正集四十五巻には、神祇官をはじめとする八省百官の文書や諸国の上進文書等、奈良時代の代表的な重要文書が集められている。
 本目録は、正倉院文書の特殊性と現在の研究情況に鑑み、左の方針に従った。

『東京大学史料編纂所報』第22号 p.40*-41