東京大学史料編纂所

HOME > 編纂・研究・公開 > 所報 > 『東京大学史料編纂所報』第22号(1987年)

所報―刊行物紹介

大日本古文書 家わけ第十八 東大寺文書之十三

 本冊は、東大寺図書館架蔵文書のうち、いわゆる未成巻文書の続き、第四冊目である。
 本冊には、寺領部美濃大井荘の前冊の残り一〇一点と、美濃茜部荘の前半二一点の、計一二二点を収録した。これにより、未成巻文書のうち、寺領部は、1/1架から1/3架までの出版を完了したことになる。
 自署・花押等を便宜のため本文中の適切な箇所に網版で配置するなど、凡例・編纂方式等は従前の通りである。本冊所収の史料の一々についてその内容を紹介することはしない。ただ、四七九号大井荘実検馬上取帳案については、多くの欠損箇所を本所架蔵の写本「大井庄土帳」によって校訂し、補なったことを注記しておきたい。
 また、四二九号東大寺衆徒等重訴状案は虫損・腐朽はなはだしく、写真・影写本による解読がきわめて困難なため、従来の史料集では理解しにくい所があったが、今回の出版では原本によりかなりの箇所を補うことができた。永仁年間の大井荘下司職をめぐる東大寺と大中臣則宗との相論での、東大寺側の具体的論拠を知る上で、興味深い史料といえよう。
 永仁の相論と言えば、大中臣則宗(観音丸)側の主張の根拠になった文書に正応六年七月廿日の東大寺別当下司職補任状(前冊四一六号)と、□□元年七月十七日の東大寺別当政所下文(本冊四三二号)とがある。則宗の下司職補任は佐々目僧正頼助(北条経時の息、在寺せず)の在任中のことであるから、四三二号は内容的には永仁元年のものと見なされる。とすると、正応六年は永仁元年だから、四三二号は前冊四一六号より三日前に発給された文書ということになる。ところが、永仁改元は、八月五日なので、実はこの文書はいわゆる「未来年号」の文書ということになろうか。
 しかし、担当者は、この文書がただちに後世の偽作であるとは考えていない。二点の文書の紙質や朽損状況の酷似は、両者が早い時期から共伴関係にあったことを示し、四一六号が否定されないのであれば、四三二号も否定はしにくくなる。一つの理解としては、まず別当が則宗の訴えにより袖判の補任状を出し、ついで政所がこれを追認する形で、その補任状の日付より前の日付にさかのぼって下文を発給したということになろうかと思うが、いかがであろうか。
(例言二頁、目次一一頁、本文二八○頁)
担当者 千々和到


『東京大学史料編纂所報』第22号p.36