大日本古記録「言経卿記」十三

本冊は、前冊のあとをうけ、慶長九年(一六〇四)七月より同十一年十二月までのニケ年半を収めた。史料編纂所所蔵の自筆原本の第三十一冊より第三十三冊に至る三冊で、記主山科言経の六十二歳から六十四歳にあたる。
 日記中の主な記事を摘出すると、次のとおりである。
言経の息男言緒は、慶長九年七月二十二日、水無瀬親具を中媒として、新庄越前守直定女を妻にむかえた。言緒はこのとき二十八歳である。この直定は、翌十年四月十六日、徳川秀忠が征夷大将軍の宣下をうけ、同二十六日、奏慶するにあたり、供奉衆に加えられている。言経はこのとき、家康・秀忠父子参内の輿服についてしばしば諮問をうけ、調進にあたって板倉勝重・後藤忠正等と職人との間に立って相談・指導の労をとっている。
 本願寺光昭は慶長九年、僧正に任ぜられ、同九月二十六日参内奏慶している。言経はこのとき光昭の引廻役をつとめている。十年、京中に辻斬が横行し、その穿鑿のため堂上の諸家が検索されることになった。その一環として公家衆召抱の相撲取などを取調べる旨、六月十五日、所司代より武家伝奏に通知された。
 徳川幕府はこうして京都の治安に力をそそぐ一方、禁裏の拡張造営に着手した。十年七月二十八日、二條城において禁裏造営の御地割について家康は武家伝奏と談合し、ついで区画が示されたが、言経は「左右京図」「拾芥抄中巻」などを参考に供している。言経邸もこの区画整理によって立ち退くことになり、十一年七月二日、その替地として、東西二十間、南北三十二間余の地が家康から与えられた。同八月十三日には新第に移徙している。といっても造作はまだ続行中で十二月にはいっても貼付師が出入している。なお言緒の移徙は十月二十八日である。
 言経は次第に言緒への世代交替をはかるようになっていく。禁裏小番にはかなり言緒を番代に参じさせることが多く、ことに宿直はほとんどを言緒にまかせていく。十一年三月二十五日には、言緒に家以下の資産を割譲している。日記中にこの譲状が写されており、口絵にはこの部分をあてた。
 朝廷の儀式や行事に関する記事をはじめ、学芸・医薬・音楽・囲碁・将棋等各種の遊芸におよぶ記事が豊富なことは既刊の諸冊と同様である。
(例言一頁、目次一頁、本文四二九頁、挿入図版一葉、岩波書店発行)
担当者 田中博美

『東京大学史料編纂所報』第22号 p.37**-38