東京大学史料編纂所

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長崎県下幕末維新期史料調査

 維新史料室は、一九八五年十一月十一日から十五日まで、長崎県立長崎図書館、諫早市立諫早図書館、大村市立史料館を訪れ、幕末維新期史料の調査をおこなった。
一、長崎県立長崎図書館
 この図書館でおこなった作業は、諫早日記と神代鍋島家文書の幕末期のものの内容調査、文書課事務簿・外務課事務簿など明治初年の諸史料の内容調査、通詞の志賀家文書の調査および撮影である。
(諫早日記)
 諫甲家は佐賀本藩鍋島家の御親類同格にあたり、同家史料の大部分は長崎県立長崎図書館の諫早文庫に、一部が諫早市立諫早図書館に収められている。諫早文庫の目録は、『県立長崎図書館郷土資料目録』下巻の中にある。諫早文庫の大部分は日記であるため、今回の調査は、幕末期に時期を限った上で、各種の日記の、それぞれの性格を把握することにつとめた。日記の架番号は、全て19—15である。なお、目録への記載はないが、日記の各冊には、アラビヤ数字で年代順の通し番号が付してある。
○佐賀詰用人日記
  佐賀の諫早邸で用人が記した日記。表紙の左端に、「中将様斉正公御在府檀那様武春公御当番年」とか、「殿様茂実公御在国、大殿様斉正公御在京三月九日御下国、檀那様武陳公英艦之都合ニヨリ三月六日ヨリ御在邑」とか記してあるものが、これにあたる。諫早領主が佐賀に詰めている時は「御当番」、諫早に戻っている時は「御非番」で、これも表紙に記載がある。佐賀にいる時の諫早領主の動静、本藩からの達、諫早領主からの本藩への上申、諫早請役所からの領主への伺いなどが、主な内容である。

  文久四年の日記から、左に例示する。
 「    三月廿四日
  一徳巌院様御月忌ニ付籠如例月
  一前断ニ付、朝五ツ時比〓大興寺被遊御堂参候事
  一前条ニ付テ弘道館御出席不為叶候ニ付、御通達例之通           」
 「    三月廿五日 吉
  一請役所之御廻達、左之通安芸様御方〓被差廻候付御覧済之上、多久御屋敷差廻候事
     梅渓中将殿御息女
     駒姫様御事、中院中納言様御養姫ニして御縁組之儀首尾能仰合相済候
      附紙ニ
       御親類同格御家中へも可被相達候
                                河内様
                                大炊助様
                                若狭様
                                安芸様
                                豊前様
                                長門様
                                安房様
                                伊豆様
                                御家老中様 」

 「    四月五日
  一請役所〓御用之旨付、為聞取西山平之丞罷出候処御方御手入方ニ付而、左之通達帳を以被相達候段申達候付、達
   御耳、諫早へ申越候事                         」    

  また、諫早請役所からの諸伺も留められている。
 「    二月十二日
  一檀那様御跡式其外ニ付テ科人御赦免伺左ノ通請役所〓伺、達
   御耳候処、伺通被 仰出候事
                              矢上村平野名
     帰村被仰付方ニ而者有御座間敷哉                万 蔵
                              湯ノ尾村
     御免被成方ニ而者有御座間敷哉                 丈 助
                              古賀広太与
     元格ニ被召出方ニ而者有御座間敷哉           竹 内 梅 三
   右之通被仰付方ニ而者有御座間敷哉、前方見合を以吟味仕候、此段請御意候
                            香 田 舎 人
        子正月                           」

  次に慶応二年の日記から、小倉落城の記事を掲げる。
 「    八月三日
  一去ル朔日、小倉全落城ニおよひ、小笠原侯ニもいつ方江歟落去相成候段、其外聞取ノ次第、左ノ通諫早申越之候事
    一筆致啓上候、去ル朔日長賊小倉江押寄、二ノ丸焼打及炎上候末、全及落城、小笠原侯ニも何方江歟落去相成、壱岐守殿ニも、直ニ上坂相成候歟、元引払相成候歟ノ由、惣而河内様其外様明四日〓被成御出勢候由ニ而、昨日迄〓専ら其御用意相成居候由ノ処、其儀〓御見合、最早木ノ瀬御出勢相成居候御先手組ノ儀、明四日御帰陣相成候由ニ御座候、前断小倉落城ノ振合其外、いつれノ通可有之哉、差付聞合ノ手筈相付置候得共、未委敷ハ聞取出来不申、差分次第ニ申越儀ニ〓御座候得共、不容易事柄ニ付、此段乍荒辻御心得迄為可申越如斯御座候、恐惶謹言
     八月三日                       弥永 三右衛門
                                中嶋弥七左衛門
    香田舎人様
    喜多太左衛門様
    追而肥後其外諸藩〓も出勢いたし居、去月二十七日ニも長賊押寄、肥後其外ニも及戦争候由、然末翌日〓歟〓、いつれも段々と帰陣為相成事ノ由御座候、一体ノ振合碇と〓不差分候得共、此段も御心得迄申越候、以上                 」
○御在邑日記
  領主が「御非番」で諫早に戻っている期間だけ、諫早の屋敷で記される日記。領主の動静のほか、本藩からの達などを多く記載する。表紙か背表紙に「御在邑日記」と書いてあるものが多い。
○御次日記
  御側の日記である。表紙に「御次」とだけ書いてあり、一年分が一冊。領主の日々の動静を詳しく書いているが、政治についての記事はない。
○諫早請役方日記
  諫早にある領内の統治の中心機関を、佐賀本藩のそれと同様に請役所という。この日記は、請役所の役人である請役方が記したものである。表紙に、「繁之尉役内」「舎人勤内」などのように、当番の請役方の人名の記載のある簿冊がこれにあたる。繁之尉は寺田繁之尉、舎人は香田舎人である。記事の内容は、本藩請役所の達、諫早の代官所の達、地方諸役人・名主・商人などからの代官所への届けや願書、罪人の申口など領内支配の全般にわたっている。
  なお、この日記は数箇月ないし一年分で一冊となっているが、このほかに、この日記の原本がある。これは一月分が一冊で、表紙に「日記 地」とあり、表紙または裏表紙に「精書済」と書いてある。目録で、収載の月が一月分しかないものは、すべて原本である。この原本を数冊分まとめて清書したものが、請役方日記である。
  安政五年の日記から、左に例示する。
 「  六月朔日   晴
  一当日之御祝儀いつれ御屋敷罷出御帳ニ而申上候事
  一大寄会有之候事
    六月二日   吉
  一小寄会有之候事
  一田中良平世忰与一儀、去ル十日小野村於縄手虚無僧を刃傷一件ニ付而、為取調郡目付井上大八郎其外下込ニ相成、於大庄屋双方共取調子ニ相成、手形等取〓相成候段、一類八戸五郎右衛門〓別紙之通達出、扨又右手形等手筋ヲ以写取候段、盗賊方喜多長六郎〓達出候ニ付、左ニ控置候
   (中略)
    手形覚
                           諫早郷矢上村正覚寺
                           弟子高伝寺帳内
                                 哲 道
   私儀、諫早郷小野村於道筋、
   益千代様御家来田中与一殿〓刃傷ニ逢候否被取調子、元同郷池下津出生ニ而矢上村正覚寺弟子御座候処、去ル辰年遍参として大坂筋罷越候処、路用相切候ニ付、去初比御国元立戻、矢上村伯父房吉其外頼寄銀調相談候へ共、何分急ニ才覚出来兼候ニ付、前之房吉所罷在候処、地行遍廻之様子ニ付、難題相成居候故、甚気之毒相心得、去迚他国遍参中御国元ニ而託鉢等いたし候儀不相叶同様差支候ニ付、一課虚無僧存立天蓋尺八相用徘徊いたし居候処、先月十日昼諫早郷小野村西迦ニ而向〓帯刀之人通リ被来、肩を摺行候処畜生与被申聞候ニ付、振返リ誰ニ申候哉与相咎候処、其方社無礼相働罷在、剰横柄之言葉遣いたし候哉与被申聞候ニ付、近寄論合候半、両手ヲ以私胸を被突候ニ付、直様衣紋江掴付候□、捻数抜打ニ左手之裏指ニ懸被切付、二ノ大刀ニ而右之肩先疵を請其儘逃去候処追懸被来候ニ付、名前も不存人家江逃込、其末小川村直四郎所罷出療治等仕居候処、御私領方目明体之者罷出、右御役場連越、直様居籠為相成ニ御座候段申出候ニ付、前断刃傷ニ逢且遍参中虚無僧与姿を替へ徘徊罷在候ニ付而〓、外ニ深訳合等〓無之哉重畳被取調子候得共、全左様之儀無御座候、前々申上候通少も差包不罷在候、併不差立事〓右之到義ニ及相御姦敷相成候至り、今更深重奉病入候、此段相違不申上候、以上

    午六月二日                       哲 道
    井上大八殿
    古賀善兵衛殿                            」
  次に、文久四年の日記から左に例示する。
 「    三月廿三日
  一年号元治ト改元被
   仰出候段申来候旨、左之通請役所〓被相達候趣、佐嘉〓申来候ニ付、例之通大触差出候事
     去ル朔日於江戸年号元治ト改元被
     仰出候段申出候、此段、筋々応シ可被申渡候、以上
      子三月廿日             請 役 所         」
  この条は、佐賀詰用人日記には記されていない。
 「    四月廿二日
  一御側〓左之通申来候事
   一筆致啓達候
   御上様御七夜御祝ニ付、詰中平侍以上御次扨又
   両御広式罷出
   上々様江右之御祝儀申上候条、其許之儀も跡方比竟御計可被成候、此段為可申越如斯御座候、恐惶謹言
     四月廿一日                      中嶋与七左衛門
                                諫野与四右衛門
                                杉野 助右衛門
    香田舎人様                             」
  この条は、佐賀詰用人日記の次の条に対応している。
 「    四月廿一日
  一前断ニ付
   大檀那様江従
   御三所様為御祝言御同様被進上之旨被仰出候付、御使者を以差上相成候様、請役方へ申越候事                                 」
  また、佐賀詰用人日記の四月五日の条(茶一件)には本日記の次の条が対応する。

 「    四月七日
  一茶直段ノ儀、近年殊之外引上、一般難渋之儀は不及申、商人共唯今之通高利を貪、猥致売買候通ニ而者決而不宜ニ付、物産方ニおいて仕与被相立候付、心得違之もの無之様、急度手入相成候様其外左之通請役所〓達帳ヲ被相達候段、佐嘉〓申来候事    」
○吟味所日記
  吟味所の日記で、内容は、家中・学館・寺社方・地方等の主に経済的な問題に対する吟味である。表紙に「吟味所」と記載がある。
(神代鍋島家文書)
 佐賀本藩鍋島家の御親類四家の一つである神代鍋島家の文書は、一九八二年十二月、鍋島保孝氏から長崎図書館に寄贈された。目録は『県立長崎図書館郷土資料目録』の第四集に収められている。史料の大部分は、近世中期から幕末までの日記と、幕末期の触留である。調査では、主として幕末期の日記の内容検討をおこなった。
○佐賀詰用人日記
  佐賀の神代鍋島邸で用人が記した日記。檀那様・御上様・誠吉郎様の公務上の動静を記す。幕府と佐賀藩、佐賀鍋島家と神代鍋島家の関係などを知り得るほか、家臣の動きや領内支配についての記事もある。
  文久二年の日記(19—181)から、左に例示する。
 「(正月元日)一檀那様
   御上様
   誠吉郎様
    (中略)
  御揃益御安泰被遊御超歳、今暁御目覚、若水御迎、御身仕舞、御持仏御拝礼、御内御座御出座……御嘉例之通御手かす被済候事           」
  その他に、屋敷内や領内の支配に関する記事も散見する。
 「(二月十六日)一東目神代村御囲籾蔵入として、立合目付井手宗七并前田十郎左衛門罷越候事                                」
 「(四月二十七日)一神代先年洪水洗剥除地、当春年季満、見分之儀、検者方役々調子方として、左之通、晩汐より此許出船、彼地被罷越候ニ付、右ニ付副之儀従神代最前申来居候通、御差繰を以、前田十郎左衛門へ被仰付罷下候事           」
 「(五月十四日)一御屋鋪之儀、先頃〓流行之麻疹入込ミ候処、只様病人相増近日之処ニ而〓、日々之様壱両人充相増候通移行、殊ニ下々之者共惣病人之様ニて、朝夕水汲候ものも無之振合ニ付、年男増詰、四人計手当ヲ以急速差登せ相成候様、今暁汐〓足軽飛脚差出申越候事                               」
○神代請役方日記
  「帆足十郎兵衛役内」というような記載が表紙にあるもので、諫早の請役方日記と同性格の日記。領内支配の様相を知る上での重要史料である。
  文久二年の日記(19—180)から、左に例示する。
 「(正月五日)一初船清瀬丸出船
   上々様益御安泰被遊御超歳候段、其外懸合を相成候事」
 「(正月二十二日)一初船清瀬丸帰着ニ而
   上々様益御安泰被遊御超歳候            」
 「(四月二十九日)一今飯後渡海船〓検者方役々被罷越、東庄屋所江引付相成候、尤心遣方として附役共早速出役相成候事
    附り、差付〓東西地床見分相成由         」
 「(五月六日)一京都所司代江浪人者之由ニ而八拾人計り押懸及乱妨候由、右ニ付島原侯先達大迫りニ而出府相成候処、築前山家之宿ニ而右一件被仰聞……早速国元へ早打差出、人数撰り人ニ而百人計り被御取寄候由、去ル三日俄立ニ而永渕渡相成候由、左候而御所司代ニハ切腹有之趣彼是相聞、ぶつそう之世之中と相成、此末何分相成可申哉難計、珍敷事故記之候也      」
  次に元治二年の日記(19—186)から左に例示する。
 「  (四月)同廿三日
  一酒屋中〓直段上ケ願ニ寄リ当春増直段左之通被仰付候、尤旧冬御並直段ニ凡弐掛ニ而被相定、今日其筋被相達候事   

    一生酒壱升ニ付
      代銭三百文
    一中酒壱升ニ付
      代銭弐百五拾弐文
     以上                               」
 「(九月十一日)一佐嘉神代共当秋落米左之通
     東村
                             誓詞
                              袋村増右衛門懸り
   一田教定米四拾三石九斗八升
     米拾石弐斗五升五合九夕五□ 当落                 」

 「(十一月二十二日)一長州一条ニ付而過ル廿日請役所〓被仰渡候を差越被成候書附写左之通      」
 「(十二月十六日)一近年佐嘉其外へ奉公人之儀抜々罷越候者少からす……明十七日〓村町共現人為調子役々出張相成候条、何れも家内中庄や別当へ相集居候様、銘々掛口ニて無洩手当可有之候、尤刻限割左之通

     十七日朝五ツ半時    町
     十七日四ツ半時     東村
     同日 八ツ時      西村
     十八日四ツ時      伊古村
     同日八ツ時       古部村
      以上
     丑十二月十六日」

○達触写
  神代領内に布達した触や達の留。幕府や佐賀藩の触のほかに、佐賀藩請役所あるいは請役附(文久年間では田中五郎左衛門・深江助右衛門・平田助大夫の三人)から神代領に充てた達を多く含む。
  文久元〜二年の達触写(14—37)から一部を例示する。
 「一御国産茶之儀、嬉野製法ニシテ異国船売込其外於代品方今般御仕与被相行候付、御領中一般出来立之分〓、右製法相成候様、右製法不習之向ハ、其段代品方達書之上、伝受被仰付義候条、此段筋々可被相達候、以上

    酉二月                   請役所         」
 「一自然内海江異国船渡来之様子見請候半〓、早速懸り々江致注進候様、兼而漁民共江代官〓相達相成居候様
  一前条注進之儀、小城・諫早・神代之儀も前断之趣漁民共江も相達相成候様
  一自然揚陸等可致様子ニ候半〓、決而揚陸不致様製止方相成候様
  一出張之面々旅宿之儀於其筋手当相成候様
  一右同断食用之儀、焚出於其筋夫レ々相整、尤船中出張之向〓、御定旅衣籠折被差出候
  一私領々之儀揚陸等不致様兼而手筈相附居候様
  一諸家来乗船其外食用等之義、自然用意相成候様
     酉九月廿八日                           」

 「一弥平右衛門殿知行所神代村々、当夏早魃虫入ニ而、田方及損毛候ニ付、上検見被仰付被下度、彼是家来〓願出之趣、御当役御聞届、一体上検見之儀〓色々御手数向も有之候処、彼是隙取り候内ニ〓、鳥付其外唯様損毛も相増候義ニ付……、献米相続米等相引候得ハ、不足米ハ八百八拾六石壱升三夕ニ相立、難渋願出之趣無余儀相聞候ニ付、左ニ書越之通補米被差出儀ニ候条、此段筋々可被相達候、以上
       米四百五拾石
       酉十月廿日                   請役付三人  」
(明治初年の史料)
 閲覧した主な史料について、内容を記す。同一架番号の下に多数の史料が集められているため、別個の史料でも架番号が同じ場合がある。  

16—47 大坂御誂アルムストロング御用留 会所掛 慶応元年       一冊

  中表紙に「英商ゴロウル江注文アルムストロング砲一件大坂文通留 会所掛慶応元丑年〓」と書かれている。慶応元年、大坂町奉行松平大隅守が長崎奉行服部左衛門佐を介して英国商人にアームストロング砲を注文した際の一件書類。慶応三年迄。慶応二年三月の文書を左に例示する。
 「以早便致啓上候、追々暖和ノ節愈御壮寧被成御在勤珍重之御儀奉存候、然〓兼而御誂ノ大砲類アルムストロング〓、英政府ノ筒ニて猥ニ他国へ出し不申趣ノ処、当地在留同国岡士義、大筒類製作人懇意ノ廉ニて、真ノアルムストロング持渡候手続ニ相成、既本国尤疾積出し、不遠着船可致旨、大岡士申立、就而〓洋銀六万枚前渡いたし呉候様申立候間、其地へ早々可申通旨答置候付、可成丈速に右前渡ノ分御差廻し有之様いたし度、若急速御廻し被成兼候節ハ、当地会所金ノ内ニ而立替渡可致と存候得とも、昨今甚銀繰不�差支多ニ付、其節ニ至り候ハ、、品ニ寄市中借入ニ而流融取計可申と存候、左候へハ利分ノ義ハ追而御申進候、扠又元込は三十ホント以下ニて右以上ノ筒は先〓込分いたし候趣、六拾ホント〓差向無之付、七拾ホント筒ノ方ニ治定ノ上、相廻し候積、御誂筒品一色ニ付、玉二百トンツツ相添候積是又治定いたし遣し候、右筒類、当月中か来月上旬ニハ持渡候趣ニ付、其含ニて可成丈ケ早々洋銀御廻し有之候様いたし度、此段可得貴意如斯御坐候、以上
    三月廿六日                       服部 左衛門佐
      松平大隅守様
      松平駿河守様
  尚以西洋工風ノ土浚船ヲ兼而亜米利誂置候間、其地御入用も候ハヽ、持渡次第御廻し可申哉ノ段、委細申置、仰ノ節可申進置ノ処、いまた御報無之、右ハいかか有之候哉、乍序御入用有無御問合申候、本件ノ御報一同早々御申渡し可被下候         」   

16—48 アルムストロンク砲一件 外国官事務所 慶応三年九月以降    一冊
  16—47の続き。
14—98 露西亜人上陸場取締番所其他露人借宅願綴込 外務局 慶応三年  一冊

  ロシア人上陸場番所諸費用に関する史料綴。主要なものを次に記載する。
 「    口上覚
  今般魯人上陸場取締勤番所ニ拘り候御入用ハ、一式魯人江関係いたし候者共ニ限、相当ノ冥加銀差出候様、去寅十一月中被仰渡候ニ付、魯人江関係いたし候者共江申渡候処、一同難有承伏仕、別紙ノ通り願出候間、願ノ通り御聞済被仰付候ハヽ、冥加銀取立方等も行届、御取締向�敷御坐候与奉存候、如何相心得申渡候哉奉伺候、以上
    卯正月                       志賀和一郎(印)」

 「    覚
  一ケ月分
  一金三両二分  諸色売込人〓取立候積り
  一同四両    貸家凡八軒ノ分、家主〓右同断一軒〓金二分ツツノ積
  一同二分    平戸小屋御休息所地主〓右同断
  一同二両二分  通船凡八艘ノ分、船主〓右同断、一艘ニ付金一分一朱ツツノ積り
  一同一両二分  洗濯取三人〓右同断、一人〓二分ツツノ積り
  一同三両    両町遊女凡八人分、遊女屋共〓右同断、一人ニ付金一分二朱ツツノ積
  一同一両二分  マタロス休息所家主〓右同断
   金拾六両二分

  右〓魯軍艦入港中、魯人ト関係いたし候もの共〓為冥加取立候様被仰付ニ付、書面ノ通取立申度奉存候、依之此段奉伺候、以上   

    寅十二月                      志賀和一郎(印)」
  尚、志賀は長崎附三ケ村庄屋頭取。
14—33 諸家願伺御附札 外国管事役所 慶応四年            一冊

  諸藩が長崎において武器を購入するさいとった諸手続の留。商談成立後、諸藩は運上所に買上げを申請し、運上所が外商から買上げたものを払下げてもらうかたちで、購入した。一部を左に例示する。   

 「(朱書)『正月五日引渡済』
  [  ](黒印)                  (印)中台信太郎
                               加藤金四郎
                            (印)運上所掛

     別紙松平美濃守家来差出候書面御下ケニ付、一覧仕候処、先例も御座候間、御聞届相成可然奉存候、依之御附札振取調申上候
        辰正月
  御附札書面之趣承届候、(印)運上所掛江可被談候
        覚
  一西洋小銃                            百拾五挺
     但諸道具共
  右〓英商ヒユース〓美濃守方江買入度奉存候間、運上所江御買請之上、御下渡被下度、此段奉願上候、以上
     正月                      松平美濃守粟田貢
  (中略)
Received from Custom House Eleven thousand seven hundred and thirtyItz-beud, cost of 115 Snider, also Twenty two thousand three hundred & thirty five Itz for 1789 powder.
(signed)Hughess
  一ス子チ銃百拾五挾代として壱万千七百三十〓、并合薬千七百八十九補代価弐万二千三百三十五〓、運上所〓落手せり   

                              ヒユース商会
     正月五日                        川原金三郎訳
  (中略)
        覚
  (略)
  右之通御買上之上、御引渡被下、慥ニ受取申候、以上
     辰正月六日               六村光三郎(印)(筑前用達)
       御役所                        」(運上)
  六月から外国管事御役所宛となる。ただし、運上所と混用されている。
14—33 諸家願伺御附札 外国管事役所 慶応四年七月〜十二月      一冊
14—33 諸家願伺御附札 外国管事役所(外務課) 明治二年       一冊
  年末になると「外務御役所」の宛先がみえる。
16—51 諸藩武器買請諸願 外務課 明治四年正月〜八月         一冊
  買請願と欧文領収証(十翻訳)のみで一件となる。件数が減り冊子が薄い。
16—52 諸県武器買請願 外務課 明治五年               一冊
  個人の買請願も見られる。
16—50 諸家武器海陸運送割印并買入品御届綴込売渡共 運上所 慶応四年 一冊
  武器運送許可願と輸出入の届留。願の主体は各藩用達。
 「     覚
  (割印)一小銃                      五百挺但附属品共

   右は蘭商マデリヤン〓運上所江御買上之上、代金引替御下ケ渡被下候ニ付、国許江差送申候間、御割印被成下候様奉願上候、以上    

     辰正月六日               芸州御用達 嶋谷要吉(印)
    運上御役所                             」
 「     覚
  白蝋八千斤
   右は英商ガラフル江相渡候付、此段御届仕候、以上
     辰正月八日               佐賀用達 古賀護太郎(印)」
 「     覚
  一銑鉄    壱万斤
  (中略)
  右は亜商ウヲハス〓取入候ニ付、此段御届仕候、以上
     正月九日                  小倉用達酒美正三(印)」
  宛先は運上所がつづき、七月より外国管事役所がみられる。
14—2 御達留 外国管事役所外務課 明治元年              一冊

  内容的には、全国的なものから長崎に限定されたものまで含むが、必ずしも外国管事役所の職務に関係して留められたものではなく、本役所にも告知しておくべきこととして回覧されたものを留めたというものが多い。しかし、それ以外に、人事を含め職務に関連するものも含まれており、その中から二例を例示する。
 「(朱)第百二十二                    官事役所掛江
  通弁役頭取以下通弁稽古之者共諸願諸届等之儀〓以来頭取奥印いたし、官事役所司長江差出し猶奥印之上差出可申事
   辰十一月                               」

 「               ┌────────┐
                 │ 通弁役頭取○ │
                 │ 出納役○   │
                 │ 属 役○   │
                 │ 船改役○   │
   (朱)第百四十四      │ 使 役○   │
                 └────────┘
                           外国管事役所諸司長江

  外国関係を始管事役所ニ而取扱来候儀〓、是迄之通相心得、諸役人進退〓勿論、出勤之者共身分ニ付候儀〓一切御用所江打合、両局〓申立、申渡書等〓於御用所取調管事役所江相渡候様可致候事   

    辰十一月                              」
14—209 御達留 外務課 明治二年                  一冊

  史料の全体的性格は同前であるが、職務に関連したものが多くなる。
 「(朱)第六号
  一百姓共耕作に飼置候老牛等、死牛之名目にて窃に屠殺し、猥に外国人共江売込候もの有之哉ニ相聞不埓之事ニ候、一体牛売込之義〓夫々規則も相立有之候ニ付、向後右様心得違之もの於有之ハ其筋之もの見当次第、其品外国管事役所へ取揚、当人〓厳敷沙汰可及候条、兼而此旨無洩落可触置候事
    正月廿六日
  右長崎村浦上村山里庄屋呼出相達、穢多共江〓当局公事方〓口達いたす    」

 「                ┌────────┐
                  │ 小属 出納○ │
                  │    聴訟○ │
                  │    地所○ │
                  │ 通弁役○   │
                  │ 懸 掌○   │
                  │ 使 部○   │
                  └────────┘
                             小橋屋喜四郎

  右外国人江牛売込世話方差免候、尤是迄御益筋心掛よろしく候ニ付、当月分手当之外金拾三両褒美として為取之   

    十月
                        嶋尾伊太郎
                        高瀬屋徳兵衛
                        清水屋唯八

  右外国人江牛売込差配人差免候、尤是迄御益筋心掛候付、当月分手当之外銘々江為取来候手当一月分褒美として為取之     巳十一月                              」     

14—246 御達留 外務課 明治三年                  一冊
  史料の性格は同前。全国的なもの、他の管轄のものが多く、職務に関連したものは少ない。
14—295 御達留 外務課 明治四年                  一冊

  史料の性格は同前。なお、以下に例示する史料は、明治四年の正月の記事の間にはいっていたものである。
 「                      外務局江
   当地滞在之諸藩士其外召仕ニ至迄、邸第江止宿いたし候ハヽ、着帰とも同所詰役人より速ニ県庁江可相届事
  一士農工商其外とも諸向用達并市郷知音之もの方江到着いたし候ハヽ、宿主ニ而生所名前は勿論往来切手且出崎之次第等得と尋問、身許慥成ものは止宿為致可申、尤着帰とも時刻を移〔不脱カ〕所役人江申出、右役人より引替帳を以刑法掛調所江可届出事
   但届方手数料として一ヶ月壱人前士分并諸商人座敷芸歌舞妓ものは銭弐百文、其余ハ同百文宛宿主〓所役人江可差出事
  一奉公人召抱又は暇差遣候ハヽ、時日を不移主人〓所役人江申出、届方之儀は前同様可相心得事
   但届方手数料として一ヶ月壱人前銭百文宛主人と所役人江可差出事
  一士農工商其外諸藩手船諸国廻船乗組之者とも旅人宿船宿江到着いたし候ハヽ、前同様生所名前等篤と尋問、身許慥成者は止宿為致可申、尤引替帳江所役人見留印申受、着帰とも時日を不移刑法掛調所江可届候事
  一洋人支那人居留地并戸町村江止宿之者は所役人江申出、夫より引替帳を以外務局江相届可申、一体之規則ハ外市郷同様之振合ニ可相心得候事
  一神職僧侶其外とも社寺院江到着いたし候ハヽ、前同様生所名前等得と尋問、身許慥なるものハ止宿又は境内江達置可申、尤着帰共引替帳を以速ニ刑法掛調所江可届出事
   但届方手数料之儀は前条ニ淮し旅人〓取可申事
  一虚無僧之儀は是迄之通着帰とも其時々支配太平寺より引替帳を以刑法掛調所江可届出事
  一乞食非人之儀は是迄之通穢多乙名より牢守相届、牢守〓刑法掛調所江可届出事
  一止宿為致候旅人之所業得と心附、万一烏乱成もの有之候ハヽ、早速所役人江可申出、品ニ寄褒美可為取之候、隠置、外より相顕候ハヽ、急度可及沙汰候事   

   右之通相心得無届之旅人堅く差置間敷候、若相背候ハヽ、厳重之咎可申付候
   右之痛市郷并社寺江相触候間為心得相達候
    庚午十二月                             」
14—23 外務課事務簿 各国往復書翰綴 明治元年〜二年         一冊

 「当月十三日附之書翰相達し令披見候、五嶋ニおゐて日本人三百人余捕縛繋獄種々の困苦を受る等之儀ニ付、縷々被申越致承知候、然るに右様之風聞一切当府ニおゐて承知不致、且先般井上判事の同嶋往きしは別ニ政府之所用ありて、決して右之事ニ関係不致[      ]殊ニ同嶋之儀は当府之管轄に無之、別ニ一諸侯ありて諸務を宰理する事なる故、当府〓之進退ニハ難及候「且またたとへ右流言之次第実なるともせよ我国之政典を犯せし廉を以我子民を罰するに、足下等に於て内国之事務を預り知らるへき事ニは非すと、予ハ思想する所也、此段答如此候」謹言  

    明治元年十二月十五日                知府事御名印
     英 葡 魯
     孛 白 丁エスクワイル
     和蘭各岡士
   於長千八百六十九年第一月廿二日我十二月十三日
     沢右衛門権佐閣下江呈ス(長崎府知事)

  一長崎在留之各国岡士たる我等江告知ありして五嶋ニおゐて耶蘇宗帰依之者とも三百人余も罪過無くして捕穫せられ、拷問之上獄中繋かれ、其以来大ニ困難せしめ終ニ餓死之もの且悪敷取扱ニ而死去之ものも有之となり、然れとも右は此後之確報有之迄は我等ニおいて信し難く、右嶌中耶蘇宗徒の実情を厳敷探索為し給わん事を希ふ、右流言之次第相違無之ニおいては此無罪或ハ害なき耶蘇宗徒江如斯凶暴之所置なからんため急速手配為し給わん事を我等強而希願する所也、拝具
                      不利太尼亜岡士マルキュスフロウルス
                             (六名略)
    十二月十三日                   西六馬訳     」
 「近来無宿無頼之徒不少当府江入込候様子ニ而屡市中并外国人〓盗難届有之候ニ付、旅人調方其筋江申付有之候間、右調方出来迄今夕〓始居留地を夜中公事方懸之者六七人無提燈ニ而忍廻為致候、因而各々従民江無洩布告被致置度此段不取敢掛合申進候
    明治元戊辰十二月廿三日        横山又之丞(外国管事役所諸司長)
                                  平井義十郎
     各国岡士エスクワイル                       」
 「 長崎六十九年第一月廿二日十二月十日
  一本日則二十二日は地租払入之期限なる事を報告ありし本月十二日十一月卅日附台下の書翰在長崎各国岡士たる余等落掌し左ニ回答す
   台下に於て地所規則第五ヶ条を施行するの請合あらは、是迄未納之地租ハ余等の国民をして納めしむへし、因て居留地江要用なる修理の箇条書を加封呈上す、謹言    

                        コルクスフロウルス(英国岡士)
                        (五名略)
       井上聞多(長崎府判事)
       野村宗七 各台下江呈す
       楠本平之允
    十二月十二日                     堀一郎訳   」
14—81 外務課事務簿 各港書翰留 明治元年六月〜二年十月       一冊

  長崎府から外国官や開港場のある府県へ充てた書状の草稿や控。主に情報や旧例の伝達。
  長崎府判事井上聞多の、慶応四年六月十九日付書状の一部を例示する。
 「一筆申入候、然は別冊差進候間、委細ハ右ニ而御承知可然御取計可被成候
 一遊歩場之儀は、元々横浜居留地之振合を以、各国公使〓申立候儀と相見江、旧幕府ニ而引合落成迄之入用金弐万三千両相掛り、年々修復料も夥敷相掛、次第ニ御入用を重ね、且又遊歩場不出来候間、各国ニ而地租相納不申、及談判候得は、結局遊歩場一件ニ事寄種々故障申立、往々煩労不少候間、今般御一新之廉を以、御破談相成候方可然存候、乍去御破談之儀、於彼方不致承引、先約之通普請取掛場合ニ押移り候はは、御入用金之儀は別段御下ケ渡相成候様、御取扱可被成候
     (中 略)
 一長崎外国人居留場之内、英岡士館之儀は、当方政府より家作取建遣し候上、地料をも宿料ニ組込、一同可差出段、去ル申年、同国公使〓旧政府江約定相済居候由ニ候得共、同国而已岡土館取建、御貸渡相成候而は、必外国々江も差響キ候儀と存候間、今般御一新之廉を以、同国公使江程能御断相成候様、御取扱可被成候  

     (中 略)
  右之段申入候、其他後便相譲候、以上
   六月十九日                          井上聞多
     町田民部様
     西園寺雪江様                           」
14—81 外務課事務簿 各港来翰留 明治元年七月〜二年十二月      一冊

  外国官や開港場のある府県からの、長崎府への来翰の留である。原史料を綴じこんでいる場合もある。以下に記載例を示す。
 「以手紙致啓上候、然は是迄外国人当港〓石炭輸出致候節は、船用たり共税銀取立来候処、頃日ニ至り外国人〓石炭は蒸気船之食料も同様、且旧条約書中ニ船用は無税と有之抔と故障申立、当時談判中ニ有之候、然ルニ英岡士〓申立候ニは、長崎表ニ而も、先々は船用たり共税銀取立相成居候処、既ニ此程船用之分取立之税銀、不残差戻しに相成候よし、右は全ク船用之分丈ケは無税ニ而御差戻相成候義ニ有之候哉、一応御問合申上候、右は各港区々ニ不相成様致度奉存候、否哉早々御申越被下候様致度、此段御問合迄申上度、如斯御座候、以上
    八月十三日
                            兵庫県運上所詰合
   長崎府運上所御詰合中                         」
 「仏国岡士〓自国人民のために坂地におゐて礼拝堂取建申度旨願出、右は条約盟文も有之儀ニ付、建築いたし候儀は差許候積り候得共、堂宇取建候地代は不差出旨申聞候は、不相当之儀と被存候、元来礼拝堂は其国人信心ニ依而取建候儀ニ付、地所之儀も其国人打寄拝借いたし、居留地並之通り地代相納候而可然儀ニ有之、尤大坂表居留地之儀は、最初糴貸ニいたし候ニ付、平常之地代至而阜く、就而は今般貸渡し可申礼拝堂地所は、糴貸いたし候儀ニも無之候間、居留地之例難相用、横浜長崎之例を以、貸渡し当然と存候ニ付、御手数之儀ニは候へとも、御地おゐて礼拝堂御貸渡相成候最初〓之手続、彼方〓之願書、当方〓之御答書等之書類ハ勿論、地代割合商人共江御貸渡之振合、委細御書取、急々御廻し相成候様いたし度、此段及御掛合候、已上  

   巳正月廿四日                     大坂外国事務局
     長崎府                              」
14—42 外務課事務簿 諸控 明治元〜四年               一冊

  居留地関係の諸記録である。慶応四年春で、居留地総坪数は九万九八五〇坪、居留人数は八四五人(英七三・米三八・仏一五・蘭三一・独一八・瑞四・支那六六〇)であった。   

14—83 外務課事務簿 諸藩達書類控 明治二年             一冊

  諸藩から長崎外務局へ充てた届書の綴。全て原史料である。軍艦購入や外国船の沿岸測量などの件が多い。   

14—1 外務課事務簿 日録 全 明治二年                一冊

  長崎府外務局判事(野村五位・井上五位・横山又之丞・平井蔵十郎)の日記。
 「(正月七日)一輸入品取調書一綴、井上判事へ為持遣
  一伊達宰相議定被仰付、外国官知官事兼務候儀、達書案訳[  ]通弁方へ下置                                        」
 「(正月二十三日)一昨日当局江預ケ置たる御金三万九千七百両、会計局在判之請取書を以て、取ニ来候間、同局使役江相渡                   」
 「(九月七日)一外国管事役所掛已後外務掛与相唱可申事、御達しニ付、即刻局廻し致し置候事                                」  

14—91 文書科事務簿 諸家届并伺達 第壱 明治元年(正月〜五月)   一冊

  慶応四年正月からの記載がある。最初は、土佐藩が石崎麒一郎を英学伝習に借り受けたいという一件やそれに類する願書を多く収める。ところが、
 「(朱書)『辰三月廿四日九州三拾四藩詰合之家来、詰合無之向は用達呼出達ス』
  一九州之儀は総督府ニ於而都而致管轄候様被仰出候条、此旨為心得相達置候事
   (中略)
  一九州各藩上京等之節は、出立前総督府江可申出事
   (中略)
  一兼而太政官〓御沙汰ニ相成居候旧幕領高辻残穀等取調、三十日を限り長崎総督府江可差出事
   (中略)
   三月廿四日」
 という布達以降は、九州各藩(聞役)から長崎総督府(長崎府)への届・伺、および同各藩への達の留となる。特に長崎港に関する事柄は、九州以外の各藩も届等を提出している。
 「(朱書)『閏四月廿二日下ル』
  豊前国宇佐郡村々、先幕府〓預り地之儀ニ付、此後心得方之件々、於京都表ニ当二月別紙写之通奉伺候処、御附札を以当御裁判所江可伺出旨被仰出候、然処御守衛人数丈ノ儀は、先達而於爰許奉伺候処、右人数之儀は国許江引取候様可取計旨、御附紙を以其節被仰付奉畏候、然ニ政事向御年貢等之儀如何相心得可然哉、毎々御手数を掛奉恐入候得共、猶又可奉伺旨、国元〓申越候
  間、奉伺候、以上
     閏四月                今井新左衛門(有馬中務大輔内)
  当二月於京都表
  伺出候書面写
         覚
  一高弐万弐千百九石余
     但、豊前国宇佐郡村々
  右は先幕府〓預地ニ而政事向私領同様仕来候処、当今王土ニ帰候上は、不取敢人数差出、為朝延御守衛可仕旨奉存候、猶政事向御年貢等之儀、御沙汰次第之儀と奉存候、此段奉伺候、以上
      二月十九日              柘植 伝八(有馬中務大輔内)
    御附札之写
     宇佐郡村々江守衛人数差出方并政事向年貢等、都而長崎裁判所江可伺出候事                                       」
 「(朱書)『閏四月廿二日下ル』
  侍従儀、三月廿日横浜裁判所副総督被仰付候付、同廿四日下坂之末、同晦同所発足、東海道旅行、四月十六日彼地致参着候、此段申上候様申付越候、以上
      辰閏四月十四日           (肥前侍従内)楠田十右衛門 」
  届の現物(もしくは副)と思われるもの((印)等あり)を綴込んだ場合もある。
  この綴は、従って、三月以降九州各藩と長崎総督府(裁判所・府)のやりとりを収めたものとなる。これは、長崎府が九州全体の管轄権を与えられていたためである。   

14—91 文書科事務簿 諸家届并伺達 第二 明治元年自六月至九月    一冊
14—91 文書科事務簿 諸家届并伺達 第三 明治元年自十月至十二月   一冊
  前に同じ。
14—39 文書科事務簿 諸藩届并伺達 全 明治二年自正月至八月     一冊
  三月の次の行政官布達までは、前に同じ。
 「(朱書)『巳三月日着』
                                長崎府

  諸藩より従来聞役と称シ、其府下江出張之者有之候趣、右は現今官府ニ於テ別ニ御用関係之儀も無之ニ付、各帰邑可致様、従其府可相達事
      三月                        行政官
 (朱書)『三月晦日』
  右ニ付諸家聞役中呼出し、判事楠本平之允・御用掛坂田諸遠出会、左之趣口達
   聞役之儀は、今般従朝廷御達之趣も有之、詰方相廃止候得共、蔵邸為取締在崎之藩士ハ、交代之節々、当府江名前可申届候、尤大村家ハ当地取締も被仰付置、対州家之儀は漂流之朝鮮人受返渡等至急も有之候故、聞役は相廃止候とも、弁別いたし、藩士被差置度、此段も及達置候事                             」
 との布達がでて、長崎府—聞役体制が廃止される。以後、入塾・伝習関係の届が多くなる。特に士官召抱で町方の人別調べが行なわれ、その関係の書類を多く収めるようになる。特に『文書科事務簿 諸藩届并伺達 自明治二年九月至三年四月 全』(14—39)では著しい。
  また、明治二年の簿冊では、「正月十七日本紙公事方江相廻ス」とか「本紙外国局達、写町方掛達」とかの注記がみられるようになる。これは、例えば、本冊子で「四月廿九日、本紙ハ外国局へ相廻ス」と朱書で注記された史料は、 14—83『外務課事務簿 諸藩達書類控 全 明治二年』の中に、現物が収められていることをあらわしている。   

14—35 文書科事務簿 町方御用留第一 明治元年四月〜十二月      一冊
14—35 文書科事務簿 町方御用留第二 明治元年四月〜十二月      一冊
  共に明治元年四月からその年いっぱいの記事を収め、内容によっても区別できない。
  第一から例示する。
 「一属役
  一町方掛
  一役料米五拾俵三人扶持
  一役料金弐拾両
                      竹内宗之進
                      高石小馬作
                      谷嶋半蔵
   右之通被仰付、役料米金被下置候
     辰四月(朱)九日
                     属役竹内宗之進
                       高石小馬作
                       谷嶋半蔵
   右〓町方社寺方諸色改掛被仰付候間、為心得相達置候事
     辰四月                大保山寛三
                        杉山友之進
  (朱)右四月十日年寄役木村隼太江相達候事                」

 「    乍恐奉願口上之覚
  (難被及御沙汰候)一私儀御蔭を以御当地住居仕弐拾ケ年□当御神事踊手附仕来難有仕合奉存候、随而諏訪社為願成就晴天廿一日之間子供相加へ手踊興行仕度奉存候、付而は小嶋郷字尾崎友三郎於地面莚囲仕奉納仕度、尤諏訪社御普請中之折柄ニ付寄附仕度奉存候間、何卒願之通り御許容被仰付被下置候ハヽ難有仕合奉存候、此段乍恐以書付奉願候、以上
     辰四月六日                  油屋町梅助
    町方御掛所                             」
 「    乍恐奉願口上之事
  一私儀易道執行之者ニ而、去ル天保十三年寅年上京仕、当土御門御殿様御目見仕、則一本職頂戴仕候者ニ御座候、暫く防州中ノ関村江罷在、其後御当地江罷下リ住居仕居、然ル処御当地之儀は遠境と申、是迄帝都〓宮家御家向等無之場所柄ニ付、天神社神道之行事相乱、且は一派之触頭たる者無之ニ付、乍恐 御殿様御免許之威名を唱、加持祈祷ニ事寄セ町家之者を相欺、或は取逃衒同然之事等仕候族も有之、誠ニ以乱法狼藉ニ御座候ニ付、一派之瑕瑾、殊ニは御殿様江も奉恐入候儀ニ付、余程苦心仕候得共相対ニ而制事難行届歎ヶ敷仕合奉存候、然ル処此度幸ひ京都〓御下向ニ御座候ニ付、何卒於御当地奉蒙触頭之名儀候ハヽ、私儀当年六拾三歳及老年候得共、抽丹誠天社之行事相立チ、逸ニは御殿様江御奉公之筋出精仕、二ニは町家下民迷惑之難渋を相救、一派之風儀を糺取締仕度奉存候ニ付、何卒右願之趣御聞済被仰付被下置候ハヽ難有仕合奉存候、乍恐此段以書付重畳奉願上候、以上
    慶応四年辰四月        新町住居大井隅之助(八幡社神職家内帳面)
    御裁判所様                             」
 「         公事方懸
  別紙宝輪寺願之趣勘弁仕候処、近来歌舞妓もの当地滞在いたし平人同様ニ相心得、町家へ住居、剰へ市中人別ニ相加り不都合之儀ニ奉存候、然ル処町家小供相集メ手踊を教込、願成就と相唱歌舞妓芝居同様之所置いたし、夫かため町家小供とも之風儀を乱し候基ニ付、御めん不相成方と奉存候、依之御付紙案相添此段奉伺候、以上
    閏四月八日                     社寺方掛○
   〔書面之趣難及沙汰候                         」
 「別紙軍曹〓申立候高尾騰九郎儀は、元唐人通詞返介ニ而帯刀之身分ニは無之候処、高木善右衛門家来分ニ而帯刀いたし兵隊へ御抱入相成候ものニ有之、然ル処此節善右衛門ハ勿論当人迄も病気ニ付振遠隊御免相成候上ハ帯刀いたし候謂ハ無之……
    辰閏四月十日                     町方掛○   」
 「   覚
  一人足  弐百人
  一荷船  六艘
  一通ひ船 弐艘
  右は振遠隊武器并諸雑用具類船積仕候ニ付、書面之通明十九日五時屯集所江相揃候様、其筋江御沙汰被成下度奉願候、以上
    辰七月                     振遠隊会計掛印   」
    

 「   覚
  一町内和吉願象見セ物来ル廿四日〓相始メ申候旨申出候ニ付、此段御届申上候、以上
     辰七月廿六日              勝山町肝煎川崎喜市○
     町方御掛所                            」
14—36 文書科事務簿 御書付留 判事方 明治元年           二冊

  第一冊は二月〜六月、第二冊は七月〜十二月の記事を収めるが、全国的な内容のもので、長崎固有の問題に関するものはない。   

14—38 文書科事務簿 御触留全 明治元年正月〜十二月         一冊

  太政官から出された全国的なものから、対象の限定されたものまで含まれる。郡用方掛、町方掛、軍曹船改掛、公事方掛等のうち一つまたはいくつかの掛に宛てたものがある。
 「(朱)辰四月十二日達ス 跡ニとじ込置候公事方仕出シは不用ニ成候得共見合之ためとじ込
  是迄諸藩士学生体之もの馬ニ乗市中駈廻り、老少足弱之もの江怪我為致候ものも不少、勿論今般御一新ニ付而は、右体疎暴之儀は万々無之筈ニ候得共、自然其術不熟之もの猶馬上ニ而市郷駈廻り、序破急不心得之場合〓過而人ニ怪我させ、夫か為一世不具片輪之もの出来候様ニ而は実に不相済儀ニ付、以来市郷雑沓之場所乗廻り候節は馬法を弁不法之乗方不致様、其藩士限り可相達置候事
  

    辰閏四月                    町方掛
                      (朱)各通 郡用方掛
                               江
                            軍曹 
                            精得館掛り
    右同文言
  右之通諸藩江相達候間為心得相達候
     辰閏四月」
14—26 (文書科)申渡留 参謀方 慶応四年              一冊

  人事関係の申渡が大半で、経済関係のものも若干ある。
 「(朱)辰二月十五日直達
                              高木作右衛門江
  此度御復古ニ相成、吃度御改革被仰付候ニ付、是迄之役名不残相廃候、向々事務一日も不可欠儀ニ付、追而御沙汰被仰出候迄之間勤向越方之通可相心得候事
    辰二月」
 「                          元通詞名村貞四郎
                               馬田源十郎
  右之者共先年武州神奈川詰被申付罷越居候処、今朝帰崎いたし候付而は、私共同様出勤被仰付度、此段以書付奉願候、以上
    辰三月                     堀一郎○(通弁役惣代)
                            陽其二○      」
 「是迄地役人昇役転役新規御抱入被仰付被下置候高米扶持米役金手当金被下方之儀、月末被仰付候而も壱ヶ月分或ハ壱季分被下来、区々相成居不都合之義ニ付、以来は仕来之義相廃、高米役金并手当金は月割を以被下置、扶持米之義は日割を以被下置候方相当之義と奉存候、依之御達案相添此段評義之上申上候、以上
    辰三月廿三日                  御入用掛○○
                            御米方掛○○
  被仰渡案
   諸役人昇役転役新規抱入等申付候節、高米役金手当金は月割、扶持米之義は日割を以被下候事
    辰三月」     

14—53 文書科事務簿 触書留 明治元年二月〜七月           一冊
  長崎府からの触・達の留。草案もある。
14—85 文書科事務簿 日田天草文通留 明治元年            一冊
  公事方の帳簿。訴訟出入りで府県にまたがるものについての文通、探索方の相互連絡など。
(志賀家文書)
13—67 志賀九郎助書翰集                       一冊

  息子のロシア語通詞志賀浦太郎(親朋、文久元年二月二日、ロシア人に頼まれてロシア船に乗り、横浜から箱館に行っていた)宛書翰集。文久元年から慶応元年迄と、明治八年一月三日の九郎助(のち親憲と改名)の手紙がまとめられている。親朋が後日整理して長崎図書館に寄贈したものと考えられる。一部を例示する。
    ○文久元年二月二十日付
 「一嘉悦平兵衛儀、昨十九日朝六半時海上無滞当港着岸、御放念可有之候、二月六日魯軍艦讃州田登津沖、蒸気ニ而通船ノ節、遠方ニ見掛ケ候由、嘉悦〓承知いたし候、定而当月十二三日頃迄ニは神奈川着岸与存候
  一当年は筑州御当番年ニ付、御雇水夫其外種々繁勤ニ有之候間、速ニ帰郷、遅く而も八月七日前ニは是非帰郷可被致候、九月初メ筑前侯御越座之節、魯軍艦船将江御逢可有之旨、岡村文右衛門殿内話有之、其節は其許通弁等相頼候様内話有之、先例ノ通拙宅江御入も可有之、旁早々帰郷可有之候、拙者義ハ一人ニ而暫時之休息も出来不申相困り申候
  一蘭通堀氏ノ様ニ手違ひ之取計等ニ而、今ニ牢預ケとやら、慎方第一、不行跡ノ義無之様相勤可被申候、出精いたし候而も千日ノ茅、朝暮暫時無油断相慎可被申候   」
    ○同年四月十四日
 「……聊之事ニ而も御掛御調役様方江相伺取計候義は間違無之、其許ノ不調法ニ相成不申候間、諸事相慎精勤可被致候一対州ニビリレフノ軍艦、当三月上旬比、船修復ニ参り候由、田中殿〓承り候、尤今程は最早退帆いたし候と存候             」
    ○同年七月十八日
 「一当二月比〓対州江ヒリレフ参り居、既ニ当月下旬比ニは中台殿、御定役中沢善司殿、港会所詰組之内地役人両人、諸岡栄之助も詰方として参り候由観光丸御船より御出ノ積り候」
    ○同年八月十五日
 「一当二月上旬比〓対州江魯軍艦一艘渡来、船将ビリレフノ由、色々難題計、御存ノ強情ものニ而、対州侯も余程御困りノ由、長持兄弟、小杉、中沢、金松、蘭通岩瀬弥四郎外一人、魯通諸岡栄之助、平山儀三郎も御連、当四月下旬比、観光丸御船〓対州江御渡海、江戸表〓外国御奉行小栗豊後守様並御支配向八人、御目付溝口八十五郎様御支配向六人、咸臨丸御船〓当五月上旬対州江御渡海、当五月下旬、江戸も長崎も、御役々様方御一同、観光丸御船と咸臨丸御船と、当表江御渡海、六月上旬比御帰府相成申候
  一当七月二十五日、中台公、中沢善司殿、村瀬又左衛門殿、御徒目付御小人目付、唐通詞何礼之助、蘭通詞今村朔□□諸岡栄之助一同、観光丸御船〓対州江亦々渡海相成申候、然ル処、来九月中ニは外国御奉行御目付御勘定吟味其外支配向、惣陸御下向、当表〓対州江御渡海相成候由、矢張ヒリレフ□着いたし滞留、退帆不致趣風聞専ニ御座候、右対州ノ義は御他言は御無用ニ候事
  一名村西留西六松村御四ケ所江別段御礼御見廻ノ愚札差出不申候間、御序宜敷御致声可有之候                                  」
    ○同年九月二十三日
 「……(東禅寺事件云々)外国人ノ御相伴不致様、諸事相慎、常州ニ不出逢様用心可被致候
  一当二月上旬比〓魯軍艦一艘、船将ヒリレフ大将ニ而、対州江参り滞泊いたし居候一件ニ付、右御用として江戸表〓惣陸外国御奉行野々山丹後守様、御目付小笠原摂津守様、御勘定吟味役立田録助様御支配向御組頭向山栄五郎殿、調役島田半左衛門殿、宅役元〆助竹中半之助殿、定役桑原文三殿、同心塩崎□□殿、鈴木斧太郎殿……当月八日九日十日、都合三日ニ追々御着崎、例ノ寺院所々江御旅宿被成、昨十八日咸臨丸御船并君沢瀉二艘ニ御乗込、同日五ツ時咸臨君沢ヲひき当港御出帆、対州ニ御出相成申候、対州ノ魯軍艦は八月廿四日引払候由御座候                           」
    ○文久二年二月十七日
 「一姫君様御着輿、夫〓御入城ノ義巨細被仰遣、前代未聞、御治世万々歳、乍恐太平ノ御代奉存候
  一拙者義も当戌四拾九歳ニ相成、万事不精ニ相成、難渋いたし候間、可成丈ケ早々帰郷いたし候様可被致、万一身分等御引立、御家人ニ共御加江相成候様成立候而は不相済、長崎表ニ而結構被仰付候得は、いわゆる故郷ニ而錦ヲ餝り候ニ而、家族共始親類中大悦不過之候、一人扶持ニ而も加増いたし候得共、先祖共江ノ□□親えも孝道、箱館并江戸表ニ而結構被仰付候共、曽ノことく拙者ニおゐては不承知ニ御座候、乗かかりたる船ノ義被申越百も承知いたし候得共、聖人ノ金言過たるはおよばさる如く、兎角過さるがかんよふ也、三四ヶ月之間鎮台〓箱館迄被差置候処、最早一ヶ年余ニも相成候間、早々帰郷御暇可被願出候                                   」
    ○同年三月五日
 「其許之様成愚昧ノものニ而も、当時西洋流行、魯語学少し心得候ニ付、万一其許身分結構ニ共被仰付、御定役格とか何とかニ而御家人ノ端シニも相成候而は以テノ外、たとゑ森山名村ノ様被仰付候共、拙者始家族共不承知、江戸箱館ニ而結構ニ成候共目ニ不見、長崎ニ而矢張庄屋見習相勤、其上其許ノ勤功ニ而一人扶持ニ而も御手当銀百目ニ而も当表ニ而頂戴いたし候得は、志賀家ノ面目、犬塚ノ娘も貰ひ、犬塚も日々相待被居、其許帰郷不致候ニ付、犬塚ノ親父も大立腹、おたかも引取候様被申候得共、当春は帰郷いたし候ニ付、其上ニ而早く取結ひ可申、折々なだめ居申候、便宜ノ節犬塚ノ親父并おたか江当暮前後迄ニは是非〓〓帰郷いたし候様、安心ノため書状いたし可被申候         」
    ○同年七月二十一日
 「一当六月廿五日、上海〓魯軍艦パサシニカ入港、久振ニ船将ヒリレフ江逢申候、例ノ多吉方江遊女ヲ置、休息所願出御免成、船津休息所平戸小屋上稲佐マタロス休息所も相願、例稲□□□遊女、両町〓参候、○ヒリレフ江度々応接いたし、不相替同人は強情ものニ而大ニ心配いたし、立山ニ而御困り被成候事                  」
    ○同年十月十日
 「一閏八月廿九日、パサシニイキ船将ヒリレフ、当港十一字出帆、上海〓直ニ魯本国江帰国いたし候由申聞候、同人義は中々悪人強情ものニ而、様々不都合之取計而已、御奉行所ニ而も御困りものニて出帆いたし大安心いたし候
  一薩州ノ御家来、英商人殺害、追々風説承り、実説之由ニ御座候、異人共盛ニ成候間、折々は左様之事も有之候歟可然候                      」
    ○文久三年二月五日
 「……立身出世ヲ相好候段、若拙者ノ様成ル愚昧ニ而も、親もなく家もなく、自身一身ノ事ニなり候ハヽ立身出世致すべし、夫は出家僧分同様、肴屋之悴ニ而も増上寺ノ大僧上ニも相成、是ハ親兄弟もなく家もなく安き事、先祖ノ家督打続いたす義は中々不容易六ヶ敷、拙者迄十代、其御許迄拾一代ニ相成 庄屋ニ而格別出精御用達いたし、一人扶持ニ而も御加増被仰付、格式身分等も�敷被仰付候義は、先祖江申訳も相立、親江も孝道、遠国江戸哉箱館ニ而如何様結構なる身分御引立、森山哉名村西石橋ノ様ニ相成候而も、先祖祭りも墓参も両親江孝道も親類縁者江聞見廻も出来す、其御許一分ノ結構ニ而、長崎ニ而ハ目ニかからず、夢ノ様成もの、逆上ものの事也                 」
    ○同年四月二十九日
 「……(長崎奉行所に行って話したら)中台〓も大御立腹、浦太郎義、当春は早春帰崎為致候様、御地ノ鎮台公〓、御掛合ニ相成候処、長崎江談も不致、其御許結構ニ蒙 仰候段、全御地ノ鎮台〓だしぬきやられ候ニ付、是非浦太郎義は長崎表ニ而相勤候様、御地江御掛合ニ可相成旨、県令江御内意有之候ニ付、必心配不致様御内意有之、難有仕合いわゆる難有迷惑とハ此事也、兼而其御許江掛合候通、江戸哉箱館ニ而如何程結構ノ身分ニ相成候而も、拙者ニおゐてハ不相好
  一生麦一件ニ付、近々戦争有之候様、鎮守より御触達有之、先達而〓市郷共騒々敷、いつれも大村江立退可申処、追々鎮静ニ相成、唯今ノ模様ニ而は当表ニ而ハ戦争ハ無之模様、今日も製鉄所鎮台大久保公御見分、九字御出門ニ而十字製鉄所江御降臨之所、十字過頃□ガイタマク魯軍艦入港、アトミラルホヽフ乗込、直ニ製鉄所ニ参り、拙者義ポヽフ義船将其外ムハノフ江面談、然処明朔日暁四字当港出帆、御地江参り候旨ムハノフ申聞、其御許江書翰其外送候ハヽ早速相届可申旨ニ付、夜中ニ相認メ、申達置義〓海山ノ如く有之候得共、不能愚毫候
  一此間中当表は大騒動、筑前肥前御両家太守始家老番頭一番手二番手三番手迄出陣ニ而、湊内所々御台場出来、其外近国諸家御出張、各国ノ異人共も大ニおそれ、日本ノ武勇実ニ勇々敷、日本はマレンカニても世界第一ノ強国ニ而可有之          」
    ○元治元年六月十六日
 「一外国人共取扱御用掛り之御役々、別而通詞共、追々御承知ノ通、諸国ノ浪人〓殺害被致候時節ニ付其御許も外国人之ためニ打果され候而は、拙者迄も世上ノ人ニ無申訳、不忠不孝ニ付、諸事相慎ミ兎角過たるハ及さる如くニ而、帰崎之節は可相成は船路ノ方可然哉ニ存候                                  」
    ○同年七月十日
 「長崎港内ハ十分位ニ而無之、二拾分ノ御備相立、迚も各国〓軍艦数千艘渡来、戦争いたし候共まけ不申、筑肥御両家始御人数出張勇々敷事共、外国人共も大ニおそれ……」  

13—68 東京親朋書翰綴込                       二冊

  志賀浦太郎親朋より父親九郎治宛書翰集。第一冊は文久元年より元治元年迄、第二冊は元治元年より明治六年迄。第一冊の半分を撮影したが、全冊撮影の必要がある。ロシア問題がよくわかる重要史料である。
  ここでは健順丸に乗り、ロシア人の通弁として横浜に赴いた際の文久元年十一月二十一日付書翰の一部を紹介する。
 「一八丈島ノ先ニ御座候無人島、日本ニ而小笠島ト云ふ、此島元〓日本ノ内ニ而、未日本人ハ一人も住居不申候処、先頃〓亜英其外国々〓罷越、家等相建相開き居候趣、然ル処日本ハ我国内ニ於て不用ニいたし置用ひさる事也、然て夫ヲ除クルト申訳ニハ無之候得共、一応今般外国奉行水野筑後守を政府〓遣し見分為致候上、我国ノ人を為住置度、或ハ石炭等も彼嶋江運ひ置、軍艦ノ為メト致度候間、強而頼む儀ニハ無之候得共、若此船ニ而参り呉候ハヽ千万大悦ニ候
   魯士答曰、尊命ニ候得は相肯く儀ニは無御座候間、必我等可参旨御沙汰有之候得ハ背事ハ不好、併余り必用ニも無之ハ相越シ不申
   右ノ答振ニ付再頼も無御座、其儘ニ相成、私抔も大悦安心仕候、若異人承諾仕候得者、則□□相起し不申処、右ニ付大安心仕候
  一今般大君御婚礼禁裏〓大君方江御出ノ儀ハ、日本相始シ〓無之、此節が則始メテ也、付而ハ大君も御位被為登候位ニ而、我国ノ大礼ニ候、然ル処、右
   御婚礼ニ付而ハ、数千之公家出府徘徊いたし候、此公家ト申ハ、我内ニハ小者下女なと□□不召置自分飯抔煎ル様ニして、高位ノ者なるが故ニ、老若始我々迄も右を相よけ居候模様なる下賤ノ高位な者ニ付、威を振ふ事無際限、其上外国人を不好候間、根元外国と条約相結ぶ節も京都ニハ不立寄様ニ而相定メ候、当分彼公家江府を退散いたす迄ノ間凡廿日計りノ間、不用ニ滞留相成候得共当港江罷在、退府いたし候上ニ而江府江出帆被致度、此段申達                                 」
  明治五年十一月十二日付書翰の一部を左に例示する。
 「何分ニも至急の反訳物ニ取掛居、寸暇なく何レ後音ニ譲り候、反訳物といふハ、実は此度御政体御改正ニ付而は、魯国ノ法律ヲ重ニ御施行ノ積ニ而、即今専ラ魯国律反訳中ニ御座候、右は副島〓秘命也、大至急之事ゆへ、日夜〓〓、先は御安否伺迄、早々頓首」  

13—69 神奈川表箱館表相越候日記                   一冊
  志賀浦太郎の日記。文久元年二月から箱館到着まで。
13—58 魯西亜船渡来一件 嘉永六年                  一冊
  プチャーチン一行長崎入港時の簡単な記録。
 「第一フレカット形(パルフーダー)
  第二ストームボート(ウヰストウク)
  第三コルフヱート形(アレウート)
  第四タランスポルトシキッフ(メンシコフ)
   (中略)
  右ノ通御座候、以上
   嘉永六年七月十七日                阿蘭陀通詞
                               志 筑 亮 夫
                               名 村 貞五郎
                               楢 林 定一郎
                                      」
  本書は志賀親朋寄贈書。

14—58 御用留 嘉永六年・安政元年・同三年・同七年・慶応三年    五冊

  浦上村渕の庄屋御用留で前四冊は志賀九郎助が記し、慶応三年分は志賀礼三郎が記している。極めて詳細なもので、長崎代官所からの達・廻状、また庄屋からの届など、克明に記されている。特に異国船が来航した時の村の役負担が全て判明する。

  安政七年のものにつき、記載例を示す。
 「    二月七日
  瞽女仲ヶ間入ノ儀願出候ニ付申上候書付
                             稲佐郷しほ娘
                                    す み
  右ノもの盲人ニ相成候ニ付、当節瞽女仲ヶ間入仕候段申出候ニ付、此段御届申上候、以上
   申二月九日                        志賀九郎助 」

 「    八月
     乍恐奉願口上書
  一私共儀、先前〓唐紅毛人江遊女売込御受被仰付、加之近来外国人江も同様売込商売手弘相成難有仕合奉存候、猶又今般稲佐郷江止宿いたし居候魯西亜人共〓も遊女差越候様、其筋〓申参候ニ付、製鉄所ノ振合も御座候間、差遣候様仕度、然ル処、海上相隔候場所ノ儀ニ付、往返ノ度々風雨其外ニ而差掛り海渡差支可申哉も難計、右様ノ節遊女取纒置候場所、兼而差極置不申候ては不取締ノ儀と奉存候間、右稲佐郷百姓甚八伊太郎和助と申者方江申談、遊女共為立寄候様仕度、何卒右ノ趣御免被成下候様、此段連印以書付奉願候、以上
     申八月                              」

  このあとに、丸山町六名、寄合町十四名の連署がある。
 「    十月六日
  一西洋紙并書翰筒共
     但文字相認候筆類并封糊八本添
  一さぼん一
     是者魯西亜語通弁仕候栄之助江一番船船将〓差贈申候
  一袂時計一
     是者同人江三番船船将〓差贈申候
  一和魯対訳辞書一冊
     是者魯西亜語通弁仕候儀三郎江五番船士官ペトロフ〓差贈申候
  一魯西亜文法書一冊
     是者忰浦太郎江同人〓差贈申候
  一古地球損物一
     是者一番船船将〓忰浦太郎江差贈申候
   右之通差贈候者申出候付、愛用仕可申哉奉伺候、以上
    申十月六日                     志賀九郎助(印)

          御掛御調役並田中殿江差出候処、品物共御用所ニ差出置候様御沙汰ニ付、年行司馬田左十郎ニ相渡ス、同人御用所ニ持出候事            」
  本書は志賀親朋寄贈書。
二 諫早市立諫早図書館
 諫早図書館では一九六四年に諫早英雄氏から図書館に寄託された諫早家文書を閲覧した。全体は史料と書籍に分かれ、それぞれペン書きの仮目録がある。史料は、1本藩関係、2諫早家関係、3その他に区分され、番号順に架蔵されている。ただし、同一番号の下に、種類の異なる史料が多数収められている。調査の重点は、諫早家の近世の史料が多い目録番号2—6から2—20までの史料においた。以下に記すのはその概要である。なお、一九八〇年に五野井隆史氏が撮影したものは、対象からはずした。  

1—29 科人帳                             二冊

  第一冊は子〜午、第二冊は寅〜辰にわたる判決の申渡しを留めている。表紙は後からつけたもの。子を明和五年と推定しているが確証はない。判決申渡しの主体は明記されておらず、また、安永三年の御赦による抹消がある。家中への牢人刑があるのも注目される。記載例を示す。
 「  申渡         文十
  右之者兼而佐嘉表奉公ニ罷出候儀停止ニ被仰付置候処、(明和六年丑二月帳入所無之由ニ付非人組ニ遣候也)忍候而奉公ニ罷出候而已ならす、盗いたし、爰元罷下、数日幡罷在調へ之節ニ相成始終申出、旁以横領不届至極候、惣而一途不被仰付候而不叶者ニ候得共被宥追故被仰付者也
    子九月                               」     

1—30 諸控 町方聞次所 慶応二年九月〜三年八月            一冊

  町方からの願、上からの口達、聞次所から請役方への伺等、広範な内容。町方からの願には、町の別当が間にはいっている。時節柄、例えば、領内通行者の統制などの記載も多い。   

1—30 恒例帳 正徳二年                        一冊
  「大庄屋勤之事」「所々番所之事」「佐嘉諫早御作事方之事」なと。年中行事的なものではない。
2—6 当時武家伝系図                         一五冊
  第一之巻は徳川氏よりはじまり、各氏の概略を述べたあと系図を記す。虫損著しい。
2—7 魯西亜来津録 一〜廿七(四・五・十・十一欠)          二三冊

  ラクスマン来航からレザノフ来航までの対露関係の諫早領の史料を編纂したもの。以下、各冊の目録を抄録する。   

 一
 「一寛政四子年於蝦夷地魯西亜人江御渡被成候信牌之事
   (中略)
  一文化元子年魯西亜船可致渡来風説ニ付而先以御内分御仕組之事       」
 二
 「一魯西亜船渡来之風説御奉行所〓御内沙汰之事               」
 三
 「一魯西亜船渡来御仕組之儀、御役方〓達帳を以相達有之候事         」
 六
 「一御固場内扨又御屋鋪詰中外出御掟書之事                 」
 七

 「一十一月十七日両御番所其外抜群厳重之御備方候、且長々之滞陣中病人等無之哉之段、肥田様〓御聞番迄被仰聞候一件之事                     」  

 八
 「一十二月八日御親類御家老中江被差出候御手頭之事
  一同九日多久勘助殿引払之節、四組出張御手配方ニ付深掘ニ而讃岐談之趣被申上候一件                                     」
 九
 「一ヲロシア船帰帆之御手当方ニ付、長崎御仕組方ヘ御尋書之事        」
 十二
 「一魯西亜船渡来付而大御番中両御番所七ヶ所、御台場扨又御領分伊王島・神島・小鹿倉御手当其外御仕組一品                           」
 十三
 「一魯西亜船渡来之節御仕組帳之事                     」
 十四
 「一西泊御備御仕組帳之事                         」
 十五
 「一西泊御出張之節御召船切幕御打セ被成候一件               」
 十六

 「一魯西亜共願不被相叶被差帰候砌背命候儀等有之、格別之御警衛方御差図有之候節、御先手二組警固両組被差向候御目論見有之度、中野七郎右衛門殿御含被成御書付之事」
 十七
 「一魯西亜人共願之筋御免無之帰帆被仰渡候節、何角背命候儀ニ至リ、厳格之御手当有之候節、御仕組被相立候一件                         」
 十八
 「一子十二月御固場引払以後、一左右次第御人数被差出候御差図有之候節、内御台場扨又内湊江、弐ヶ所外自御領分固等先以諫早〓御出勢之御仕組之事         」
 十九
 「一魯西亜方ニ付、御国之御人数御役所年行司扨又筑前屋代〓申乞候ニ付、長崎ニおいて御吟味有之、請役所伺越ニ相成候処、御差図申来候一件            」  

 二十
 「一魯西亜船渡来ニ付、(子九月十日)長崎御越御供附行列付之事       」
 二十一
 「一魯西亜船渡来ニ付、出張面々扨又地方役人御褒美之一件          」
 二十二
 「一魯西亜船渡来之節出張之人々駈付遅速、勤之浅深御役方江御書出之事    」
 二十三
 「一魯西亜国王呈書和解之事
  一同使節御役所御呼出之事                        」
 二十四
 「一魯西亜船再渡之節、御心得方御両家〓御伺之末御差図ニ相成候一件     」
 二十五・二十六・二十七

 「一遠山金四郎様御下向ニ付而、御番方御心得方御尋之節御答之御吟味書、写共三冊                                       」

2—7 魯西亜滞船中阿蘭陀出帆之一件                   一冊
  形式は『魯西亜来津録』に同じ。目録を示す。
 「一魯西亜滞船中阿蘭陀出帆之一件
  一右同断ニ付若殿様長崎御越之一件
  一魯西亜滞船中ニ付御減番不相成一件                   」

2—7 魯西亜方御贈答録 共六冊 三、四〜六               二冊
  諫早播磨と用人の、他親類・本藩家老等との往復書状の編纂物。

2—8 俄羅斯亜雑話                           四冊

  凡例を示す。
 「一此編諸方ノ記録并見聞スル所ヲ以テ輯メタル者ナリ(略)
  一絵図ヲ入レル事、読人ノ目ノ慰メ気転スルタメナリ、俄羅斯亜船同ク人物其外、目ニ見ル所ハ烏鷺ノ違ヒナケレ〓、中ニモ御番所備方ノ義ハ、遙ニ見ル事ニテ、細密ヲ尽シカタシ、故ニ大概ヲ描モノナリ
  一漂流人ノ所ニ絵図ヲ加フ〓、一寄ヲ述ルノミ、サレ〓口書ヲ以テ照シ合セ、且手寄ヲ以粗其趣ヲ漂流人ニ問合セ、旦阿蘭陀ノ図様・外国図・ムスコ—ヒヤノ図・万国人物図等ヲ見合セ描タル事ナレ〓、元ヨリ外国ノ事ナレハ想像シ筆ヲ採ルモノナリ
  一ヲロシアト書タル文字、我国ノ万葉仮名ニ同シ〓ニテ、元ヨリ字義ナシ、且和漢音ノ異ナルアリテ、漢ノ字仮名我国ノ音ニ合サルヲ以テ、漢音ヲ知サル人ハ、イヨ々々合点ユカズ、種々見及フ所、魯西亜、烏路察亜○鄂羅斯○俄羅斯亜、右ノ外私ニ万葉仮名ヲ用テ書モノアリ、魯西亜ト書ルハ、秦氏ノ蝦夷奇観ニ見ヘタリ、此ヲ以テ多ク是ヲ用ユ、鄂羅新ハ外国志等ニ見ヘタリ、俄羅斯亜ハ清朝上論ノ書ニアリ、俄ノ字漢音ヲフカフノ間ヲ云音ナリ、漢ノ字仮ナリ、今此ノ俄羅斯亜ニ従フ                」
  各冊は、第一冊がレザノフ来航(長崎入港)について、第二冊が各藩幕府の対応について、第三冊が佐賀藩備人数について、第四冊が漂流人の聞書からなる。   

2—9 全預様御代壁書 寛永五年霜月朔日                 一冊
2—10 御即位之節御上京日記 享保二十年                二冊
  本書は、桜町天皇即位への佐賀藩祝儀使上京一件書類で極めて詳細。朝幕関係の重要な史料。
 「一享保廿年卯五月十九日
   石川様二御丸御出仕被成候処、御当役
   十左衛門様〓御達御座候者、当冬
   御即位之節御使者
   石州様被為 仰付候、此段御内意被
   相達候様ニ与被仰出候段被仰達候                    」
2—11 詮議控 会所 天保三辰正月ヨリ                 一冊
2—11 諸控 御目附方 安政三年 同四年                一冊
  旦那様の動勢と人事関係のみで、政事向の記事はない。
2—11 日記 延宝八年正月〜八月                    一冊
2—11 寺社方控 嘉永五年〜安政四年                  一冊

  諸寺社よりの届、願、及び幕達、藩達など。例えば安政二年三月には梵鐘に関する幕達、同年五月には各寺よりの撞鐘・半鐘などの届が留めてある。更に同年九月、左のような書式の請書を、安政三年六月二十二日迄に提出せよとの命が下った。
 「    覚
  撞鐘其外品付を以御達仕置候処、右御用ノ節〓、何時も差出候様、尤御差図迄ノ処、被相預置候段、尚又御達ノ趣承知仕候
    卯九月                         何  寺
   寺社方御役所                             」
 この命に応じ、安政二年九月から各寺より請書の提出がはじまった。  

2—12 雑事 共二冊ノ内                        一冊

  文化元年から三年にかけてのレザノフ来航一件文書。
 「此書取〓藤崎十兵衛〓佐嘉江差越被申候写也、文化元年子十一月十七日ヲロシヤ使節レサノツトを始随従拾九人ノ者揚陸ノ次第                   」  と記されている。

2—12 手控 文化五年十二月中ノ内一                  一冊
  長崎警備関係。
2—12 手控 上巻写 文化六年三月中二冊ノ内              一冊
  長崎警備関係。尚下巻も合綴されている。
2—12 手控 文化六年五月中                      一冊
  長崎警備関係。「手控 文化六年六月七月」と合綴。
2—13 御内御控 文化十二年十二月                   一冊
2—14 略座居帳 御目付方 元治元秋改                 一冊
  諫早領の家中の役職名が記されている。
2—15 仰出扣 享保十九年正月ヨリ                   一冊
2—16 臨時扣 宝永五年〜享保四年                   一冊

  領主の裁可を受けるべき事項の全てが記されている。中に非人と村人別との関係についての「矢上村非人一件」の史料がある。

2—16 請御意相済候書 上 文政二年                  一冊
  「達 御聴候」こと全てを留めてあり、従って領内諸事百般にわたる。
2—16 津方一通出入下控 宝暦三年                   一冊
  漁師訴訟一件史料。
2—16 佐嘉御役方取合扣帳 寛延三年二月                一冊
  野口賀右衛門作成。諫早領内の全体像がわかる。
2—16 知行高壱部御免新田帳 割付所 寛延三年             一冊
2—16 儀亘院様寛永年中江戸御供被成候節手覚書             一冊
2—16 佐嘉・会所贈答扣 文政四年八月                 一冊

  表紙に「担那様御二方様諫早御下リ内 御供御用人蒲池左次右衛門・下リ合立川軍右衛門」とある。贈答とは書状の贈答である。   

2—16 他方案文 文化元年〜二年                    一冊

  他方へ差出した書状の案文を留めたもので、内で一・二に分かれる。
  一は「魯西亜船渡来一件他方案文」で
 「一筆致啓上候、一昨七日異国船一艘長崎渡来ニ付、被相糺候処、去ル丑年於蝦夷地信牌御渡有之候おろしや船ニ而、願之筋有之候趣ニ而外ニ疑敷儀も相聞不申旨、成瀬因幡守〓長崎差置候家来之者江相達候通申趣之致承知候、此段為可申達用飛札候、恐惶謹言
     九月
    松平官兵衛様人々御中                        」
 から始まる。御家老中から九州諸藩(他邦)の家老中宛の書状文案の留が大半。御家老中は佐賀本藩のものか。

2—16 江戸御留守日記 明和七年七月ヨリ                一冊
2—16 御私領本明寺村大川御蔵入大渡村其外より川中御境と申懸候一件   一冊

2—17 諫早領立好古館学制 天明七年十一月               二冊
  学館の詳細な規則。
2—17 諫早減知之事 寛延元年                     一冊
2—17 戸石漁人網場漁人漁場出入一件 寛政五年             一冊
2—17 年中行事之書上 諫早家 文化十二年               一冊
2—17 藤津高来彼杵郡之内諫早私領田畑石高帳 天保三年         一冊
2—17 長崎江異国船渡来之節人数出張且御奉行所江早速使者差出記録書抜  一冊
2—17 佐嘉御屋敷詰帳 文政十三年九月                 一冊
2—17 孝行奇徳成者行状書 寛政四年                  一冊
2—17 神社記 延享四年                        一冊
  神社と寺院の書上げ。
2—17 諫早領主伊勢参りに随行した者の記録 享保十二年         一冊
2—17 日新記 地 繁之尉役内 安政六年五月              一冊
  長崎県立長崎図書館諫早文庫の中の諫早請役方日記の原本である。
2—17 魯西亜渡来録 序〜七                      七冊
  序を示す。

 「 魯西亜船渡来録序
  文化元年子七月五日入津之阿蘭陀人より、追々おろしや船可致渡来旨、内分御奉行所江申出候趣、御出入通辞共〓極内々為知来候付、寄々御仕組可相整候半、同年九月六日異船壱艘御領海沖江相見候段、遠見番所より及注進候末、無程乗入候処、右船江日本人四人乗組罷在、右之者共よりおろしや船之旨申出候趣相聞候……右一件万端無滞相済、諸御手当筋行届候段、六月十八日於江府御懇之御褒詞被蒙仰、且右一件懸合中御褒美等被仰付候迄、一通左ニ記之
    但渡来之節〓帰帆迄之間、守衛一通御仕組録記之、且殿様御趣、扨又御減番并阿蘭陀帰帆躰、おろしや一件付而は別事に而、事々首尾取繕別冊ニ記之、其外御目付下向或は御褒美并請御意一通、或は仕寄出来兼候諸書付類は、是又別冊ニ記之      」
 これから、2—7の編纂物『来津録』・『阿蘭陀出帆之一件』・『御贈答録』も、この『渡来録』編纂の一環として編まれたものと考えられる。各冊の凡例を抄録する。
  一
 「おろしや船追々渡来之趣相聞候段、御奉行所〓御内達之末伺事        」
  二
 「おろしや船壱艘相見候末、御領内伊王島江探ニ入候付、御奉行所〓御糺方相成、左候而四郎ケ島江御警固人数等被差出、且御非番御待外四ケ所御台場、筑前江御引渡、其外御手配相済候迄                                」
  三
 「黒甲斐守殿固場巡見物、扨又筑前より小屋掛一件、且番所夜分山陰等ニ引取之儀、御奉行所申入、其末魯西亜頭立候もの木鉢浦江上陸候……             」
  四
 「おろしや船破損所有之、船修理ニ付……御奉所所江上陸之振合段々聞合等相成候処、追々梅ケ崎御引入可相成と被申儀、内々相知来候迄……             」
  五
 「梅ケ崎揚陸被仰付筈ニ付、御船可差出候様、且追々彼者共御役所御呼出可有之ニ付、市中仮番所其外御手当之儀、御役所〓御内沙汰有之候、其末梅ケ崎上陸被仰付候付、諸手当扨又就右大村警衛方ニ付、筑前聞役示談有之……               」
  六
 「梅ケ崎揚陸ニ付、御番所御帰等厳重之御仕成之旨、御奉行〓御挨拶有之候付、御番所詰其外江御褒詞被仰出、且上陸付而御領向固場引方相成、其末彼者共湊内挽入相成候様、江府〓之御下知申来候付、御台場固引取、其外番船武器等引方ニ相成、且播磨其外引払候迄……                                   」
  七
 「御番代之儀、おろしや人共御役所御呼出迄之処、御猶予相成度御内沙汰、且市中仮番所建方并彼者共御奉行所御呼出、扨又番所取除、旦おろしや人共出帆被仰付候付浦触、或遠山殿〓御尋事……将亦重而右船渡来之節御心得方御尋、再右一件付而御褒詞被蒙仰候迄……                                    」  

2—17 同 附録                            三冊

  一は、「魯西亜船渡来ニ付請御意之一通」と題し、レザノフ来航に関して領主の御意を受けた諸政策の決定過程をまとめたもの。
  二は「魯西亜船一件日記書抜」と題して、文化元年九月六日〜十九日の日記抜すい。  三は「魯西亜一件ニ付被進物一通」。   

2—17 同 雑事                            一冊
  目録を示す。
 「一魯西亜人共江御尋書并御諭書等之事
  一魯西亜人共御奉行所御呼出ニ付手続書之事
  一魯西亜人共御奉行所御呼出迄之手続之事                 」
2—18 御聞番贈答 八月九日〜九月七日                 一冊

  文化元年レザノフ長崎来航一件史料。「御聞番贈答 九月七日〜十二日」・「御聞番方贈答其外 九月十二日〜十五日」が合綴されている。   

2—18 御聞番贈答 二 七月十六日〜二十日               一冊

  レザノフ来航一件史料。左に記載例を示す。
 「一筆啓上仕候、今日成瀬因幡守殿御用人中〓内談ノ節有之候条、可罷出旨申来罷出候処、御用人近藤十兵衛申聞候ニ、近年ヲロシヤ国ニ而船を仕立、諸国江交易ノ道を開き候為、周回仕、日本江も罷越候趣候、尤大洋乗渡候儀ニ而、何時渡来可仕哉遅速ノ程は難計候得共、大抵来年迄ノ内ニ而必乗来可申由、阿蘭陀本国〓当地在留ノかひたん江申通候由申出候、右は風説ノ儀ニ而強て不取留儀候得は、急度申達候振合ニ而無之、勿論、此御方筑前ノ儀は、御役柄之御儀ニ候得は、序を以用人抔〓致物語置候様、因幡殿〓御申付候
 

  (下略)
    七月十六日
                                関 伝之允
                                      」
2—18 代官心得書                           一冊
2—20 領中人改揃申渡条々 明暦元年                  一冊
2—20 午十月以後銀米御繰合御吟味覚書                 一冊
2—20 御境目事蹟 慶応元年再補                    一冊
  享保五年の一件。
2—20 少将様長崎御往還諸扣 安政三年九月               一冊
2—20 少将様長崎御往還方諸控 御側 嘉永五年四月           一冊
2—20 殿様御船中長崎御越伺手頭 文政五年               一冊
2—20 大殿様御成ニ付仕組役割 天保三年                一冊
2—20 御絵図諸村判突帳 元禄十年                   一冊
2—20 江浦粒浦争論扣                         一冊
2—20 魯西亜船渡来一件他方来状                    一冊

  文化元年、レザノフが長崎に来航し、目付遠山金四郎が長崎へ下った。この史料は、この件に関し、福岡・秋月・平戸・唐津・大村・嶋原の各藩の家老が、「御家老中」に充てた書状を留めている。おそらく佐賀本藩の史料である。なお、書状の内容は事務的なものである。   

2—20 文政元申年〓同四年迄牧嶋鯨網株一件長崎御奉行所出訴相成居候末内済方一件 一冊

三 大村市立史料館
 史料館所蔵の史料は、『大村市立史料館所蔵史料目録』によって全体がわかる。史料館でおこなった作業は、大村家史料のうちの「九葉実録」「臺山公勤王録」をはじめとする幕末維新期史料の内容調査である。
(九葉実録)

204—56〜112 九葉実録                     五七冊

  大村藩の編年体の藩史。法令などを多く引載し、藩政史研究の基本史料である。大村純熙が藩主となった弘化四年から文久三年までの記事を収めた巻五十四から巻六十までの七冊を欠くが、この部分の内容は山路弥吉『臺山公事蹟』の記述でわかる。幕末期の冊は左の通りである。

 巻五十  天保六〜七年
 巻五十一 天保七〜十二年
 巻五十二 天保十三〜十四年
 巻五十三 弘化元〜三年
 巻六十一 元治元年
 巻六十二 慶応元年
 巻六十三 慶応二年
 巻六十四 慶応三年
 右のうち六十二・六十三・六十四の三冊を撮影。

204—113〜115 九葉実録補欠草稿                 三冊
  編年体に記されている。「九葉実録」の補である。
 巻一 欠
 巻二 嘉永五年閏二月〜安政四年四月
  家中へ達、辞令など、ロシア船入津に関してはくわしい。
 巻三 安政四年五月〜六年十二月
 巻四 万延元年正月〜文久三年十二月

204—116〜122 九葉実録雑誌                   七冊
  本書は法令、定、院使饗応条件などを時代別に編纂したもの。
 巻一 宝暦〜天明
 巻二 寛政元年十二月朔日御法令条件
 巻三 文化六年〜天保十四年
 巻四 嘉永二年八月一日押行列一件
    嘉永五年八月押行列一件
    安政元年六月一日令条並三日五日御触達
    文久元年七月九月十二月令条
    元治元年十一月十二月令条
 巻五 明治二年十一月十一日改制令条
    明治三年五月氏子改仮規則官令条件
 巻六 明治三年九月一日神社改正并氏子規則条件

  この冒頭を示すと、
 「今度神社改正被 仰出候所以は、最前天朝より諸国神仏の混淆せるものを弁折廃替し、且氏子編制すへきの命あり、神浦弥門、稲毛惣左衛門及ひ二三名をして其事に任せしむ、即朝旨に基き仏体なるものはこれを廃し、神体仏名なれハ其名を改め、神名仏体なれハ亦之を廃す、其廃するもの皆これを寺院に送る、遂に一村一社の例を以て大に沙汰する処あり、或は村の大なる処は二三社を建て諸人の便を取るものあり、尽く神道を以て祭る、然る後郷里を結て戸籍を編制し、其村社に附属して氏子となし、印証を授けて氏子の証とす、其事を掌るもの各社神官を置て之に任す」
 巻七 明治三年閏十月神祇官江差出復飾神職姓名
    明治四年正月弁官江差出大村藩内神社書上并寺院廃止合併届
(臺山公勤王録および臺山公事蹟)

101—49〜63 臺山公勤王録                    一五冊

  幕末維新期の当主大村純熙の勤王事蹟を編年に記したもの。引用史料が多く出典が明記されている。第一巻を欠くが、第二巻は安政年間の記事であり、第十六巻は、明治四年十一月、純熙が岩倉遣欧使節に同行する記事で終っている。編者および作成年代については、第八巻の冒頭にあった次の附箋の内容が手掛りになる。
 「本書編纂之当時、東海道軍ニ関スル材料ニ乏シク、已ムヲ得ス渡辺男爵之講話筆録ノ一ニ拠リ候処、後一二ノ参考書発見、京都警衛日誌、東征日誌、編集之処、本書ニモ多少校訂スヘキ必要ヲ生シ候、又、東征従軍ノ章中、( )内「陣中日誌」トアルハ、京都警衛日誌ト改ムヘキモノナリ、他日閑ヲ得テ訂正ノ業ヲ完フセント欲ス、読者幸ニ諒察ヲ仰キ候
    明治三十二年                 編者  樋口保 附記 」
  これにより、作成時期は明治三十二年以前、編者は樋口保であることがわかる。
  なお、純熙の事蹟を記した刊本として、山路弥吉が編纂した『臺山公事蹟』(一九二〇年発行、一九八五年に大村家が覆刻)がある。この書と「臺山公勤王録」の文章を比較すると、後者の記述を美文に改めて記したと思われる箇所が多くある。おそらく『臺山公事蹟』は、「臺山公勤王録」を素材として執筆されたものであろう。   

101—64〜66 臺山公勤王録附録 第二・三・四            三冊

  この附録は三冊が現存しているだけである。主な内容は左の通り。
 第二 (3)軍制備方要綱(軍役の定など)
    (4)慶応丁卯の内擾要書(稲毛氏私録)
 第三 (5)職制改革(明治二年十一月の藩内の職制改革は詳細。そのほか明治三年の達書や禄制改革令など)
    (6)常備兵編成(明治三年十一月の兵制令)
 第四 (7)神社釐革(明治三年の神社改正規則・氏子規則・神職心得・氏子籍編制規則・常磐神社創立并御直祭諸社口達・藩内総神社帳・本末寺明細帳)  

213—10 桂小五郎我藩ヲ訪フ                     一冊

  『臺山公事蹟』のうち「桂小五郎我藩ヲ訪フ」「文武ノ学風一変ス」「不平ノ徒窃ニ党ヲ結ブ」「内訌及ビ其沈静(一)」の節の草稿。   

213—28 山路氏原稿(包紙)                     一枚
  213—10等を包んでいた包紙か。
213—12 公長崎奉行ヲ辞ス                      一冊

  『臺山公事蹟』のうち「公長崎奉行ヲ辞ス」「浅田弥次右衛門の貶黜」の節の草稿。213—10と同紙・同筆。添削されているが、その直された後の文章が『臺山公事蹟』のそれとほぼ重なる。   

213—20 対馬藩内訌ノ調停                      一冊
  『臺山公事蹟』のうち「対馬藩内訌ノ調停」〜「薩長二藩ト聯盟ス」の節の草稿。
213—21 (幕末政情ニ付書付)                    一冊

  『臺山公事蹟』のうち「上巳の変」からの草稿。但し、章節等が分けられておらず、213—10等より一段階前に記されたものか。   

213—23 幕末政情ニ付渡辺昇問答                   一冊

  山路弥吉からの質問一〜六に対し、鈴田健五郎が返答し、さらに自発的に誤りを指摘している。なお目録には渡辺昇問答とあるが、彼に関係した内容は質問一だけである。   

213—22 幕末政情ニ付問答 五月二十六日               一冊
  山路弥吉からの質問七〜十に対し鈴田健五郎が返答したもの。
(藩史編纂関係史料)
213—2 「旧藩士へ通知案」等藩史編集関係一綴 明治二十六年頃     一冊

 「拝啓陳者、嘉永癸丑以来明四年ニ至ル迄、旧藩ニ於テ国事并ニ時勢ニ関スル文書類、当時ノ秘密ニ属スルモノト雖トモ取捨ナク取束可差出旨、御沙汰ノ趣宮内大臣ヨリ被相達候ニ付、一昨年来特ニ取調員ヲ置キ、維新関係ノ諸家トモ交渉ヲ開キ、且史談会ヲ設ケ、目下史料蒐集中ニ有之候処、此事タルヤ決テ一己ノ私事ニ無之、実ニ我カ旧藩独特自負ノ外交並ニ勤王事蹟ヲ公然国家史料ニ書出ス一偶ノ機会ニ有之候得者、万一事実脱漏ノ廉モ有之ニ於テハ、累代ノ御素志モ、藩士ノ勲労モ、永ク草莽ノ間ニ失却シテ、再ヒ回復スヘカラサル千載ノ憾ミトモ可申儀ニ付、此際充分ニ取調、宮内省ヘモ差出シ、且当家記録ニモ相遺シ度候間、(△)維新前後ニ関スル貴殿ノ事歴、且御記憶ノ事柄無細大書立、至急御差出被下度、右ハ拙者ヨリ御相談可申進旨御沙汰ニ付、此段得貴意候也、追テ別紙ハ取調ニ関スル内規ニ付、御参考迄一通相添申候
   「廿六」年三月七日                 児玉九左衛門
         宛
  大村藩勤王事蹟取調手続
  (三項略)
 事歴取調方法
  歴史編纂ノ方法ハ文章家ノ工夫ニ在リト雖トモ、是レカ材料ヲ蒐集スルニ就テモ、予メ大略ノ目的ヲ定メ、問題ヲ区別シテ取調候方、事実ノ網羅上頗フル便誼ニ付、左之目録ニ基テ取調候事ニ相定メ候
  ○九葉実録 令公 附録  維新始末
   緒辞 幕末ノ藩政并外交
     上
   此部門ニハ外舶ノ来往・長崎ノ警戒・沿岸ノ築台・藩政及兵制ノ改革・文武館ノ拡張及士気作興ノコトヨリ、天下ノ形勢漸次変遷シテ尊攘佐幕論沸起シ、各藩ノ所論一定セス、脱藩勤王ノ士幕府厳束ノ下ニ潜行シ、世論日ニ切迫シテ危期旦夕シアルコト、其凡ソ嘉永以後大村藩屏ノ大体ヲ略記ス
     下
   下ノ部門ニハ大村藩当時ノ理済倉庫ノ状況ヲ記ス
   第一 三十七士ノ同盟并勤王主義ノ発達
    此部門ニハ………
   第二 大村藩ノ内擾
    此部門ニハ………
   第三 戊辰戦争
    此部門ニハ………
   第四 結末
    此部門ニハ………                          」
  この後には、桶口編史主任、江頭藤吾、久松源五郎、佐藤又兵衛、長崎七兵衛、児玉九左衛門らの往復書簡が留められている。   

213—3 大村藩勤王諸藩交渉記録                    一冊

  島原・福岡・在大宰府五卿・対州・平戸・土州・長州・薩州・棚倉・雑(幕府・長崎)に分けて、大村藩(士)の交渉の記録を整理したもの。事蹟編纂過程での中間作業と思われる。   

213—9 家中江口達書付                        一冊

  文久元年七月四日、同二年六月十七日、同二年十二月十五日、元治元年十月二十四日の家中への申渡しを集めたもの。編史の作業過程でつくられたもの。   

213—27 明治維新と大村藩                      一冊

  同著書のあとがきには以下の如くある。
 「明治三十三・四年頃より郷土史教育熱昴まりしより、其参考資料にもと考へ明治三十五年夏休暇を利用して資料蒐集、同年冬休暇までの間に第一蒐として表題を撰び編纂セリ
    明治三十五年十二月 吉崎仁右衛門                  」     

213—11 勤方其外手覚                        一冊
  江頭官太夫藤原顕穎の天保十三年から文久四年隠居までの勤向の履歴を書上げたもの。
(明治初年藩政改革関係史料)
213—13 御改革帳 明治二年十一月十一日               一冊
  「政府之儀知政堂と相改候事」から始まる藩政改革の内容。
213—4 改革書附 明治二年十二月                   一冊

  「一両奥様江年頭権大参事以上参殿之事」から始まる家政改革、内務所に関わる家内改革などの布告。知政堂より出されている。   

213—5 改革条件 明治三年十二月                   一冊

  大属より出されたもの。飛脚手配としての雇十二人、刑法局雇卒十人、「牢守壱人、溜番四人、人撰を以被仰付、壱人前俵渡米七俵被下候事」等、下級雇用者についての規定。

213—7 改革条件(根帳)                       一冊
  213—5の下書。しかし、内容は5よりかなり多い。

213—6 改革条件                           一冊
  年頭礼から僕婢の制にまでわたる広範な管轄下の改革。

213—8 改正届草稿                          一冊
  租税・給禄・人口などの総書上。朱で「本庁ヘ伺越附紙ニテ来」とある。その内に以下の記載がある。
 「穢多  七拾五戸
   人口 四百九拾五人
     内 弐百五拾人男
       弐百四拾五人女                        」

213—24 藩制改革書目                        一冊
  藩制改革にあたって作成された書目。
 「一等級表     三枚
  一改革条件    一部
  、同一冊     一統
  、同一冊     大属
  、同一冊     藩庁
  、同一冊     庁掌
  、同郡村職掌一冊 大属
  、同一冊     兵制
  、同一冊     幕兵令
  、同一冊     屯営規則
  、同一冊     軍律
  一判任姓名禄   一枚(奏任)
   (以下略)」

213—25 藩内取調帳                         一冊
  石高、諸産物、諸税、公廨一ケ年費用、職制職員、藩士兵卒人員数并扶持米その他の書上げ。

213—26 藩内改革表(階位)                     一枚
  知事以下の位階相当表。

213—17 追触 明治三年十二月                    一冊
  藩内職制等のこと。

213—18 追触 明治三年十二月十七日                 一冊
213—17の草案。

213—15 追触 明治四年正月                     一冊
  天朝より兵官規則が出たのをうけて、藩でどうするかという追触。

213—16 追触 明治四年正月八日                   一冊
  213—15と同文。

213—19 追触根帳 明治四年正月八日                 一冊
  213—15の草案。

213—14 御改革帳 内務所 明治五年二月               一冊
  家内改革。

(幕末維新期諸史料)
109—3 御建白下書                          三通
  嘉永上書。嘉永六年六月。
 「(ペリー再来の節は)御打払御時宜ニ相叶可申奉存候            」
  安政上書。安政五年六月九日。
 「乍恐三港御開之儀は国家安穏之御処置と奉恐察候              」
  文久上書。文久三年正月十一日。

 「通商之儀は無余儀次第被為在、一時之権道を以御差許相成候……何れ共攘夷御決策之儀は御当然と奉存候得共、一旦御条約御取結之末ニ付、一先程能御理解被遊御断、若及異儀候ハヽ其節御打払被仰出候而名儀も相立……                 」

109—20 建白書下書                         一通
  109—3の中の文久上書に同じ。

109—14 口上控 元治元年六月                    一通
 「平戸様〓不穏時勢ニ付、此方様御所置振御問合、御見廻旁御使者御口上入」

109—40 勅答書 元治元年カ                     一通
  禁門の変関係。

109—11 御書付写 慶応元年十月                   一通
 「中納言殿ニ御相続、御政務御譲被遊度旨、御所江御願置被為在候」

109—17 口上書 慶応三年五月                    一通
  「近郷隣境接近之場所江宗旨方内擾之趣」につき上京不可を述べたもの。

109—16 御請書 慶応四年正月                    一通
  109—5の島津中将布告文に対する返書。

109—10 大坂表町触写 慶応四年正月                 一通

109—7 東海道総督達 大村藩宛 慶応四年閏四月            一通
  千住宿まで引揚げるようにという内容。実梁の朱印がある。

109—21 達写 慶応四年五月 大久保加賀守宛             一通
  中井範五郎殺害ニ付問罪。

109—6 御沙汰写 慶応四年八月                    一通
 「賊徒一味之形跡ヲ成し候得共……官軍ヲ迎及降伏候段……謹慎被免……勤労可相励旨                                      」
109—26 書付明治元年十一月                     一通
  静岡藩設置につき。
(兵制改革関係史料)
403—3 樋口某書状 今里村人・川原多守宛               一通

  『臺山公事蹟』によれは、明治四年になって大村藩は兵制改革を行う。本書状は、後年大村藩兵制改革の調査のため、樋口某が当時の関係者に問合わせたもの。
 「一常備隊編制表中之士官即大隊長砲隊司令官以下、副官及諸隊長ノ官名(則チ佐尉曹官ノ〓)——大隊長以下諸隊長、旧藩制之ヲ以テ官名ト致サレ、別ニ佐尉曹官等ノ官名ハ無カリシ事ト記憶仕候

  一明治四年鎮西鎮台ヘ入営シタル大尉以下士官ノ姓名┌
                          │大尉心得  十九貞衛
                          │中尉心得  和田勇馬
                          │小尉心得  井石大五郎
                          │権曹長心得 今里村人
                          │軍曹心得  松浦多門
                          │(以下略)
                          └
  一此時ノ兵卒ハ士民徴募之兵ナリシヤ、又士族撰抜ナリシヤ

  一藩製大砲ハ何所ニ於テ製造セシヤ、主任者ノ姓名┌
                         │藩製大砲ハ製練場及ヒ運鎔
                         │軒ニ於テ製造セシモノ
                         │砲種 廿四ポント台場砲……
                         │ ……其他種々
                         │造兵司  川原鼎 右主任者
                         │         岩永広衛
                         │         村瀬一郎左衛門
                         └
  一小銃ニシテ藩製品ハヱンヒールノミナリシヤ、 ┌
   又其製造所・主任者             │軍用銃ハ「ヱンピール」ニ
                         │シテ、外国品ナリ、藩製ハ
                         │軍用ニ充ツルダケノ数ハ成
                         │工不致候
                         └
  右至急御回報願上候也
    一月廿九日                 「上」樋口拝「様」
   今里村人様
   川原多守様
  (以下略)                               」
403—15 樋口某書状 今里村人 川原多守宛              一通

  403—3と同性格の書状。
 「拝啓、兵事方ニ付、過日御質問申上置候処、今又左之疑点、御尋申上候
  (中略)
  右御尋申上候間、御説明願上候、度々之御質問ニて御面倒之程奉遠察候へとも、当時之事情更ニ不相分、後年ニ至り候而ハ如何程尽力致候とも、迚も相尋候人も無之訳ニ付、返ス〓御尋申上候義ニ御座候間、不悪御了承可被下候也   

     二月五日                     「上」樋口拝「様」
    今里村人
    川原多守様                             」
403—28 書付                            一通
  明治三年の奇兵隊反乱に際して、宇佐での挙兵者および同年の日田一揆の原因の問合せ。樋口筆。
(戊辰戦争関係史料)
404—27 京都警衛日誌                    (合冊)一冊
       東征日誌 第一
404—28 東征日誌 第二                       一冊
404—29 東征日誌 第三                       一冊
404—30 東征日誌 第四                       一冊

  「京都警衛日誌」は、慶応三年六月五日から四年一月二日までの、大村純熙の京都警衛の日誌。「東征日誌」は、慶応四年一月三日から同年十一月二日までの、戊辰戦争の際の大村藩の日誌。大村藩は、一隊は平潟から二本松を経て会津若松および白石攻めに加わり、一隊は長崎から海路で船川へ直行した。記事のほか、日々の天候と滞陣場所が記されている。両書は、完成された編纂物である。「京都警衛日誌」の冒頭には、編纂方針、史料、編者などについて、次のような記述がある。
 「   凡 例
 一本誌ハ北伐日誌之体裁に倣ひて編輯したるものなりと雖も、年所経久の為め事実を確むるに由なきこと多く、又、材料に供すへき書類に乏しく、随て其の網羅の実を尽すことを得さるハ、編者の遺憾とする処なり
 一本誌編輯之重なる材料は、京都警衛、東海道進軍及奥州征討中における片々たる書類并久松源五郎氏・福田清右衛門氏之日誌、松尾六蔵氏之私録等を参照し、之れに当時従軍者数人之記憶談等を加へたるものとす  

     (中 略)
   明治三十一年 月
                         編輯者  樋口保 誌   」
404—33 北伐日誌 第一                       一冊

  慶応四年七月二十七日大村城出陣から、八月十一日羽州男鹿着船、東北各地転陣、十一月十一日東京着、十二月一日品川出船、帰藩までの、戦闘経過の編纂物。本文途中に朱書で
 「第四行目訂正(藩地ヨリ申出)
  其余ノ二字ヲ削、ニハノ間ニ「大三番小隊・四番小隊、其他各藩ノ兵」ノ十五字ヲ挿入ス。                                   」
 と注記し、本文では「其余」が朱抹されている箇所がある。これは、北伐日誌が、後年大村以外の地で編纂され、その草稿を大村に送り意見を求めた上で、訂正がおこなわれたことを示している。  

404—35 戊辰の役大村藩出兵戦況通信書状控類 明治元年        一冊
  公用人らが、弁事役所軍務官へ差出した戦況報告の写綴。
404—36 戦況日録 慶応四年                     一冊
  慶応四年三月十日〜四月十一日の戦況。
403—24 岩倉具視書状 大村純熈宛 慶応四年六月二十五日       一通
  奥羽苦戦につき越後方面出兵要請。『臺山公事蹟』五〇二頁に全文引載。
404—45 御台場御番所一件                      一冊

  文政三年七月水野出羽守よりの唐人屋敷前番所取建方の命令から、文政六年八月迄の番所取建に関する史料の編纂物。
                   (小野正雄・宮地正人・塚田孝・横山伊徳)


『東京大学史料編纂所報』第21号p.111