東京大学史料編纂所

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福岡県下幕末維新期史料調査

 一九八四年十一月十一日から十七日まで、九州大学文学部九州文化史研究施設、福岡県立図書館、久留米市民図書館において、幕末維新期史料の内容調査をおこなった。
 一 九州大学文学部九州文化史研究施設
 同施設では、秋月黒田家文書を閲覧した。秋月黒田家文書の目録は、『九州文化史研究所所蔵古文書目録』第九集に収められている。今回、閲覧したのは、右の目録の分類にしたがえば、一江戸時代史料の中の4日記・記録、同じく一江戸時代史料の中の5行政・軍事のうちの(4)幕末維新、以上のそれぞれに含まれている幕末維新期の史料である。頭部に付した番号は、目録では史料名の下に( )に入れて記してある整理番号である。
 「御記録」および「記録」は、嘉永六年以降のものに全て目を通し、史料の性格の把握につとめた。
 「御記録」はその表紙にあるように御記録所の記した記録である。明治三年からは、御記録所に代って藩政庁と記されている。各年の「御記録」は、上、中、下に区分してある。上は主に触留で、家老から目附頭へ充てた形式になっており、末尾は「右之通可被相触候」で結ぶ。中は藩士への達しと藩士からの届書や願書で、届書と願書の末尾には御用部屋の決裁の結果が記してある。下は寺社、郷士、町、在の四つの部分に分かれ、それぞれへの達しと、それぞれからの届書や願書が留められている。上・中と下とで二分冊になっている場合が多い。文久四(元治元)年の「御記録」から記載例を示す。なお、この年のものは、上・中の部にあたる「文久四甲子御記録」と、下の部にあたる「元治元年寺社在町御記録」の二冊からなっている。  

397 文久四甲子御記録(上中之部)                   一冊

  上之部は、例えば
 「                          目付頭江(正月十四日)
   近年鎧直垂相用候向有之候、向後右は組外以上不苦、陸士以下不相成段被仰出候右之趣可被相徊候、以上
  (中略)
  右月番右近申達之                            」
 という、月番から目付頭への達を多く収めている。その他には、以下のような政治情勢に係わって出された藩主の伺書や幕府への届や幕府布達も収めている。
 「一朝覲之儀御内慮御伺書写并御書取(二月一日)
    但、子正月十三日御差出、同十四日御伺済
   万石以上之面々向後朝覲之儀、兼而被仰出茂御座候付、私儀来子年秋中参勤之割合御座候間、其節上京可奉伺天機之処、未叙爵以前之儀ニ付、可相成儀御座候は、一先参府仕、在府中若叙爵被仰付候は、帰邑之節上京奉伺天機候様仕度、不苦儀御座候哉、此段奉伺御内慮候、以上
     十二月十日 御国日付                御名
      御書取
  内意之通相心得不苦候事
  右、正月十三日井上河内守様江被差出候処、同十四日相済申候        」
 「一西国御郡代御陣屋本豊後国日田表近傍江、(二月一日)浪士之徒立入、不容易次第茂有之趣ニ付、篤之允江人数出勢之儀、同所郡代屋代増之助様〓以飛脚追々御催促御座候ニ付、兼而手当之内一番手人数惣勢七十程、去月朔日差出、猶時宜次第二番手人数をも出張之心得ニ而手当仕置候処、其後穏之模様ニ付、同月廿九日差出置候一番手人数在所表江引取候段申越候、此段御届申上候、以上
     十二月                  御名家来 町田平蔵   」
 「一                          黒田甲斐守江(八月二十一日)
   松平大膳大夫中屋敷被召上候ニ付而は、万一心得違之輩可有之も難計ニ付、早々人数手当致し置、時宜ニ寄、酒井左衛門尉家来〓申達次第出張候様可被致候     」
  以上のように、上之部は、藩中枢部(家老以上か)の家臣統制、および対外的な交渉結果を示す文書を収めていると考えられる。中之部との関係では、次の史料が注目される。
 「一 法令(七月十七日)  七月十三日御領海出張被仰出
               御作法委細は中ノ部ニ記(朱)「御人数」
   今般長州領海江異国船渡来、不容易形勢ニ付、領海岸江出張被仰付候上は、諸頭初諸士末々ニ至迄万端相慎厳重可相心得候事
  一従公儀被仰出之御法并従御本家様被仰出之御法をも堅相守不可致違背候事
  一於出張先猥ニ他出不相成、若無拠次第有之、不罷出候而不相叶候は、銘々頭江申出聞届之上可罷出候事
  一於同所万端主殿〓可及差図候、猶又依時宜御本藩之御家老御用人中之差図をも違背致間敷候事
  一博奕諸勝負事一切令停止候事
  一喧嘩口論令停止候、万一難差置次第有之候は、帰宅之上可及議論候事
  一御台場等守衛之場所江罷出は猶更厳重ニ相心得、必乱雑成儀無之様、頭々より可申談候事
  一於御台場之御作法并徘徊等之儀は、兼而御本藩之御定可有之候付、御彼方引合之上、猶又可申談候事
  一御台場より猥ニ御屋鋪、或は旅宿等江罷越儀不相成候、自然無拠用事有之候は、頭々江申出、聞届之上、可従差図候事
  一異船打払之儀、及差図候は申迄も無之候得共、尽粉骨相働可申
  惣して何レも致一致互ニ助合がさつ之働有之間敷候事
  右之条々、堅可相守者也
                           家老中        」
  中之部は、家老以下藩士の願・届・任命等の留。
 「一(正月四日)                     御家老箕浦主殿
   私儀、為替立物横笛前立兜、左右ニ唐之頭相用申度、此度奉願候
   (中略)
  右廉々願通月番右近申渡之                        」
 「一(七月二十一日)                   御家老箕浦主殿
   長州表異艦襲来可致趣ニ付、黒崎迄御人数差出候様、御本家様〓御差図ニ相成候付、今日仕舞次第出張被仰付候事                        」
  先に上之部で触れた出兵陣中法度については、中之部では次のように記されている。
 「一頃日、長州領海江異国船渡来、不容易形勢ニ付、従御本家若松表江追々増御人数被差出、此先同州之体勢ニ寄、尚増御人数被差出候ニ付、其節は従此方様も御人数被差出候様御本家様〓被仰談候ニ付、御差図次第御領海出張之役々被差出候ニ付、左之面々并組支配迄急速出張之支度いたし居候様被仰付候事  

     但右ニ付、御法令書ハ、上之部ニ記有之ニ付、略之
                             家 老箕浦主殿
                             士 頭吉村叶夫
                             鉄炮頭磯与三大夫
                             (以下略)
  右月番右近申達之                            」

  以上から、個々の人物に宛られたのではない一般的な家臣への布達は上之部に、人物を特定した任命・達は中之部に収められたと判断しえよう。   

359 元治元年寺社在町御記録                      一冊

  本史料は、寺社・郷士、郡奉行、町方の三部からなる。以下、各例示する。
寺社・郷士の部。
 「一(三月十日)                         長生寺
   兼而御届申上置候通、秋葉宮年期祭礼、来ル十八日〓相始候筈ニ御座候、然ル処、町方之者〓浄瑠理致奉納度旨願ニ申入仕候、誠ニ手軽取計御座候由、御差支筋無御座候は、何卒御免被成下度、此度不押立奉願候、以上
  右願通、月番四郎右衛門申渡                       」
 「一(六月十四日)               (組外列郷士)中山勝三郎 
   以御詮議被召出、三人扶持十石被下、組外格被仰付、足軽中劒術師範同様被仰付候条、引立方可致心遣候
  右月番主殿申達之                            」
 郡奉行の部。
 「(正月二十四日)一馬田村聞次組頭乍恐御願申上口上覚
   当村入百姓、天保十二丑年〓御仕居江被仰付、高役并津出御免ヲ以、只今迄兎ニ角取続居申候、其後年限も相切レ申候間、安政六未年追願申上、五ケ年御免被仰付、当亥年限りニ相成申候、毎年奉恐入候得共、右両役御免高御慈悲之御詮儀を以、年延ニ被仰付被為下候様御願申上候、左候ハヽ、御蔭を以入百姓之者共取続可申奉存候、兼々恐多御願ニ奉存上候得共、何卒願之通御免被仰付可被下候段、偏ニ奉願上候    

                         (馬里村組頭)十右衛門
                                (以下四名略)
                            (聞次)孫次郎
                        (屋永村大庄屋)井上藤右衛門
   奥書如例
     付札
       郡奉行江
  書面之趣承達、則当子年〓辰年迄年延申付候事
    但二月四日被申付候分
  右月番主殿申渡                             」
 町之部。
 「一(正月二十四日)        町奉行江         魚町勘兵衛
    此節御法会ニ付、格別以御詮議道ノ口御免申付候事
    (中略)
   右月番右近申達之                           」

  「記録」は家督相続、役職の任免、用向の指示などを、各役職ごとに整理して記した帳簿である。文久元年の例では、御用役・御勘定奉行、御納戸頭、御馬廻頭、御目附頭、御組外頭・御陸士頭、御者頭、大筒頭・郡奉行・宗旨奉行、御供頭、作事奉行、御子様方頭取、御館留守居の各項に分かれている。他の年次のものも、ほぼ同様である。どこで作成されたのかは明示されていないが、354の安政二年から三年にかけての「記録」の表紙の左下方に御勘定所という記載があり、これが作成主体を示すものかもしれない。
308の嘉永六年の「記録」の冒頭部分を左に例示する。
 「    御用役
      勘定奉行
  一太田孫四郎儀博多御蔵元田中利兵衛交代八月廿一日被仰付候
  一近藤徳左衛門儀九月廿六日於
   御前来春
   御参勤御供被仰付候、全体は休息をも被仰付之処、早春異国船渡来之模様ニ付、老功之儀ニ付、乍大儀御供被仰付之段御入割を以被仰付候、右ニ付為御目録金拾両被下候事  
一村石孫右衛門豊田源右衛門森金蔵来春御参勤御供江戸詰方十月朔日被仰付候事

   (中略)
  一左之面々江戸御上下之節帯刀ニ而罷出、御目通二月廿四日被仰付候事
                        黒崎三艘船  幾次
                        右同     台平
                        右同     茂十
   (以下略)                              」

 「御記録」と「記録」以外の日記・記録は、幕末維新期のものは僅かなので、個々について所見を記しておく。  

356 明治三年日記 弐                         一冊

  秋月藩東京藩邸の日記。表紙左下に「原田受持」とある。太政官への人口・戸数・石高の届の控などが記載されている。記載例を左に示す。
 「    六月十七日
  兼而御触ニよって、左之通御届
  癸丑以来有志之徒、国家ニ力ヲ致ス者、日記手控及書簡等、国事ニ関係之分所持致し候者、早々取調可差出旨御布告ニ相成奉畏候、然は於当藩者無御座候、此段御届申上候、以上
   庚午六月十七日                        例之通
  弁官御伝達所                              」
 右の文に左のような頭書がある。
 「本書之通御届取計候処、御呼出之上、左之通御演説ニ付、御国表江付札ヲ以掛合
    戸原卯橘・海賀宮門、初発〓之事蹟委細取調可申出旨、早々取調可申出旨、噂ニ御座候                                   」
 「    六月十七日
  兼而御触ニよって、左之通御届
  癸丑以来旧幕府ニ而枢要之職務相勤候向者勿論、総而藩々之日記文書、国事ニ関係候分取調可差出旨御布告相成奉畏候、然ニ於当藩者無御座候、此段御届申上候、以上
   康午六月十七日                        例之通
  弁官御伝達所                              」   

358 明治四年日誌                           一冊

  表紙には秋月県出張所用弁所とあるが、廃藩以前の正月から記されている。秋月藩東京藩邸の日記だったもので、七月の廃藩後、秋月県になった後も記されたものである。抄のかたちで記載例を左に示す。
 「    正月八日
  一坂田諸遠、礼服着用、外務省ヨリ御呼出シニ付、田尻同道、出頭致候
  一日田県下騒擾ニ付、(佐竹官掌落手)同県ヨリ任依願、常備兵二小隊、同県下迄繰入取締仕居候処、追々鎮静之姿ニ相趣候条、兵隊引揚候様、白浜大参事之指図ヲ得去月廿七日帰藩仕候、此段御届申上候、以上 
    庚午十二月朔日                       秋月藩
   弁官御中
   別紙之通藩地ヨリ申越候ニ付、此段御届申上候、以上
    辛未正月八日                        秋月藩
   弁官御中
      六月十二日
  一先般御記録編輯御用ニ付、(山下管掌落手)癸丑以来有志之徒事蹟并関係之書類取調可差出旨御布告ニ付、当藩戸原卯橘・海賀宮門著述書類漸取調出来候ニ付差出申候、此段御届申上候、以上   

    辛未六月十二日                       秋月藩
   弁官御中
      七月十四日
  一為知事様御名代、参事之内壱人、礼服着用、第十字出頭候様御達ニ付
   御名代出頭                    吉田権大参事
     御渡御書付写
                         秋月藩知事黒田長徳
      免本官
       辛未七月
            太政官                       」
297 明治三年日記
  明治三年十月より廃藩後まで記してある。藩主の御側の日記か。記載例を抄出して左に示す。
 「    十一月廿日(明治三年)
  一過日寒中為御見廻
   御本家様江御飛脚御差立之処、為御答礼帰便ニ雁三羽御差向ニ相成候事
      八月六日(明治四年)
  一今度従
   朝廷被仰出之御主意ヲ以、近々
   君上并御家族方東京御帰京被遊候筈ニ付、御供之面々左之通被仰付     」
486 安政六年御次勤手控                        一冊

  表紙に「六月吉日相認  江藤東馬源良知用達」とあり、江藤某が記した職務遂行上の便覧である。   

287 慶応二年御納戸頭日記                       一冊
  納戸頭の組織の日記ではなく、藩主の動静を記したもの。例えば
 「 長徳公 正月元日晴天
  一朝六ツ半時御目覚申上、御仕舞事被遊、御熨斗目御上下被為召
  一御霊前之御雑煎被遊御備                        」

 347慶応二年記録の納戸頭の項には、
 「(十二月二十九日)上田儀六、追々精勤ニ付、直礼元席被差返候段、寅十二月廿九日被仰付候事」
 とあるが、こちらの冊子287の同日条には、「一御別条無之」とあるのみであり、「納戸組」そのものの日記ではないことがわかる。
 「幕末維新」の分類に収められている史料は、朝廷や幕府からの達し写、風聞書写など既に知られているものもあるが、他方、在坂の藩士から家老に充てたものをはじめとする多くの書状には、幕末維新期の情勢が具体的に記してあり重要である。目録には簡単な解題があるので、ここでは、代表的な史料について、いくつかその内容を例示するにとどめる。  

1314 風聞書 文久三年六月                      一綴

  長府藩とフランス船砲撃の様子。
 「一去五日フランス船二艘渡来、朝五ツ時頃満珠島之沖〓長府之御城下江大砲三発打掛候処、壱放ハ御城内江玉落、壱放ハ内藤某之方江玉落、壱放矢先不相分候、夫より田ノ浦沖前田〓東北一里計ノ処御台場〓不被打処ニ掛リ、壱艘ハ浅深為見計カ、檀ノ浦当之才角迄乗参候処、御台場〓二発打掛一発ハ打当候模様(以下略)           」  

1380 文久三年書状・風聞書などの写                  一綴

  「或京都詰重役衆〓書翰写」「小倉へ下り居候風説書略写」の他大坂発の書状の写などを載せる。
 「誠ニ洛中大騒動ニ而第一禁中之御用人九門は塞切ニ而中々通路相成兼、六十余�之大小名御築地内ニ甲胄ニ而相堅メ、此方様江も朔平門御番所脇ニ相堅メ居申候、御築地内は諸藩之御人数ニ而扨も〓〓夥敷事ニ御座候
  十八日昼後〓同夕夜明迄は今ニも騒動発候勢ニ相見え、実々戦場之形勢は初而ケ様之時ニ逢候も乍不肖仕合と存居申候、人数繰彼是心痛之事ニ御座候         」
 「一大和国乱之儀追々噂承り何分浪士体之者三百人計菊紋之籏を禁裏御用と書記有籏を押立諸陣屋へ入込                              」
 「一五条代官地焼拂之路へ陣屋追々一味之者相増凡五百人余ニ相成候噂     」  

1382 九月朔日限被仰出之写 大目付江 文久三年            一通

  福岡・熊本・薩摩三藩で公武和合の周旋を画策中であったが、八月十八日の政変で情勢が一変したので、
 「諸事御周旋振ハ叡慮次第、尚被加御勘弁、御時勢ニ被応御粉骨を被為尽候処へ、御一決被為在、尚又三藩御赤心被為仰合、山城方急速鹿児島・熊本被差出候筈ニ而、既ニ明日出立被仰付事ニ候         」  

1399 見聞書 文久三年八月                      一通
  飯塚駅にて蒐集した情報の報告書。小倉・長州・京の様子など。
 「一粟田口宮様右之御都合ニ付、長州も玉を取ラレ、最早狂言六ケ敷と申風説  」
1145—4 白石杢右衛門書状等 文久三年八月              三通

   � 八月晦日付、白石杢右衛門よりの「京地風説奉申上口上覚」。八月十八日政変とその後の京都の風説を記す。
   �「為御知且御触書京地風説書覚」と題し、文久三年八月の和州浪士乱暴に関して記す。
   � 白石杢右衛門書状 吉田右近・箕浦主殿・田代四郎右衛門・太田多左衛門宛 文久三年八月晦日、�と�を別紙として送達した。    

1362 白石杢右衛門書状 吉田・箕浦・田代・太田宛 文久三年九月七日  一通
  京師風説書及び京都御触書を送る旨。1378がこれにあたる。
1378 白石杢右衛門京都風説奉申上口上覚 文久三年九月七日       一通

 「先便京師風説奉申上候後、御所表騒動之都合、専三郎江も懸合遣置候得共、今以一向ニ相分不申風説而已ニ而御座候様子、脇々江も尋合調子御座候得共不分之様子ニ御座候、此節長州様一条、猶更分兼候、然ニ長州屋敷御米方請持之人江心安人之咄ニ、此節長州様京都之方御不首尾之咄仕候処、此折柄万々一御不首尾ニ候得は、此御屋敷とても御取押も可有之候得共、其件無之、定而近々ニは相顕可申厳然と致居候由、不審之次第ニ相聞候、此節
天皇大和春日社江為御親征行幸被為在之思召御烈敷御模様故、御機会ニ無之、被為留候御儀とても六ケ敷御事故、堂上方被仰合、長州〓御所内ニ而から鉄砲二三発相発、御所内不容易騒動相起候故、此節御親征御機会ニ無之、暫御延引被為在候様ニとの御主意ニ而此騒動も相起候共申候、是は誠ニ道行人々風説位ニ而、実は可申上程之事ニは無之候得共、此節長州一条、何共今以分兼候〓風説も相起候哉と奉存候、然ニ頃日は御所表騒動之御都合一体御事柄は分兼候得共、去月廿四日〓紀州様御大勢ニ而御上京、二条御城江被為成候、其后追々京都表御鎮之御模様ニ相聞候段、当表ニ而之風説ニ御座候、夫ニ頃日は先便申上置候和州路ニ而徒党一揆之浪士共、敗軍後十津川郷士共へ御年貢御免抔と勅命を借引入、都合四千人計も有之候風説ニ候、其上右十津川河内は誠ニ深山幽谷之大河内之由、其上右河内之間ニ七拾ケ村程有之ニ而、一方口之処ニ而難仕寄場所之上、右河内ニ七拾ケ村程有之、一村千俵ならしニ而も七万俵之粮物有之故、容易ニは難落被考候風説(下略)     」

1374 白石杢右衛門書状 家老宛 文久三年九月十四日          一通
  見込の儀を別紙にて申上ぐる旨。1376がこれにあたる。
1376 白石杢右衛門不押立奉申上口上覚 文久三年九月十四日       一通

 「此節御所表御騒動ニ付、先便〓追々風説奉申上、其後去ル四日町内迄御固、諸侯方江被仰付、今程追々御鎮之方ニ御座候由、就而近頃奉恐入候得共、追々御所表〓被仰出も有之、風説承り候丈見込奉申上候、御所表騒動之起は、此節及他国候元三条中納言殿以下之面々〓御親征之期未及御到□候得共、御親征之思召可被為在ニ付、為御祈願大和国春日社行幸可被為在叡慮之処、御親征機会、今日を不可被過、旁行幸於大和国軍議可被為在旨軍議ハ横浜交易御差留として奉行之儀ニ候哉奉恐察候右之事情、長州家と元堂上方御一体遮而及言上、矯叡慮候段不容易次第ニ思召候、依之、御取調子可被為在ニ付、被止参内〓御所表及騒動、其上押而参内難測且暴論之輩引率推参有之候而は及紛乱候故、九門御固被仰出候故、又一之御混雑、猶亦於長藩も士気壮烈ニ逼候より疎暴論之輩可有之哉難計、不被為得止事、堺町御門御固御免被仰出、右跡薩州侯被蒙仰、然ニ薩州江御達御座候而直様御固之御人数詰方ニ相成候処、其節迄長州之方江御達無之故、一向ニ御引渡無之故、相方愈以大御混雑ニ御座候由、其内ニ長州江漸御達御座候而引払、直ニ大仏辺江引退、其後早々長州侯御家来共ニ御人数帰国、元堂上方御同伴彼是ニ而大騒動ニ相成候哉と奉恐察候(下略)   」  

1515 白石杢右衛門書状 御席御月番様 文久三年九月二十一日      一通
  風説書を差上ぐる旨。1538がこれに当る。
1538 白石杢右衛門京都風説奉申上口上覚 文久三年九月二十日      一通

 「御所表去月十七日夕騒動之件ニ付、先便〓追々風説承り候丈は奉申上候得共、当表ニ而は聞合等仕候え共、頬と実説分兼候ニ付、右一条為取調子去ル十四日夕〓上京仕、御用達ニ而は分兼仕候ニ付、三木専三郎江申入、両夜深更迄咄合仕、同夕騒動之都合承り候処、同人申分実説らしく被考申候、同人儀も追々書留仕奉差上心得ニ而写懸仕居候由、則別紙一冊今便奉差上候間、御推覧可被成候、同人書面之通ニ事柄成就ニ不相至、内割〓不図騒動ニ相成候哉と奉勘考候、就而其夕之次第専三郎咄之模様承り候条、騒動相起候都合比合等荒増左ニ奉申上候、会津様、何事歟は分兼候得共、同夕四ツ過ニ御参内、御下り懸ニ直ニ中川之宮様江御出、夫〓又々御参内ニ相成候由、御用向は長州公、国事懸堂上方矯叡慮ニ而、大和国へ為勢揃、八月十九日愈発向之治定相極、治定通ニ相成候えは大変、然ニ主上御取押之筋難被成御都合故、暫御延引被仰出等之御用向哉と承り申候、就而は二条家御参内被為在今程中川宮二条様、会津様方御同腹之由一方は関白様国事懸、参政方三条様以下長州家御同腹之由其夕騒動、頃合は会津公御参内之方四ツ半過之由前刻ニ被考候段承ル長州家江四条殿駆込ニ相成候、比合は同夕夜半頃之由、其上一端御自殿江御帰り、引続長州〓追々手勢御門九ツ門江甲胄抜刀ニ而駆付、其外兵具追々持入候由、是騒動之初発也(下略)      」  

1369 長州ニ而見聞書 江藤弥平次 文久三年九月十一日          一通

  冒頭「二日迄之儀は先日言上仕置候間、三日以来之見聞書記仕候」とある。江藤は白石正一郎と白石廉作に八月十八日の政変や天誅組の事件を聞き糺している。見聞書の一部を紹介する。
 「奇兵隊と申ハ、先達而馬関へ異船渡来之節、萩勿論長府岩国徳山等〓主命をまたす馬関へ出候者等、元〓国家ノ為身命を擲チ亡命仕候間、非常之御備ニ奇兵隊ト号シ、都合二百五十人程有之、惣督宮城彦助四百五十石高杉晋作百石を始メ入江九一郎吉田歳丸等ニ而御座候、高杉氏ハ先年剃髪ニ而西洋国ニ巡見も致居候、尤儒学ニ長し候者之由ニ承申候、右奇兵隊上〓御取扱ハ御賄被下候上、月々金一分御渡ニ相成……隊中足軽農兵等も少々ハ加り居候由、是は捨身ニ而攘夷非常之先魁仕候者ニは取調子之上御加入ニ相成、隊中尤厳制有之由、
  防長ノ町人百姓朝夕見聞仕候故ニや、人気せり立、一向攘夷之事を唱へ候而、聊も昼夜疲方も不苦模様ニ見聞仕候、殊ニ感心仕候ハ、四五歳之童子迄も尊王攘夷之小うたをうたひ候外不承候          」   

1679 十津川郷士宛沙汰書の写 文久三年九月              一通

 「十津川郷士之内先日以来乱暴之者有之由風聞候、元来無罪之処元中山侍従等ニ組し候得は違勅之名ヲ免かれかたく其罪不軽候、右等之心得有之候而は無拠可被罪候、左之節は甚不便ニ思食候間此御趣意厚相弁朝敵ニ不相成様可致旨相諭候様与之御沙汰之事  」  

1145—1 黒田長知建白書写 元治元年四月               一通

  横浜鎖港期限を立て、そのために砲台等の御手当を急ぐべし。長州砲撃の外国船は開港場たりとも打払うべし。   

455 御内用秘記 周旋方 元治元年                   一冊

 �「八月十一日〓宮宗実・松延右史郎出福、同十三日〓十五日迄追々問合候廉々」
 ・四国艦隊下関襲撃後の講和交渉に関する情報
 ・小倉藩は、福岡藩が長州と「同腹」ではないかと恐れており、今回の在陣についても「弥襲来之御人数可有之、或は中津と申合狭ミ打ニ致候抔と風説」がある。
 ・「長州〓小倉を襲ひ候との風説有之、右ニ付而大御評儀之上、若長州〓小倉江人数差向候様之訳ニ相聞候ハヽ、若松出張之内〓使節ニ罷越、長州江申候ハ、今般京都ニ而は挙動、其上小倉を襲候而は弥以不宜、追々御周旋候次第も有之、此末迚も如何と歟被成方も可有之処、右等之次第ニ押移候而は、自滅を招く事ニ候……           」
 �(八月十五日風説)
 ・「播磨殿始大組已上土着之義、昨十四日候仰出候由、……非常之節御用ニも立宜敷との義ニ而……    」
 ・「柳河〓頃日御使者来、長州征罰之義付御相談」
 ・「長州長崎表ニ而異人館焼払之風説頻リニ有之候ニ付、御警衛のため山城殿明十六日崎陽表江出立」
 ・「吉川監物殿使者御周旋依頼」
 �「八月廿八日〓松延右史郎出福問合之廉々、間部立右衛門〓申聞候廉々 」
 ・「長州表之体勢探索方……実情悔悟之様子相顕」
 以上三点の合綴。第一次長州戦争に際して、福岡本藩経由の情報を書きまとめたものか。  

1146 京師騒擾巨細書 元治元年八月十五日               一綴

  最初に「此書抜一橋公上大樹公書」とあり、禁門の変後の処理に処する慶喜の意見書の写である。最後に、「右秘書ハ不図手ニ入候間、写置もの也、猥ニ他見不許」とある。   

1426 (諸国風聞書) 慶応元年閏五月九日               一綴

  将軍進発をめぐる江戸の様子。長州、小倉、肥後、薩州、肥前、久留米の動き。
  吉田主馬殿先月二十八日出立、京都詰之由。
  司書殿依願退職仰せつけられた由。
  宰府五卿も異状なし。
 「一本末共御出府無之趣江戸京之御都合甚悪敷御留守居当り心配之由承候段咄仕候処、如何様其様子ニ相聞、嘸左様可有之候得共、表向は悪敷様ニ而も関白様江御内情相伺候処ニ而は、又左様之訳ニも相聞不申との趣ニ而聊外聞之表向悪敷候共、貪着無之様子相見申候……      」
 「一御進発ニ付而は諸国一向ニ御用意等之儀も無之、何れも御進発は有之間敷、尤京都迄は御出ニ可相成、御征伐は無覚束との沙汰ニ御座候由……      」  

823 豊村才右衛門引合 慶応二年四月十一日               一綴

 「一芸州表江兼日被差越置候井上六之丞花房孫大夫両人之内六之丞去三日出立一昨九日帰着言上左之通(中略—糺問問題のいきさつ)
  一此度之公儀御一手之御人数ニ而一先御打入ニ相成、其上ニ而諸国御人数御催促ニ相成程之御模様ニ候旨六之丞〓申立候由
  一芸州は是迄御藩弐ツニ割、一方は長州方、一方は公儀方ニ候処、何れ之訳ニ候哉、過半長州方ニ相成、家老野村帯刀与申は公儀方ニ候処、頃日閉門被申付、既ニ御嫡子様御上京之上此上今少し寛太之御所置ニ相成候様御建白御座候筈ニ而、去月廿五日ニは御出船之筈ニ相成候間、小笠原侯を初御目付方〓、此節之御所置は天幕重畳御衆議之上極々寛太之御評決ニ相成候方故、如何之御建白有之候共、此上之儀は何分被為叶訳ニ無之、御上京は誠ニ無用と段々御差留ニ相成候得共、一圓御聞入無之、一先之処ハ御老中方ニて御沙汰なしニ出船之筈相成候処、其後如何之御都合ニ候哉、御上京丈ハ被見合ニ相成候趣ニ御座候
  一長州之方初之程は此度之御所置振随分納得之向も御座候処、隊之方至而手強、御父子共隊方ニ引入、御両侯共思召被申処ニ而追々隊方ニ相成、只今之処ニ而ハまつ御国中一致与申姿ニ相成候趣ニ御座候    」   

895 長州藩糺問関係文書の写 慶応二年                 一綴

  五月十八日吉川監物歎願書の写、五月松平安芸守宛達書写、五月於広島小笠原壱岐守達書写(松平美濃守宛)など。
 「於広島表花房孫大夫〓之伺書付写
   松平大膳父子
   御裁許請書来ル廿九日迄不差出節は、来月五日諸手一同討入候様可仕旨、今般差濃守江以御書付被仰達候ニ付、左之廉々奉伺候条、御付札を以御指図被成下候様仕度奉存候  
一来ル廿九日迄大膳父子
   御裁許御請書差出候得は速ニ被仰達候趣ニ候得共、遠路通達可及遅延哉も難計、於出張向来月四日迄ニ承知不仕候ハヽ別段御沙汰不相待討入之心得ニ而可然哉之事
  一先般被仰達置候通九州江御老中様若年寄様之内御下向被成候付而は、万端右之御方様〓御指揮被成ニ而可有御座候得共、万一来月五日迄御出張無御座候ハヽ御指図を不相待討入可申哉之事
     以上
   五月廿一日        花房孫大夫(松平美濃守内)
 御付札初ケ条書面之通相心得、二ケ条討入期限迄ニは老中若年寄之内為指揮出張相成候間、其心得ニ而可罷在候
   毛利大膳父子
   御裁許請書来ル廿九日迄ニ不差出節は、来月五日討手一同討入候様可仕旨、今般美濃守江以御書付被仰達候付、早速国許江申越儀ニ御座候、然処遠海之船路風順之程も無覚束御座候間、万一及延着候節は来月五日御討入之期限ニ不間ニ合儀茂難計奉存候間、此段御聞置被下候様仕度此段御届仕候、以上
    五月廿一日        花房孫大夫(松平美濃守内)
  御付札承届候                              」   

1436 諸隊隊員生捕取調申口覚 慶応二年六月              一通
  毛利能登組狙撃隊政右衛門並に元百姓松崎浅蔵の申口
1372 吉田悟助・神吉小介書状 吉田右近宛 慶応二年八月五日      一通

 「 長人小倉ニ大勢入込、武器を運ひ農商安住、人別改等致候趣ニ御座候
  一御本藩ニも可成丈破も不相成、無事ニ相成候様との御心遣有之候都合かと聞得候へ共、未委細取調子出来不仕      」
1163—6 戸波六兵衛書状 吉田右近・箕浦主殿・田代四郎右衛門・太田多左衛門宛 慶応二年八月十九日

                                     一通

  包紙に「八月十九日認桜田便 九月廿一日相達 同廿四日返事済」とある。尚々書に「爰許当時不相替穏、却而御国元[  ]ハ粉々御配意之御義与奉遠察候、長防御成功迚も御六ツかしき由、此度御代替ニ而却而今暫ハ穏ニも可相成風聞」云々とある。
1085 上野助右衛門書状 糒壮右衛門・金田甚右衛門宛 慶応二年八月二十三日

                                     一通

  一部を例示する。
 「頃日長賊五六拾人、筑前御境へ屯集致し居候て申出候は、先日来毎度企救郡内所々合戦致敗軍候に付、狭み打致度間、是非筑前之内を通し呉候様、勿論此度は通ても通さすとも、押て……         」
1163—4 戸波六兵衛書状 吉田左近・箕浦主殿・田代四郎右衛門・太田多左衛門宛 慶応二年九月朔日

                                     三通

  包紙に「御人減今一際踏込之見込書付在中 九月朔日桜田大早便 同廿一日相達 同月廿四日返事済」とある。三通は、本紙、その別啓および御減少人数付から成っている。本紙の内容を例示する。
 「去七月小倉落城之旨於爰許専風説仕、昨今中津藩其外豊後大名之御方爰許御人減少追々下国仕候趣ニ承り及申候、右落城実事ニ候得は在所表ニ而も長賊近寄御領堺御警衛等粉々御配慮之御義与奉遠察候、就而爰許当時御留守詰今一隊別紙之通御減少ニ相成候而も御用□相済、当時節柄公辺江相響候義無御座猶又御踏込御減ニ相成候得ハ、私義交代[    ]仰下候趣被仰付、跡御留守居〓急候得ハ御用弁ハ相済候義与相見込申候、尚時節柄ニ付又左衛門申合之上見込之尽不差置申上候義御座候、御評議之上御指南可被承下候     」 1163—29 戸波六兵衛書状 吉田右近・箕浦主殿・田代四郎右衛門・太田多左衛門宛 慶応二年九月六日

                                     一通

  清田兵右衛門扶持米渡方不行届の件と、御陣屋御寝間御普請の件について。但し、追テ書に次のように書かれている。
 「御国元宰府近辺御人数出張御人配等御配慮之御義と奉遠察候……此度薨御ニ而御長征暫御見合候由、喪ニ乗し暴動等致間敷穏便ニ罷在候様、長へ京都より被仰出候由……」
1033 磯信蔵・神吉小介書状 箕浦主殿・田代四郎右衛門・太田多左衛門宛 慶応二年九月八日

                                     一通

  府内から家老宛に発信した探索書である。一部を例示する。
 「広嶋之方は一両日にて相済可申と相考申候、一橋公内之人、御使者にて御直書持参にて九州諸藩へ参り申候由に御座候、既に細川良之助公子は、去ル二日鶴崎〓乗船にて御上京に相成申候、尤公子閑叟公は一橋公〓御差出之由に御座候、閑叟公御上り之訳は未かきと相分不申由に御座候      」  

1163—5 箕浦主殿書状 田代四郎右衛門・太田多左衛門宛 慶応二年九月十三日
                                     一通

  包紙に「九月十三日申之刻出 十四日暁丑刻達」とある。「倉藩使者罷越近頃之情態ニ付、御応援御頼」とかかわって次のような記述がある。
 「当国は長州最寄之国ニ而海辺手広ニ候得は堅くして人数差出、猶又大宰府へ公卿五人衆住居ニ付、右為守衛同所近傍迄多分ニ人数配致置候得は、甚心配之折柄ニ有之、其上其表へ援兵として少勢差出候而も聊御力ニも相成間敷、且御応援申候上は後勢□相続も候半而は不相済候処、右国中国端之人数配当之上は可也ニ御加勢ニ可相成程は人数は難差出、依之乍御気毒援兵之義は御断ニ被及候、其上此度御差定有暫解兵(以下略)  」  

1141 某宛秋穂千万太探索筋書付 慶応二年九月二十四日         一綴

 「九月十八日小倉家中富久清兵衛と申者、大隈運行ニ付、継所ニ而応接方下役より問合返答覚」
 九月十五日〜十七日の戦争状況を記す。
 「大隈町与右衛門為探索小倉領差越置候処、一昨廿一日罷帰申出候口上覚之写」田川郡では上下難渋で五千俵払下がなされたこと、小倉方は夏着のまま出陣したので農兵に至る迄綿入壱枚宛支給されたこと等の他、戦争状況を記す。
 「大隈町より下ノ関へ売買筋ニ而罷越候者引取候ニ付、応接方下役〓問合之口上」
 下関では外国船が荷揚を行ない、町人共は戦争の早期終結を希望していること等の他、戦争状況を記す。
 末尾に「小倉領地利絵図面一ツ荒増ニ御座候得共、写取、此度差上申候事、右之外相替候儀無御座候、以上」とあるが、絵図面はない。  

1561 大隈出府応接方外聞写 魚住幸太夫                一通

  慶応二年八月十七日以降の長州戦争についての風聞書で、魚住幸太夫と大隈町与右衛門の記したもの。包紙のウハ書には、「御本家様〓大隈町与右衛門と申者外聞に被出置、罷帰候に付、同人見聞書、大隈詰方応接方堤曽右衛門殿〓写取候様申参候に付、写取差上申候」とある。
1163—2 戸波六兵衛書状 吉田右近・箕浦主殿・田代四郎右衛門・太田多左衛門宛 慶応二年十月四日 

                                     一通

 「当表先達而〓相集り候窮民共も離散、昨今増上寺御法事中ニ而静謚之事ニ御座候   」
1003 高橋次郎兵衛書状 吉田右近・箕浦主殿・田代四郎右衛門・太田多左衛門宛 慶応三年十二月十三日

                                     一通

  王政復古直後の江戸の状況を、在藩家老へ報じたものである。一部を左に例示する。
 「 誠に以大変遷、此末如何可罷成候哉、実に不容易躰勢差及申候、右に付ては京地も殊之外動揺仕候由、右等之儀も遂一言上仕居り申、其上爰元にては区々之風説にて、何分取留候儀も不相分、依之京地之儀は別段不申上候、就ては此表も殊之外動揺、不容易事態に差移申候
  一右之通動揺之半に、今晩七半時過〓二ノ丸出火焼失、六半時頃鎮火に相成申候、就ては早速山本肇方差遣候処、何方へ異変も無御座模様には候得共、警衛等之甚敷装にて、厳重之事に御座候由申出候、尤近頃は浪士共暴動之企御座候段、頻に申立、何歟御掠付に相成候哉、殊之外御手当筋厳重有之居候折柄之事にて、一際動揺仕候事に相見へ申候       」
1635 高橋次郎兵衛書状 吉田右近・箕浦主殿・田代四郎右衛門・太田多左衛門宛 慶応四年一月六日

                                     一通

  1003につづくものである。一部を例示する。
 「爰許事情得と不申候ては不相済候処、此節之儀何分難尽筆紙、依之私儀明後八日爰許出立、海陸可成丈差急下向之上、委細言上仕筈に御座候             」
1163—22 垂井半左衛門書状 吉田右近・太田多左衛門宛 慶応四年一月十日

                                     一通

 「従京都表以内状啓上仕候……旧冬廿四日私義江戸表出立京都表ニ立寄形勢取調子言上仕候様高橋〓も精々申聞候ニ付道中も差急京着仕、然ルニ京地ニ着仕候処、去ル三日夕〓伏見鳥羽辺戦争ニ相成……如此之体勢ニ相成候処ニ而は……精兵御撰立等彼是御国家之御為筋ニ相成候事故……只々議論計仕候も詮も無之義……      」
1163—10 高橋次郎兵衛・垂井半左衛門書状 吉田右近・太田多左衛門宛 慶応四年一月二十二日

                                     一通

  包紙に「正月廿二日田代太右衛門下り便二月十三日達、無程可罷下ニ付返書略之」とあり、「従京都表以内状啓上仕候」で始まる。
 「一高橋次郎兵衛義江戸表形勢ニ付御屋敷御引払等之義ニ付為伺罷下り京都表江立寄候処、京都之体勢大御変政ニ而未タ御人数等も参居不申候処ニ而は、重役壱人ニ而も詰方相増居候得は朝庭江之御都合も宜御座候付、当時滞京ニ相成候得は宜敷旨上野阿部両人〓も申出之筋も御座候ニ付、評議之上当時滞京仕候様申合候義ニ御座候、就而は江戸表御引払等之義ハ急便ヲ以懸合仕置、尚又私共決兼候義は最早無程各様方御間急ニ御上京ニも相成可申候間御着京之上御伺申上、尚又江戸表江は懸合可仕候ニ付、御上京迄は滞京仕居候ニ付此段申上置候
  一中野才右衛門義此節一同罷下り候筈之処、当表金子持込少く御座候ニ付大坂表銀談筋申談、尚又安岡平次壱人ニ而は金銭受払等色々心配仕居候付、当時滞京申談置候義ニ御座候
  一定府足軽家内滞京為仕置候面々漸頃日通船等茂出来仕候義ニ付、京地出立差下し申候、尤右足軽之内三人丈は当地御用弁入用ニ付当時滞京申付置候間御承知可被成下候
  一当地体勢吉田彦大夫出立後何も差而相変候儀無御座、当地は穏ニ相成候得共朝敵追討之義追々厳重諸藩被仰付候義ニ御座候    」
1163—17 田代四郎右衛門書状 箕浦主殿・吉田悟介宛 慶応四年閏四月二十八日

                                     一通

  亘理差下一件についての書状。
 「当時ニ而ハ薩専ら事を執居候様子ニ付、さからゐ候而は何か御面倒御不為之節等引出候も難計……於国情何分直ニ滞京被差置候而ハ御為�しかる間敷と評議ニ相成候由ニて、右辺を以、薩人江も最早御本藩〓御差下シニ相成候様ニ申上ニ相成と申処を以、為念薩人江談判ニ相成候由ニ而、右御下シ丈之儀ハ漸ク同意致候由            」  

1163—26 某書状 (慶応四年)五月四日               一通

  在京・在藩の人事交代、奥様御暇一件、軍隊派遣の件等について述べたもの。
1163—1 田代四郎右衛門・吉田右近書状 箕浦主殿・太田多左衛門・吉田悟介宛 慶応四年五月五日

                                     一通

  東北平定が「少々御持あぐミ」の状況であることを述べたあと、先年課題とした軍事改革について、
 「西洋調練之儀ニ付、御懸合之趣、逐一承知候、然ニ右之儀ハ、東西全行違、表裏之事ニ相成、如何ニも不都合之訳ニ成行、御当惑之至ニ被為在候得共、東西共無余義御時体〓出候御事ニ而、不得止御行違と相成、更ニ取成方も無之御事ニ奉存候、於御地も当時人気御定弥堅固ニ奮励御引立被成候ニは、一応御尤之御取計とも奉存候事ニ御座候、然ニ於爰許は第一朝廷之御振合、都而西洋隊ニ無之候而は、先ツ通リ兼候と申程之情態ニ而、徴兵等ハ尚更、且先日君上高鍋世子公へ依御招被遊御出之節、右京公御話ニも、最早何れ朝廷〓一統右流ニ相成候様被仰出ニ可相成御模様ニ付、御同藩抔は右被仰出ニ相成、ぼと〓致候〓は、其前ニと存、専ら一体ニ右流ニ致候と之御話ニ被為在候旨、君上御沙汰ニ御座候、右之訳ニ而可有御座、御同藩ハ余程盛ニ稽古有之居候趣、先日〓御鉄砲頭内抔見物ニ罷越候向申分ニ御座候、尤右等ハ其御家々々之御覚悟御居り次第ニも可有御座候得共、何様ニも於此節は弥断然御勇決此汐と奉存候事ニ御座候、就而ハ如何ニも御手戻之御訳ニ相成、嘸々別而被成悪キ御訳柄ニ而一入深々御心配之御事と思召候得共、精々宜敷御心配被成候様ニとの思召ニ御座候、委細之入割は筆上ニ而ハ意味通兼、此上行違ニ相成候而ハ、弥御不為之訳ニ付、書外は委細旧井亘理へ相含置候条、御承知可被成候、爰許ニ而は右御取起ニ付、中立売へ御相談ニ相成、教導ニ参居候条、一統宜勘弁いたし居候と相見へ、士分初隔日ニ調練修行致居、右間日ニも荒々催居候模様ニ御座候……         」
 と述べ、藩内に意見対立があったものの、趨勢として西洋式へ移行していく決定が確認された模様である。
1301 井上庄左衛門・江藤東一郎書状 牧玄蕃・吉田右近・箕浦主殿宛 慶応四年七月一日

                                     一通

 「刑法官吉田源馬江御宗藩様衆、東一郎一同ニ罷越、談判相済申候、一体正義之勇士連ヲ幽囚ト申ニ専成行候ノ模様ニ付、中々人別幽囚は無之、鎮撫中御本藩様江御預りニ相成、当時詮儀中有之候ト申事、細々説諭被致候訳ニも無之、実ニ困窮之事ニ奉存候、惣而左程之大過無之候は、可成御寛典ニ相成候方、朝廷ヲ奉始他之聞えも穏ニ相済可申ト爰元ニ而者勘考仕候事ニ御座候  」
1163—3 吉田与三右衛門書状 吉田右近・箕浦主殿・田代四郎右衛門・吉田悟介宛 明治二年二月十一日

                                     一通

  當山隊の一月十六日甲府着後の状況報告。
 「一体当国以前之武田ニ相懐居候由ニ而、今以武田有事を知候、朝廷有事を不知と申人気ニ而、極六ケ敷所之由ニ御座候             」
1163—25 井上庄左衛門書状 吉田右近・箕浦主殿・田代四郎右衛門宛(明治二年)三月十八日

                                     二通

  相互に関係の薄い二通の書状が同封されており、一通は、三月十八日付で金札出来を報じたもの、他の一通は、後欠で、版籍返上について重臣呼出があったので「可成丈御速ニ御差立」するべき旨述べたもの。   

1163—15 町田平蔵・山本肇書状 吉田右近・太田多右衛門宛 一月六日 一通
  使者を遣わすので、京都の情勢を教えて欲しい。
1163—24 山本肇書状 吉田右近・箕浦主殿・田代四郎右衛門 太田多左衛門宛 十月六日
                                     一通

  山本が目付兼勤として、軍事懸御用方周旋方古賀和左衛門の行状について、「慢心之振合相見へ彼是と御国政ケ間敷義を口外致……不都合之次第御座候」と述べたもの。
 二 福岡県立図書館
 福岡県立図書館の所蔵する近世文書の目録としては、『福岡県近世文書目録』第一集(一九七〇年、福岡県文化会館発行)がある。本所には架蔵されていないので、同館からコピーを頂いた。今回、調査の対象としたのは福岡藩黒田家文書である。冊数の多い「日記」および「御用帳・御用状」の史料の性格の確定につとめると同時に、幕末期の全史料を概観した。調査結果は次の通りである。なお、黒田家文書の整理番号の頭部には、黒という字が付けてあるが、本報告ではこれを省略し番号のみ記している。
 「公儀御勤之部」(1〜173)の中の幕末維新期の史料は少いので、注目すべきものを記すにとどめる。  

3 禁裏御勤記 慶応二〜四年                       一冊

  本来一冊であったものが三分冊になっている。禁裏御勤めをする際に必要な事項を、まとめて書き出したもの。主な項目は次の通りである。主上崩御の事、兵庫開港見込申出候様朝庭〓御達之事、大宮御所御造立に付国割高御上納金被仰出候事、神祇官御再興御造立之儀御達の事、御宸翰之御写御国中一統へ御布告御達之事   

64 斉溥公御参勤御断御在国之儘長崎御番御願記 安政五年         一冊

  説明文を付したあとに、関係する史料の全文が引載してある。編纂物である。「日記」(209〜293)の項に分類されている諸史料のうち、幕末維新期の主な史料は次の通りである。   

220 嘉永六年日記                          三分冊
  記載例を左に示す。
 「              山口  基
      六月晦日 晴    永井与十郎
                城 与太夫
  長崎一昨八日立大早飛脚到着
    阿蘭陀船入津ニ付而也
  江戸江大早御飛脚御指立
    但京大坂江も御用封箱差越之
  長崎江中早御飛脚被指立
                萩原幸十郎
      七月朔日 晴    大鶴弥平次
                有村半四郎
  智海院様御祥月
    心宗庵  御代参              四宮孫次郎(陸士頭)

  竹田九郎大夫御納戸頭三女毛利太次右衛門御用聞悴直之進江婚姻相整候ニ付、九郎大夫儀麻上下着用御館江罷出、左之通以目録奥頭取迄指上之   

                山口  基
      七月二日 晴    城 与大夫
                広田半之丞
  惣出仕無之
                広田半之丞
      七月四日 晴    山口  基
                城 与大夫
  御本丸御社  御代参                      御家老
  江戸先月十八日早町便御用封箱到着
  久大夫不快ニ付出殿無之                         」

  220以降みなこの形式、231「明治五年日記」には家従とあり、232迄すべて御側日記である。但し230のみ性格を異にする。   

230 明治元年日記                          二分冊
  七月一日より八月晦日迄のもの。
 「    七月十二日 曇
  一御国許〓増御人数として被指越候左之面々、昨日品川沖着船、今日着府(人数略)、惣合百五拾八人
      七月十三日
  一左之通相達
                                石田佐兵衛
   依御人操小荷駄方被
   仰付候付、入念相勤可申候事
   右矢野安太夫〓達方可被取計旨、井上九郎右衛門江及御達
   本文之趣、御用聞兼帯中〓も申聞之
    七月十七日 曇
  一鉄砲御買入相成候付、左之通御印鑑御願出相成候事
      覚
  一五百挺  鉄砲
   右之通於横浜買入申候付、弊藩之者四人指遣度候付、御印鑑御渡被下度、此段奉願候、以上
                           筑州
                             矢野安太夫    」
  戊辰出兵日記と思われる。
246 慶賛公御滞京日記 文久三年十月〜元治元年四月           二冊
 「  十月十九日晴
  一今朝七半時御供揃ニ而伏見
   御発駕大仏前御小休ニ而四ツ時過中立売御屋敷江御着座被遊        」

 から始まり、翌年四月四日下国のため発駕で終る。記事の大半は、儀礼的なものだが慶賛の日々の動き、対人関係は詳しくわかる。冊末には「御滞京中追々天幕江被差出候建白書」「御発駕前御餞別来候諸所」がまとめて記されている。前者は建白書がすべて一覧できて便利である。  

247 慶賛公御滞京中日記御用状共 慶応二年十一月一日〜二十九日     三冊

  日記の性格は同前。冊末に、この間の国許・江戸・大坂等への用状(用人中の間でかわされた往復書状)を一括して記している。但し、あまり政治史的記事は豊かではない。   

248 長知公御滞京日記御用状共 慶応四年二月〜閏四月          一冊

  全体が用状の記録である。激動期の京都の政治状況が詳しくわかる。各地への御用状に対する付札での返書、各地からの御用状に対する付札での返書もことごとく余白に記録されている。用状の書状としての性格がかわったというより、福岡藩をとりまく状況が内容をおもしろくしている。   

249・250 御滞京日記乾坤 慶応四年二月〜三月・四月      二冊・一冊

  純然たる日記で248とワンセットと思われる。メモの貼りつけ等も多くあり清書される前の段階のものか。内容は詳細。   

251 長知公御滞京日記上 明治元年十一月二十二日〜十二月二十九日    二冊

  儀礼的なものが多いが、部分的に政治的内容のある命令や返答も含まれている。公用人が書いたものか。   

252 長溥公御滞京日記 明治元年十月〜十一月              一冊
  内容は儀礼的なものばかりである。
287 御道中日記御用状之部 万延元年十一月十八日〜十二月二十日     一冊

  黒田斉溥の江戸参勤道中の御供用人中と諸所用人中との往復書状の留。付札等での返書もすべて留めている。
 「御用帳・御用状」(294〜404)の分類に収められている諸記録は、その大部分が、福岡の用人と江戸・京・大坂など各地の用人との間に交わされた書状の留で、いずれも福岡の藩邸で記されたものである。たとえば、「日記御用状」あるいは「江戸」という題名のものは、福岡と江戸との往復書状の留、「京・大坂」という題名のものは、福岡と京・大坂との往復書状の留である。これらの書状は、藩主の幕府への届書や他藩主宛の書状、幕府からの達しなども引載しており、また中央政局の動向なども細かく記述していて、幕末政治史研究の重要な史料である。なお、藩主と老中や他藩主との往復書状を中心に藩主の伝記を叙述している『新訂黒田家譜』所収の「従二位黒田長溥公伝」には、「御用帳・御用状」に留めてある書状も、多く収載されている。
 以下に内容を例示する。  

335 江戸 文久三年                          四冊

  江戸と国元の御用人(惣中)間の御用書状の留。ただし、「若御前様御旅中江之御用状」「山城殿旅中江之御用状」等で、別のタイプ(例えば、御納戸頭と大野源太夫)のものも散見される。用状を留めたあと、朱で処理の仕方を記したり、付札で返事等を記入している。
 「 一筆令啓達候
  一島津三郎様江御行逢之節御取扱振、此節其許御発駕前(*)まては、聢と御究ニ相成居不申候ニ付、重畳遂評議候は、最前御同人様御出府之節、自然此方様江御出之節、彼方様ニ而御家内様之処ニ御届ニモ相成居候付、御客様之御取扱ニ相成筈ニ候、依之脇々様ニ而御取扱は兎も角も、此方様ニ而は、依御事柄御引逢之節、御供中下乗等いたし候方ニも可有之哉と申合、御家老中江も申達候上、思召相伺候処、御供中惣下座之処ニ相心得候様被仰出候、此段為承知申入候、御家老中江申達方之儀は宜取計可被申候、恐々謹言   

     十二月廿六日                  江戸御用人中
    御国御用人中
   (*に細字で)
   委曲御紙面之趣承知仕
   侍従様達御耳御家老中江も申達置候
     正月廿二日                            」
353 京大坂(御用状) 文久三年                    一冊

  右のうちから、七月晦日付で在京の用人久野一角が、福岡の用人へ充てた書状の一部を紹介する。
 「 無時太平御飛脚を以一筆致啓上候
   上々様益御機嫌能被成御座奉恐悦候
  一長崎表へ監察使御差向之儀、頃日宮中ニ而御内評相起り居候趣、野宮殿雑掌西池主水より内々為相知候趣承り候付、弥御評決之儀相分り候は、為相知候様為相頼置候処、其後御沙汰止に相成候段申聞候由承り候
  一去廿六日
   二条様へ参殿仕候処
   右府様へも緩々御懇話被為出来候付、右長崎表監察使御内評之御都合も相伺候処、右は差向け相成候処に御評議有之、多は此元より御壱人御差下し可相成、然に正親町殿長州御下向相成居候付、御同人へ被仰付義も可有之、右之辺りいまた御治定無之由、何れにいたし候ても多御差向け可相成候間、右之趣は御国元へ申上置候様御沙汰被為在候、右に付、猶又御調子ノ趣は別紙付札御用状にも申上候
    (四箇条略)
  一薩州表にて英船と戦争之儀に付、薩州様より之御届書も乞請差上申候、右戦争に付、英船より於横浜申出候書翰和解書、山中成太郎より差出候付、都合三通差上之候
  一松平春嶽様為御上京、頃日山科辺迄御出に相成居候由風聞承り申候得は、何分之御都合に御座候哉、委義は差向相分り兼候
  一一橋様近々御上京之由に御座候得共、いまた幾日頃御京着と申義相分り不申候よし御座候
  一当時御上京之御方々様、別帋之通に御座候、則書付差上申候、恐惶謹言   

    七月晦日                          久野一角
   御国惣中                               」
368 隣国 文久三年                          三冊

  近隣諸藩との往復書状留。純粋な書状留ではなく、書状の発着信と内容の概要の記事を記したり、使者の慰労等の記事も収める。
 「(四月十二日)小倉家老中〓御家老中江書状
  国継所〓来趣は、大膳大夫様御領分海岸防禦為御指揮御願之通先月廿三日於京都御在所江之御暇被仰付、翌廿四日同所御発駕之旨申越之
    右返事□共四月廿六日国継所迄差越之
    右□返事四月廿七日国継所〓来                  」
 また藩のみではなく英彦山使僧との書状も収める。  

369 諸所 佐嘉 文久三年                       一冊

  佐賀藩との往復書状留。同年夏の薩肥筑三藩連合=黒田世子上京に対する佐賀藩の対応に関する史料が収められている。
 「     別段御口上
  方今之時勢日々増切迫ニ相成、此儘被成御傍観候而は、皇国御安危難被閣情態と被成御見切、下野守様追々御上京、皇国之御為御尽力御周旋被成候御心得之旨、然処追々薩州肥後両藩之儀も御一同出京尽力可有之との御内約被相整候由、弊藩ニは旧来之御相請持、別而御隣端不外御儀、殊ニ初発〓御談之末と申、御一同御上京御尽力被成度旨、委細最前御使者を以御懇示之趣忝存候、公武御合体之御趣意ニおゐては、勿論最前〓御同心なから、御運振之上ニ付而、少々見付致相違、御決議ニ至兼居候得共、当今難閣御模様ニ付、則致御同意候、依而為名代末家差出候心得ニ御座候、委細は何れ出京之上可遂御示談と存候、此旨以使者申演候          」
  この外には、長崎警衛に関する情報交換が非常に多い。
 「(十二月十二日)岡村文左衛門陸士頭格長崎聞役儀、佐嘉表江被差立候付、御口上を以左之通被遣候付、御口上書御目録示談書共御用人〓相渡之(中略)
      示談振
  当春於横浜、英吉利人御応接之都台、長崎ニおゐて御奉行所〓御達之趣ニ而ハ、事変之程片時も難計候ニ付、其御許様御示談之上、新古御台場并増台場御備筒之内、矢利之便利之場所引直付置候、然処追々御番代之時節も近寄候付、御筒は元々之通引直、矢面等取立置候分も悉取払及御引渡へく之処、先頃来於長崎聞役之者、其御許様御聞役衆江及御打合置候次第も御座候得共、いまた御返答無之由、就は其御許様ニ而は、又御目付之御都合も可有御座候付、いつれニ元々之通、速ニ取計候方と評合候得共、右仮台場之儀は、異人共も及見聞候儀ニ付、只今取除候辺り如何可有之哉、今程横浜表鎖港御談判中ニも候へは、此後之趣次第何時歟可及異変哉とも難計候へ共、此折柄差交御筒等引直、矢留等取払候儀、彼是懸念不少候、依之初発及御示談置候次第は有之候得共、御間柄之儀ニ付、右懸念之処及御相談見候は、又可然御見付も可有御座と申合、不閣此段及御内談候条、御存寄之程聊無伏臓御教諭被下度候事
 『(朱書)岡村文右衛門〓 左之通御答礼 物答書并被下物等有之候段、十二月日同所〓以懸合申越之
  ……今又御示談之趣重役共致承知之、無御余儀候事存候、此方迚も外見付之筋も無御座、矢張最前於長崎表御聞役衆〓此方聞役之者江御示之処ニ而、女神西泊之分は仮御備之儘致御引請儀候、尤岩瀬道迄之儀ハ、於此方見付次第取調子半ニ付、何分御同意移兼候間、尚宜御含被下候様、此段御答申付候事』               」   

70・71 長崎 慶応三年                        三冊

  もともと一冊を三分冊したもの。長崎聞役(岡村文右衛門と粟田貢)と御用人との間で取りかわされた福岡と長崎の御用状留が主であり形式は「諸所」に同じ。その他、長崎関係の人事も記されている。   

 「 (二月二十一日)左之面々御預地御用ニ而長崎表江被差越
                              美作
                              久野将監
                     (御右筆所詰中老)大音左京
                        (御納戸頭)大塚七左衛門

 於京都正月廿三日御老中板倉伊賀守様より御留守居御呼出ニ而、御国表ニ付長防討手解兵之儀御達、且又三条実美初御預御免、京都江御引取相成候旨之御書付両通御渡相成候付、右之趣長崎御奉行衆江夫々被仰達候ニ付、右御達書写大塚七左衛門出崎ニ付、持参、着崎之上御勤之儀聞役ニ申聞之            」
 「(前略)
 一西洋学問所込執行入費之儀、平賀磯三郎取調子別紙之通申出候、右は医術執行罷越候、取調子〓ハ余程入費相減候ニ付而ハ被指越候ニ而も可然哉と相見付申候間、内々被指越候処を以、専取調へ居申儀ニ御座候、将又青木善平儀ニ付、別紙之趣をも磯三郎申出、尤之儀ニ承得申候、自然同人儀被指越跡、御地向并此許共御用御指支と申御趣意ニよって不被指越御評議ニも候はハ、右等御用之節ハ今程被召抱置候高谷綾三郎儀、何時も被召呼、御用相勤申候ハヽ御間欠ニは被為在間敷哉奉存候、猶御評議被成下度、則右別紙両通指上之候、委細は右紙面ニ而御承知可被下候、
 一医師両人西洋行入目銀は、来ル廿日美作殿御出崎御船便〓指越可申旨山内権之進〓申越承知仕候ニ付、是又内々取調子居申儀ニ御座候、然ニ何ケ年何術為修行被指越度との御下知被仰付越候上は、右之趣を以御奉行所御願立之御手数も御座候ニ付、速ニ御下知之程奉待候、是又前件之面々も弥被指越候処ニ御評議被為在候ハヽ、是又一同御下知被仰付越可被下候、最早出船日間も無之事ニ付、速ニ否御下知被仰付候様有御座度奉存候、右等之趣為可申上以早町便如斯御座候、      恐惶謹言
     二月十七日        粟田貢      
                  岡村文右衛門
     御国御用人中
 二ヶ条紙面之趣とも承知、被差越候書付夫々相達候、医師両人は医術為修行五ケ年之間被指越候ニ付、右之処を以御奉行所御願上等宜取計可被申候、且又平賀磯三郎始之処ハ、末々聢と御治定と申ニも無之候得共、入財筋委細取調之趣も相達候付、尚申合候筋も有之候間、磯三郎早速一先罷帰候様可被申談候、横浜江も便船も近々有之ニ付、万一御下知不相備致出帆居候は、横浜江相滞居候様御通達方速ニ可被取計候……
   二月廿六日                              」    

373 芸州小倉底井野下 慶応二年七月〜十月               五冊

  国元の用人と底井野 (黒田三左衛門・黒田美作等)、小倉(井上六之丞・鶴原九平等)、芸州(葉山辰次・中村徳作等)との往復用状・探索書等の写。分量は大へん多く、その内でも小倉関係が大半を占める。「従二位黒田長溥公伝」に収められている書状と同文のものも多い。   

396 長藩於京地及戦争候付長防御追討記                 四冊

  禁門の変から第二次長州戦争終結までの記録。
 「一元治元甲子年六月松平大膳父子長州慶親家老福原越後を初天朝之御所置疑惑を生し、押而登京、同七月十八日洛中ニ而戦争候付、所司代〓追々御達、此方様ヲ初、長防追討御奉書を以御達、尾州前大納言様御惣督被仰付、芸州迄御出張、此方様江も御領端迄御人数被指出、三条実美初五藩江御預ケ相成候末、毛利大膳父子伏罪之姿相顕候付、同二年正月陣払相成候処、同年四月長防之形勢鎮静とも不相聞、激徒再発之趣ニ付、将軍家茂公為御追討御進発有之候ニ付、追々御勤其外御役々江も御仕向平常御勤事御控等之廉々左ニ目次を挙而誌之
      目次
 第一  一長州家老初於京都兵端を開候事
 第二  一京都ニおゐて同所司代〓追々御達之事
 第三  一御老中様大御目付衆〓御廻状ニ而追々御達之事
 第四  一此方様を初、討手被仰付候付御奉書を以御達之事
 第五  一尾張前大納言様御惣督被仰付候事
 第六  一御目付衆〓依御達御旗印類被指出候事
 第七  一御人数御繰出平常御勤御控御届之事
 第八  一松平大膳大夫屋鋪不残被召上候付長崎表屋敷之儀ニ付御達之事
 第九  一長州藩士御領内通路御取締御届之事
 第十  一平常之勤品ニ不及旨御達有之候付年始ヲはしめ式立候御勤向御控之儀御留守居名前之御内慮伺被指出候事
 第十一 一芸州広島表ニ而尾州様〓三条実美初五人之輩長州〓請取方御達之事
 第十二 一於小倉松平越前守様〓毛利大膳父子伏罪之姿相顕候付、改懸日限重而御達可有之候事
 第十三 一尾州様御陣払之儀於小倉松平越前守様〓御達之事
 第十四 一三条実美初江戸表江被召寄候付御達之事
 第十五 一毛利大膳家来森重百合蔵妻中西中江御預ケ之事
 第十六 一亀戸大鳥居〓御進発ニ付御札守指上候事
 第十七 一御追討ニ付追々御廻状等ニ而御達之事
 第十八 一一橋様於京都追々御賞誉之事
 第十九 一家茂公長州御追討として御進発之事
 第廿  一御留守中御法令御渡之事
 第廿一 一御進発御供之御老中初御役々江御贈物[  ]之事
 第廿二 一芸州并大坂ニ而追々御達之事
 第廿三 一長州御追討ニ付、御領端迄御人数被指出候付御届之事
 第廿四 一右ニ付平常御勤御控御伺之事
 第廿五 一御軍目付小宮山又七郎殿御領内御入込ニ付御届之事
 第廿六 一御征伐ニ付常行院〓御守指上候事
 第廿七 一御軍目付小宮山又七郎殿為御登坂御領内御発足ニ付御届之事
 第廿八 一御目付小林甚之郎殿為御登坂御領内より御出船ニ付御届之事
 第廿九 一御領端迄被指出候御討手御人数御引揚ニ付御届之事
 第三十 一宰府江謫居之五卿帰洛之儀五藩周旋方〓於京都板倉伊賀守江書取被指出候事
 第三十一 一御国喪ニ付解兵之儀於大坂御達之事
 第三十二 一寛大之御所置被仰出候間、於京都御達之事            」  

397 督府征長記事抄録                         一冊
  「督府征長記事」 「征長出陣記」「同付録」等からの抄録。黒田家罫紙に書かれる。
398 越前敦賀出陣雑記                         一冊

  天狗党鎮圧出兵の際の諸達を、後年罫紙に筆稿したもの。元治元年十一月晦日の慶喜の出兵命令で始まり、翌年閏五月の大頭小河伝右衛門の勤功書でおわる。   

399 外向ニ係り候内用向之留                      一冊

  慶応元年六月から同二年二月迄のもの。乙丑の獄関係の分は「従二位黒田長溥公伝」(中)に収められているので省略し、それ以外の記載例を抄出して左に示す。
 「六月十五日使者来り達ス                   立花飛騨守
  当今長防之形勢追日不穏趣ニ相聞候ニ付、小倉表之義ハ下関〓渡海之場所ニ付、万一激徒同所へ押渡、何様之為異変間敷とも難申候間、其方小笠原左京大夫へ応援相心得(下略)
                    右之通り相達候間、得其意可被申合候
  従若松一筆奉啓上候
  小倉表之諸勢、追々探索仕候処、御目付御入之砌は殊之外人気騒敷、柳川・久留米・肥後其外諸藩〓も御人数出張ニ相成候趣風説区々御座候処、頃日ニ至迄柳川其外共出張も無之、右之巷説相止居候得共、同表之藩士伐長之儀大ニ相進、軍備専ら之由ニ御座候、長州江御目付より詰向之有無、是又先日申上置候以後、風説相止、日増ニ静穏、伐長之説消可仕、右之次第ニ付、御領内江入込之有無今以相分不申候
   六月廿一日                         吉住謙治
  四兵衛様                                」
 三 久留米市民図書館
 久留米市民図書館の所蔵する有馬家文書の全体の様子は、一九七八年に同館が発行した『有馬家文書目録 第二集』によってわかる。同文書の中では、「記録」・「御勤向記録」・「御内證記録」の三種類の記録が量的にはかなりの比重を占め、いずれも近世中期から幕末期までほぼ毎年揃っている。このため今回の調査の重点は、各記録の性格および相互関係を明らかにすることにおいた。
 「記録」は久留米での家老の公務日記であり、おおむね一月分が一冊となっている。家老の用務の分担は、「記録」の各月の冒頭に記してあるように、表方と在方御勝手方との二つに分かれており、表方は藩士に関する事項、在方御勝手方は百姓・町人に関する事項および財政を担当する。慶応年間になると、このほかに文武方と武備方とができる。記載内容は、久留米城中での行事を留めるほか、領内への触や達し、藩士や領民の表彰や処罰、藩士への個別の指示など、藩政全般にわたっており、きわめて詳細である。幕府の触は、領内へそのまま触れたものは全文を留めてあるが、そうでないものは「御勤向御記録に委細書載有之、爰に略」というような文を付して、概要を記すにとどめている。
 代表的な記事を、いくつか例示する。  

  記録 上 元治元年八月                        一冊
 「  八月朔日 己巳 晴
  一表方御用番             廿一日迄  有馬織部
                     廿二日〓  有馬蔵人
  一在方御勝手方御用番         十一日迄  有馬主膳
                     十二日〓  有馬監物

  一八朔御礼被為請候付、五半時過
   御城江被為入、曲水之間
   出御、早速御礼始之儀、御用人より御奏者番江案内申述、御家老中初御手廻外様諸士中御礼申上相済、
   四時前、御帰駕
    但御礼式先格五節供之通、飛騨右近有馬蔵人就当病登城無之
    (中 略)
   八月二日 晴
       御手大工棟梁  直七
   右之者、御本丸西御門尽針無礼出入之儀、佐々作兵衛申出承届候条、御門方江可申渡旨、有馬織部〓岡田恒右衛門江申渡之
    (中 略)
   八月廿一日 陰
  一嶺雲院様江之
   御代拝御膳番勤之
  一御領中旅人改等之義ニ付、口達書を以、堀江市郎兵衛堀尾末之進岡田角八郎磯部勘平江有馬織部申渡之(以下、旅人改の詳細な記述があるが略す)
    (中 略)
   八月廿四日 陰
  一今般長州追討御手当御人数被差出候ニ付、御先手足軽極々差支候ニ付、櫛原口御番所御側足軽より当分引切相勤候様可申付旨、吉田新三郎江以切紙有馬蔵人申渡之
   (横浜鎖港についての幕府請書……略)
   (元治元年四月二十九日付の徳川慶喜以下の一八箇条の請書……略)
   右有馬蔵人宅江諸頭中召呼、別紙之通御家中之面々末々迄可相触旨、同人申渡之     」    

  記録 嘉永六年九月                          一冊
 「                            牢守 稔去増右衛門

  右は近年於牢内囚人共、飯賭等之勝負相催候末、賄方差略相頼候を、牢番共取計遣し、或は囚人共好之品買調差遣候、且又囚人共江宿許并知音之者より送物猥ニ取次、其外盗賊改方手先共入牢之砌、相牢之者共、私之遺恨を以法外呵責ニおよひ候儀も有之候、彼是牢内不〆、牢番共心得違をも其儘差過不行届不埒之事ニ候、依之可召込置事
    九月十七日                             」
 「                       御原郡西本郷町 次  助
  右之者、御井郡新田村友七、御原郡東本郷町吉右衛門方江荒使子奉公罷在候内、同人〓寅八名前相掠品物相求、其外不正筋取計候ニ付、吉右衛門任頼、去る四月十六日之夜於同人宅右一条取調、外ニ不審之筋も有之、手縄取糺、友七差迫逃去候付追懸候処、本郷町裏堀江逃去其末相果居候、人命大切之儀、殊ニ懸念之儀も有之候は、重々可遂吟味之処、不吟味不行届差過、重々不埓之事候、依之咎をも可申付之処、是迄数ケ月穢多溜江召込置候付、無其儀、直ニ差許       」   

  記録 嘉永六年十一月                         一冊
 「                      御郡上奉行
                        御郡奉行

  右彼方諸事取計筋、追而永久簡易之法格可被相立候条、今般取調方別紙之通被仰付候旨、大庭八右衛門・早川矢門江申渡、覚書一通河内相渡之、其趣は、其役方諸事取計向、元来定格も有之趣ニ候得共、時勢之変転、自然区々相成、一定不致儀も有之哉ニ相聞候、賞罰之儀は不軽筋ニ候処、是又時々異同全無之共難申、依之、永久簡易之法格被遂御詮議、追而可被仰出候条、左之通可被相心得候
 一前々〓郡中江被仰出、且同職中〓申渡置候諸法度等、其時々之異同ニ寄、度々申渡候儀も有之候条、前段之趣意区々相成候をも有之、又は当時之事情引合兼候而紛敷、不弁利之趣も有之哉ニ相聞候、右ニ付郡中懸り候諸法令等其役方ニ而相分居候丈之儀、部類を分、無洩落様取調、向後ケ様ニ有之度旨被存寄候儀は、其趣をも相認可差出候
 一賞罰筋之儀、以前〓追々申渡候先例ニ拠、可被取調は勿論之事候、乍併右先例区々相成居、賞罰共軽重不同之筋全く無之共難申趣ニ相聞候、新古之格例部分致し取調、向後一定法格存寄之趣をも相認右同断
 一其役方諸事取計筋役方之勤怠、時々異同も有之候〓自然委任之意味薄、事柄大小相混無用之手数相増留滞も相生し候趣相聞候、右ニ付是又是迄之取計筋部分致し取調、是ニは同職中評議を可被受、是ニは奉行限り取計、是ニは大庄屋限リ取計ニ而可然、右之見込を付、向後之定格存寄之趣相認、右同断
 右之趣取調、来寅年中可被差出候、尤調筋手入之事ニ可有之候得は、右調中下代助四人可被相渡候事
    十一月十日                             」     

  記録 明治元年正月                        一冊

  本書は原本ではなく写本である。
 「    正月十六日 晴
  臣慶喜不肖之身を以従来奉蒙無渝之寵恩を恐感疎戴之至ニ不奉堪云々
  但御勤向御記録委細有之、爰ニ略ス
  近来時勢次第ニ究迫ニ及ひ、不容易世態ニ相成候処是迄之政体振兼、兎角因循之取計而已ニ而、重役共大段之所取失機会後レ而已ニ而、政道も立兼、鎖細之小事ニ目を掛、急務之大目を打過候と申も、全我等之暗〓下知不行届之故之事ニ而恥入候事ニ候、然処此儘ニ打過候而ハ、弥以自国難相立、自滅之憂も可恐事ニ候、就而者我等も屹度心を用候間、其方共前々之格例を打捨、今日至当之条理ニ従、大眼を開き、政体一変、紀綱相立候儀、速ニ可取行所、今般於京都千古未曽有之大変革ニ相成、深々憂懼罷在候処、此節探索筋〓差出候別紙
  上様御建白致一覧候処、不知なからも誠以至理当然之御趣意ニ而、左も有度事ニ而、兼々上京之召も有之、是迄及延引候得共、此節者上京之機会を相考、只今迄之天下之形勢見据も無之上京ニ而も其詮も無之故ニ旁見合居候得共、此節格別之御建白も有之所ニ而者、唯今上京之汐合と相考、就而者我等之不肖元より天下之大事、寸分も有益之見込ハ更ニ無之候得共、責而は職分之万分一をも相尽度、同志諸藩之末ニ従、微力丈ケ之事たりとも御建白ニ本付、聊寸力を尽見度と存候付、断然上京と相決申候間、先不取敢右調〓取計、実用専らニ取調、来ル廿六日発足之治定候間、差支不申様ニ可取計候、然処、我等対朝幕江微忠之儀、重役諸人ニ依而厚薄可有之節者無之候得共、国家之事勿論、一人之扱ニ及候筋者無之候得共、譬我等而已矢竹ニ存候而も家老用席を初諸役々振立不申候節は、折角之心存も難相立候付、ケ様心事を申聞候而も矢張是迄之因循大段之所ニ不本付、旦我等之心存汲取不助呉候而者、政務之儀如何体ニ尽候而も難及候間、不及是非其方共ニ任せ候、他事無之儀と存、能々熟考、明日中ニ返答承度候事   

   辰正月八日之夜認
    中務
                                  有馬飛騨
                                  有馬右近
                                  有馬主膳
                                  有馬監物
                                  有馬蔵人
                                  有馬織部
                                  円岡一学
                                  不破美作
                                  喜多村弥六
  今般別紙写之通
  御直書被成下候処、於

  御国論は素的当之御儀ニ而御受申上候、然処畢竟手前共初重立候役向、才力乏鋪、太平偸安之弊習ニ溺候而、不軽御配慮被遊候儀は、深々賢才御抜擢被為在度志願候得共、左候而は今日之間報恩之道を閊候而已ならず、避難盾責之柔弱ニも可有之候得は、猶此上は乍不及も精力之限り、国家一新之紀綱相立候儀肝要之儀ニ付、諸役々猶更令憤発、上下一統力を戮せ、御安心被遊候様、深々可令励精候、尤存寄之儀も有之候者、無腹臓不差置可申出候事
   正月十六日
  右三通之趣、仲間且支配頭宅ニ而銘々写取候様、諸頭中江右近申渡
  来ル廿六日可被遊
  御発駕段被
  仰出置候処、未タ聢たる便は不相達候得共、昨今京都表不容易変動有之趣相聞、弥以急速可被遊
  御上京之処、去ル四日之夜、御預所四日市江何者共不知多人数押寄炮発及乱暴、御陣屋も焼失之旨榊次太夫〓申越(下略)
   正月十六日
  右覚書之趣、御家中在町江可相触旨、諸頭中江右近申渡之          」
 「御勤向記録」は、江戸での藩主の幕府への御勤向の記録である。一月分が一冊で、筆者の名はない。各冊の巻頭には、老中以下、月番にあたった幕府の各役職の人名が記してある。藩主の江戸城への登城の記事はもちろん、幕府からの触や達し、藩が幕府へ出した届書、諸藩の留守居相互間の書状などは全文が留めてあり、幕藩関係を知る上での重要史料である。以下に記載例を示す。  

  御勤向記録 天保十二年五月                      一冊
 「                     御月番
                        堀田備中守様 (老中)
                        松平玄蕃頭様 (若年寄)
                        阿部伊勢守様 (寺社奉行)
                        石河美濃守様 (留守居)
                        遠山左衛門尉様(町奉行)
                   御勝手方 内藤隼人正様 (勘定奉行)
                   公事方  佐橋長門守様 (勘定奉行)
                        小出丹宮様  (先手鉄炮頭)
                        榊原主計頭様 (目付)
                      右大将様御附
                        井上河内守様 (老中)
                        内藤駿河守様 (若年寄)
    (中 略)
    十四日  雨
  一七時過、御用番堀田備中守様より御両殿様江御連名之御奉書御到来如左
     御用之儀候間、明十五日五時可有登
     城候、以上
     五月十四日
                           堀田備中守
                           十井大炊頭
                           太田備後守
                           水野越前守
      有馬上総介殿
  一(有馬玄蕃頭宛の同文……略)
  一(右に対する老中宛の請書……略)
  一(浪人取締りの幕府触書……略)
    右御廻状松平陸奥守様衆〓到来ニ付、即刻毛利甲斐守様衆江順達仕候」
  御勤向記録 安政五年正月                       一冊

 「    六日 陰晴
  一松平陸奥守様〓御使者橋本九八郎罷越、左之通十二月十一日亜墨利加使節対話書写壱冊、同十二日同写壱冊、同十四日写壱冊御添書共壱封并御書付壱通、御使者演説之覚書持参、御留守中致対談度旨ニ付、早川甚九郎致応対奉請取御相答申達之   

    十二月十一日
      一亜墨利加使節対話書             壱冊
    同十二日
      一同                     壱冊
    同十四日
      一同                     壱冊

       御添書 一通在中
   右御封書、今便御国許江被差越之
     旧臘廿七日堀田備中守殿江家来御呼出之上、御用人を以御封書一封被相渡、各様江致通達候様共被仰聞候間、写指廻申候、尤追而不及御差戻候、以上
     正月五日                 松平陸奥守
        有馬中務大輔様
     猶以御嫡子方江も致通達候様被仰聞候、以上
       演説之覚
     旧臘廿七日堀田備中守様江私共被召呼、御封書壱封被相渡候付、御請之儀は備中守様江御使者を以被仰遣候儀と奉存候
     一右御封書、家来重役之者并其筋係り役人拝見苦ク間敷哉、御用人を以相伺候処、不苦旨、右役を以被仰聞候、右之通為御心得申達候様、陸奥守被申付候、以上
                          松平陸奥守内 
      正月五日                   橋本九八郎 
  一左之通之手控出来、松平陸奥守様江御留守居早川甚九郎罷出、御留守居中江面会差出之
     旧臘廿七日堀田備中守様江御家来御呼出、御用人を以被成御渡候十二月十一日亜墨利加使節討話書写壱冊、同十二日同写壱冊、同十四日同写壱冊御添書共壱封并御書付壱通、御使者演説之覚書壱通、御使者を以被成御差越、重役之者奉請取、早速国許中務大輔江可申遣候、先此段申上候、以上
                         馬中務大輔家来   
                            早川甚九郎    
      九日
  一堀田備中守様御用人中〓御留守居中江昨日剪紙到来、中村吉右衛門罷出候処、左之通之御書付、御用人金子文蔵を以被成御渡候ニ付、請取罷帰、岸相模江差出之
                         袖ニ
                          有馬中務大輔江
   亜墨利加使節再答申立候趣ニ付、猶心附候儀は可被申立段、此程委細被仰出、其後旧臘万石以上之面々登城御目見被仰付、右並掛り役々〓も委細之事情及演説、存寄之程をも承り候儀ニ有之、尤京都表江も追々被仰遣、先達而本多美濃守上京ニ付而も委曲被仰含被差遣候処、呉々御国安寧之儀、宜敷御所置有之候様ニとの御儀ニ候、其後猶又林大学頭、津田半三郎被差遣、委曲之事情奉叡聞、猶此上御使を以
     叡慮御伺も有之度
     思召候、其許ニは在邑之事故、当地之模様難被尽儀も可有之間、追々応接之上、彼方より差出候条約下案之箇条取縮刪除致し候別帳一冊相達候、猶見込之品も有之候は、無伏臓早々被申上候様ニとの御沙汰ニ候事
     御別冊之儀は未碇と治定致候儀ニは無之、此上文意等加除いたし候儀も可有之候、此段も為心得相達候事
  一転切支丹類族死亡御届宗門御改、大御目付井戸対馬守殿江御留守居早川甚九郎持参、用人中を以差出之   」   

  御勤向記録 文久元年三月                       一冊

  冊子の最初に「御用番」と題して、幕府の老中その他のリストを載せる。以下の如き公儀触の伝達に関する記録が多く収められている。
 「 二日 曇
 内藤紀伊守殿御渡候御書付写壱通相達候間、被得其意無遅滞順達、従止山口丹波守方江可被相返候、以上
    三月二日                         大目付
 松平陸奥守殿 奉
 (中 略)
 亀井隠岐守殿 奉
     各留守居
     大目付江
 東海道掛川宿、中山道河渡宿困窮ニ付、人馬賃銭割増左之通可請取旨申渡
 (中 略)
   酉二月
  右廻状南部美濃守様衆〓到来、即刻松平修理大夫様衆江順達仕候       」
 また、公儀への届・願や公儀よりの申渡をその折衝経過と共に記録している。
 「一左之通之伺書奥御右筆組頭加藤惣兵衛殿江御留守居早川甚九郎持参、御文儀相談ニ及ひ候処、此御文躰ニ而は納り兼可申と被存候、日田・長崎之内一方御断と申御文議ニ候ハヽ可然と被存候旨被申聞候
    西国御郡代池田岩之丞様御支配所豊後国日田江非常之節人数差出方之儀、去ル未十二月脇坂中務大輔様御差図ニ依而、松平式部少輔様〓御達之趣奉畏候、……然処是迄長崎も異変之節は人数器械等差出候段御届仕置候得共、今度日田御陣屋御手当被仰付候付而は、万一同時非常之節人数御差出方双方より御通達御座候共、何分行届兼候間、長崎一方は御断申上候様仕度奉存候、右之通相心得可然哉、御勘定奉行松平出雲守様江相伺候処、御謝礼ニ而御老中様江相伺候様御差図御座候付、猶可伺旨被申付候、此段奉伺候、以上
                          御官名家来
      三月                     早川甚九郎 」
 「一左之通之御答書町奉行石谷因幡守殿江御留守居組与頭田中万蔵持参差出候処、相違無之上は御引渡ニ可相成筈ニ候得共、町方〓引取度旨願出候者有之、渡遣候間、右之通可相心得旨、掛り与力服部孫九郎を以被仰渡候
    去申九月廿三日被仰渡候百姓清兵衛忰熊蔵事坊主快策儀、国許江申遣候処、当人申上候通筑後国三潴郡浮島村百姓清兵衛忰ニ相違無御座趣申越候、此段御尋ニ付申上候、以上
                          御官名家来
       三月廿六日                  田中万蔵 」
 「一御勘定奉行竹内下野守殿〓御城中ニ口々今日御呼出ニ付、御留守居組与頭田中万蔵罷出候処、下野守殿・御勘定吟味役立田録助殿・同組頭吉川幸七郎殿・同吟味方改役並下妻市蔵殿・支配勘定三浦義十郎殿御出席、御貸付金御納方之儀、別紙之通下野守殿〓被仰渡、市蔵殿を以御達書被相渡候付、請書差出申候
   右相済候後、御貸付役所江明日罷出可申旨、義十郎を以被仰渡、金高書付御掛り名前書別紙之通被相渡候
    御貸付金納方之儀、従来勝手向不如意、近年臨時入財大造ニおよび、其外水害等申立之趣、無余義相聞候間、出格之訳を以、去ル丑年不納之分〓去申年迄八ケ年延被成下、壱ケ年限返納元金は、猶又御貸渡金を以、一時納方可被取計候
   右は久世大和守殿被仰渡候間、申達、尤右様被成下候上は、猶又不納可及訳無之候得共、向後期日通聊無遅滞納方取計候様、兼而手筈ニ可被致候、依之、別紙金高書付相達候、右ニ付御貸付役所江可被差出書付案之儀は、同所〓可相達候間、可被得其意候 」
 この他、他藩との応対も留められている。
 「一宗対馬守様〓御使者御用人土田種右衛門罷越候付、中村弾作致面会候処、今日公辺江御届ニ相成候間為御知旁左之通御書面写持参差出候ニ付、受取、御相応之御答申述之
    私領分対馬浅茅浦江碇泊之魯西亜船、修理ニ事寄急ニ退帆之勢ニ無之……始終之勝算千万無覚束奉存候得共、眼前定長ニ罷在候夷賊其儘難閣御座候付、不顧後患討取可申、州中一同決心仕罷在候得共、右は重大之事柄ニ付……一応奉経御伺候間、何れ之道速ニ人心一定之御指揮偏奉信候……
      四月十三日                        御名 」
 「御内證記録」は、江戸藩邸での側役の日記と思われる。江戸での藩主や藩士の日々の動静を記し、また江戸にいる藩士に対する節倹令などは全文を記している。幕府の触については、「但、御触書之趣は御勤向ニ有之、爰ニ略」と記して、全文が「御勤向記録」にある旨を示している。やはり一月分が一冊。以下に記載例を示す。  

  御内證記録 天保十二年五月                      一冊

 「  十四日  雨                      一宮猪三太
  一祥雲寺御代拝、御奏者番
  一右同寺御代拝、頭役
  一明十五日、御用之儀被為在
   御両殿様被遊
   御登城、御老中様御連名之御奉書御出来ニ付、明日
   御帰駕之節、御家中之面々惣出仕罷在候様可相触旨、有馬播磨〓服部連江申渡之
  一鳴物御免之儀ニ付
   公儀御触書之趣、御家中之面々向寄為承知申伝候様、諸頭中江可申聞旨右同断
  一                     御納戸下役
                          竹内安五郎弟
                            饗庭伴次
   右之者、天保二卯年三月永々御暇被仰付、其後鍛冶橋御門外江罷在、上総屋直吉と令改名候、然ル処、兼々身持不宜ニ而往々は何程之儀可仕哉も難計候付(下略)  」
  御内證記録 弘化二年四月                       一冊
 「左之通被仰出候
                御留守居中
   今般御入部初而之御留守之儀ニ付諸御勤向猶更念を入、御用人中申談洩落無之様重々心をひて相勤候、尤毎日四時〓八時迄相詰刻限無延引可令出仕候
  一兼而被仰付置候通一同致他出間敷候、御老中方江罷出候節又ハ類役寄合其外無拠御用筋之外一切為自分一同ニ致他出間鋪候事
     四月廿六日
   右覚書之趣有馬豊前〓中嶋権兵衛中村和三郎江申渡之
   公辺御勤向之儀御留守居中は猶更引受可相勤候、其外諸御勤向之儀御用人中御留守居中申談重々心掛洩落無之様可入念候
  一御献上物随分入念麁略無之様可相改候
  一御進物之儀御用部屋与申談無洩落様可取計候
  一飛脚定日不致出仕候儀御用部屋江其訳可相達候、且又書上諸言上迄前以追々取調置無延引可相仕廻候
  一日々出仕懈怠有之候ハヽ飛脚便御用部屋〓可及言上候、飛脚日出席無之輩何故出席無之段可申越候
   右之通可申聞旨被仰出候事
     四月廿六日
                 御用人中
   昼四時無延引罷出八時迄日々可相詰候、引取後不時御用ハ勿論、遠方出火等之節も御勤可有之方角ニ候は早速罷出可申談候事    

    四月廿六日
                             古賀小左衛門
                             中嶋権兵衛
                             玉井勝右衛門
                             生田庄蔵
   御留守中御勤向一式引受御留守居中申談日々於御殿可取斗候
     四月廿六日                            」

 上記の三種類の記録のほかで、目を通すことができた史料のうち、幕末関係のものの所見は左の通りである。  

4506 嘉永五年断獄書                         五冊

  真木和泉等が、家老有馬河内等を黜けようとした事件に関わる吟味書。五分冊の内容は以下の通り。   

 第一冊 稲次因幡江問答            三月二日
     再度稲次因幡御僉議問口答       四月十二日
     水野丹後御僉議問口答         四月二日
     吉田丹波江問口答           三月廿八日
     再度吉田丹波御僉議問口答       四月十四日
 第二冊 木村三郎江問口答           三月十七日
     再度木村三郎御僉議問口答       四月六日
     三度木村三郎御僉議問口答       四月十二日
     再度水野丹後御僉議問口答       四月十四日
     西原湊江問口答            三月廿七日
     再度西原湊御僉議問口答        四月十二日
 第三冊 鵜飼広登江問答            三月十二日
     再度鵜飼広登御僉議問口答       四月八日
     鵜飼斉江問答             三月十日
     白江市次郎御僉議問口答        四月朔日
     再度白江市次郎御僉議問口答      四月十四日
 第四冊 吉村多門江問口答           三月二十九日
     再度吉村多門御僉議問口答       四月十四日
     三度目小森田甚三郎御僉議問口答    四月十一日
     久徳与十郎御僉議問口答        四月五日
 第五冊 明石格弥江問答            三月十四日
     再度明石格弥御僉議問口答       四月十一日
     小森田甚三郎江問答          三月六日
     二度目小森田甚三郎江問答       三月八日
     真木和泉御僉議問口答         四月九日
 「 真木和泉御僉議問口答
     四月九日
                 真木和泉守
   其方義

   御為筋之義ニ付同志之輩申談、且上書之義ニ付、御不審之筋有之、御家老中并拙者共を以相尋候様被仰付、有体可申出候
  一巳七月廿五日守太郎平八密談之義其方如何聞得候哉
    御先代様御病気ニ付御医師之義相談仕候義有之、其事付三郎江も私〓申通、同道参呉候様守太郎〓申来候付、両人同道夜ニ入参候処孫市殿承平八参居、私ハ広く付合候義ニ付、御医師之義色々之咄も有拘り候義もなく、後ハ酒抔出候ニ付相応ニ給及深更皆寝転候都合ニ候処、平八〓是から先ハ両人之相談ト申事ニ而同人守太郎椽鼻ニ出私ハ末座之方ニ罷在、大分遠く右両人之咄も耳ニ入兼候義も有之、耳留居候得共しっかりハ聞出し不申、端々聞へおそろしき事ト存申候、其咄ハ
    御先代様御病気迚も御六ケ敷、就而ハ御遺命ト偽
    孝五郎様ハ御人物御六ケ敷迚もつけぬ故
    冨之丞様御十五歳迄之間御立申置、其上ニ而
    御同人様江御譲被遊、惣而両人ハ冨之丞様江御勤可申ハ申丈ハ聢ト聞受申候、栄抔ハ酩酊ニ而屡起上リ不埓之事を申もの迚叱掛り候ト申風ニ付、平八ハ立上リ押付〓すると申風ニ而、私抔ハそこ〓ニして帰、西尾横手迄是ハおそろしき事ト咄参リ、孫市殿栄トハ同所ニ而別レ三郎ハ私方へ直ニ参一宿仕候
   右密談其儘致置候哉                     (下略) 」    

3956 公事方要領雑記                         一冊

  文久三年の「公事方」の新設に伴ない、職務遂行のために作成された記録。非常に詳細で、久留米藩の刑事法制の全容がわかる。   

5373 (探索書)                           一冊

  「文久三亥春在京中筆記するもの也 白川」と朱書がある。途中には「右二月十一日便〓御国元ヘ申遣ス」とあり、探索書を送ったものの控を書きとめたものか。内容はかなり詳細。白川は、久留米藩の探索方の者であろうか。   

6408 文格留                             一冊

  三宅十大夫書状および十大夫宛書状の留。三宅十大夫は久留米藩の用人と思われる。土浦藩士大久保要等と交わりがある。   

3912 長崎日記(右同雑記・右同先例) 文久三年七月          一冊

  表紙に「田中」とある。七月十四日〜二十六日の日記のあと、「唐人鐘山江問合書」をはじめとして「薩与英戦英以薩為強平為弱平勝敗如何」「上海新聞紙」「御奉行所〓出候書付」「筑前御家代高村〓之廻状」等、薩英戦争関係の情報を収める。更にその後、天保十五年七月朔日からの異船入港の先例が書かれている。   

4598 慶頼公御代御書出之類 自嘉永五年一月              一冊

  第一丁に、木村忠雄・木村清彦の蔵書印があり、後年有馬家で入手したものか。以下に記すように、基本的には家中に触れた触・達の類の記録留と考えられる。公儀触も収める。
 「   正月廿四日 有馬右近
  一来ル廿八日於御大学講釈被仰付候、此段拝聴之面々江可被相触候、已上   」
 「一御触ニ無之候得共、手ニ入候ニ付、爰ニ記置候事
   来ル辰三月朝鮮人来聘之節、於大坂御城御行礼之積被仰出候ニ付……
    公方様御名代松平阿波守様
    同御扣   井伊掃部頭様
                                (以下略) 」                                 

6433 蒸気船一件帳 文久四年三月                   一冊

  『久留米市史』第二巻によれば、久留米藩の元治改革により外国船購入が開始されたが、七隻の所有にもかかわらず外国債がゼロであることが、国産会所仕法による支払のゆえと説明されている(六五〇頁)。本史料はこの支払に関係する史料であり、特産の茶と結びつけた点で注目される。   

3989 小倉表手扣 慶応元年八月                    一冊

  他所応接掛田中紋次郎が、出張先の小倉で集めた情報を国許へ送った書状の留。戸田蔵書の印あり。
 「去ル十日小倉藩上条八兵衛〓室田栄・私義一同薩州園田彦右衛門旅宿へ参り呉候様申聞候ニ付、罷越候処、肥後・柳川・中津周旋方出会ニ而、上条〓申聞候は、此節当所へ若年寄立花出雲守様御下向之御内定之旨、薄々承知致し候ニ付、各様方思召御見込之程如何被為在候哉、極内々御咄合致度段申聞候ニ付、右藩々之見込ニは、昨年は越前公御下向ニ而万事御差図茂有之候処、此節は若年寄立花侯と申而は如何可有御座哉、閣老以上之御方御人選ニ而御下向之方可然哉(薩州園田之説ニは、是非立花侯御下向之義御決定ニ候ハヽ閣老職被仰付、其上ニ而当所御下向可然との見込之由)之旨申聞候処、上条〓皆様御見込之通り相運ひ候様致度旨申聞候、翌十一日会津望月辰太郎・日向求太郎〓私江参り呉候様申遣し候ニ付、罷越候処、両人より申聞候は、上条〓御内話致し候義如何被思召候哉、篤と御話申度、此節ハ是非とも閣老以上之御方ニ無之而は、他日物議沸騰いたし候も難計、左候而は長征之御運ひも如何可有御座哉之旨申聞候ニ付、至極御尤之義ニ而昨日も薩肥初諸藩見込も御同様ニ而、左様無之而は相成り間敷旨申聞候(下略)        」  

3910 小倉表探索書手扣 慶応二年三月                 一冊

  3989と同種の史料。
 「前略、扨薩藩周旋方土岐新兵衛、室田栄旅宿江参り、兼而尊藩は御間柄之事故内々御噂申候、今般壱岐守様芸州表江御着被遊候得共、御風邪ニ付御処置御取掛り無御座と諸藩周旋方初存居候得共、実は去ル七日御着、直々八日御使者御差立ニ而、御処置之件々御申渡被遊候処、長防之勢、大膳父子之儀は、蟄居たり共、永蟄居たりとも御処置次第ニ而承服仕候様子ニ候へ共、拾万石御取揚ニ至而は、土地も差上候心得は毛頭無御座、若哉是非御取揚と御座候得は、直ニ閣老殺候覚悟罷在候勢ニ付、中々以不容易場合ニ押移候故、孰れ来月上旬ニは、又々幕府〓諸藩江出張之命下り候儀必然なる事ニ御座候、七月頃ニ至候得は弥戦争相初候と愚考仕候故、尊藩田中紋次郎君江は右御噂申候趣早々御申越被下候様申聞候ニ付、右探索之根元余程相尋見候得共、秘事模様ニ而委細根元迄相探候義出来兼候ニ付、別段言上不仕候間、左様御承知可被下候(下略)             」  

3911 小倉表手扣 慶応二年五月                    一冊

  小倉口へ出張した一番隊、二番隊の編成書。
 なお、有馬家文書は、久留米市民図書館のほか同市内の篠山神社に、御内書、絵図、明治以降の家政関係の史料が保管されており、その目録は、一九七九年に福岡県地方史連絡協議会が作成した『福岡県古文書等緊急調査報告書』の中におさめられている。
                   (小野正雄・宮地正人・塚田孝・横山伊徳)


『東京大学史料編纂所報』第20号p.114