大日本史料第三編之二十一

本冊には、鳥羽天皇元永元年(一一一八)十二月から同二年三月までの史料、及び陽明文庫本「中右記」寛治七年七月から九月までの記事を中心として作成した補遺を収める。
 この間の主要な記事を掲げると、元永元年十二月十七日、前年十月以来進行していた新御願最勝寺の落慶供養が天皇・白河法皇臨幸の下に行なわれた。寺地については、近世以降の地誌・地図類によって説がたてられてきたが、「山槐記」・「明月記」等の寺が存在していた時代の史料に基づき、また他の六勝寺との関連を踏まえた福山敏男「六勝寺の位置」により史料を掲出し、按文を付した。
 元永二年正月五日に叙位、二十四日に除目が行なわれた。本冊では「大間成文抄」の他に、同じ著者藤原良経の「春除目抄」古写本(宮内庁書陵部所蔵)等を利用することができ、そこに引かれた今回の執筆内大臣藤原忠通の日記「法性寺殿御記」逸文等によって式次第の内容がかなり明らかとなった。また、同じ五日には、中宮藤原璋子の御着帯の儀が行なわれ、以後、五月二十八日の皇子(顕仁、後の崇徳天皇)誕生を迎えるまで、御産に備える行事が散見する。特に白河法皇が平産祈願行事を主催したり(正月八日第三条・三月九日第一条)しているのは、中宮の行啓に法皇が同行している例(正月二十六日・三月十二日・同二十九日第二条)と相まって注目される。
 二月六日、藤原忠通が左大将に任ぜられ、十七日着陣の儀が行なわれた。また、熊野参詣を三年来続けている法皇が、聖恵法親王を名代として参詣させ、その間精進を行なっている(二月十四日第一条・三月三日条)。
 三月二十一日、権大納言藤原宗通の新造第が放火によって焼失。前年十月に宗通の女が藤原忠通に嫁し、夫妻の新居に用意されたものである。婚儀の日にも宗通は九条亭を放火によって失っている。また、法皇が関白藤原忠実の五千町歩に及ぶ上野の荘園立荘に対して不快の意を示し、忠実が停止に従っている(二十五日第二条)。前年の阿波仁和寺宮領における処置と同様、法皇が政局の運営に指導力を発揮している様子を伺うことができよう。
 元永元年雑載には、その性質上種々のものを含むが、中でも、従来白河院庁下文とされていた九条家文書元永元年八月の前欠文書写は、連署者の顔ぶれから関白藤原忠実家政所下文であり、摂関家家政機関の構成を知り得る注目すべき史料である。
 本冊に事蹟を収めた者は、流人前法眼澄仁(元永元年是歳条)、已講厳勝・前壱岐守大中臣敦清(元永元年雑載)、能書家として知られる右京大夫藤原定実(正月是月条)、「当時ノ名医」と評された前図書頭丹波重康(二月十日第三条)、内供奉法眼清覚(二月十八日条)、この頃京都に横行した強盗に殺害された前治部丞藤原時忠(二月二十九日条)である。
 補遺として、既刊部分に更に三十三箇条の綱文を加えることになった。このうち、寛治七年九月二十三日、「地震并月犯暈〔畢〕事」で天文密奏が行われているが、天文計算によると、十八日に月は畢宿に入るが、畢大星(牡牛座アルデバラン)からは約十一度北を通過するので、犯とは言えず、当時の人々が関心を持った地震発生時の月の位置に関する情報を藤原宗忠が誤ったものと考えられる。この条について、斉藤国治・桃裕行両氏の御教示を得た。
(目次一一頁、本文四〇一頁、補遺目次九頁、補遺本文五〇頁)
担当者 岡田隆夫・石井正敏

『東京大学史料編纂所報』第20号 p.59*-60