大日本史料第一編之二十三

本冊には、花山天皇寛和元年(九八五)四月より同年十二月までの史料を収める。
 この間に於ける主要な公事としては、改元と大嘗会があげられる。永観三年四月二十七日、花山天皇代始により寛和と改元した。また大嘗会に就いては、これより先、大嘗会国郡のト定等が行われていたが、まず閏八月三十日朱雀門に於いて大祓が行われ(この後、大祓は九月ニ十九日・十月三十日と行われた)、ついで九月三日には大嘗会により御燈が停められている。この後、大嘗会御禊日時定(九月十四日第一条)、同御禊除目(同月二十一日条)、同御禊装束司定・御禊地点定(十月十四日条)、大嘗会御禊(同月二十五日条)と次第し、十一月十五日には一代一度の大神宝使が発遣され、同月二十一日の大嘗会に至っている。この間、大嘗会国郡にト定された近江・丹波両国司への任官を望むものが多く、大嘗会日時定と同日に行われた小除目に於いて、近江・丹波等の掾を加任し、本任の掾等を停めるなどのことが起こり、藤原実資をして嘆息せしめている。これに関連して、十月二十一日の大嘗会叙位に主基国司の賞として従二位に叙された天皇の外舅藤原義懐の急速な官位の昇進にも注目させられる。
 花山天皇に関する主な事柄としては、同母の姉円融上皇女御二品尊子内親王の薨去(五月二日第二条)と女御藤原〓子(大納言藤原為光女)の卒去があげられる。子は七月十八日、前播磨守藤原共政の室町西春日北の宅に卒去したが、纔かに十七歳、懐妊七ケ月の身重であった。七月二十二日従四位上が贈られ、閏八月二日法性寺に於いて七々日忌法会が行われた。花山天皇の〓子に対する寵愛は深く、悲嘆も尋常でなかったと伝えるが、十二月五日には式部卿為平親王女婉子女王が女御として入内している。
 円融上皇に関しては、上皇の御悩と出家があげられる。上皇は度々円融寺に御幸するなどしていたが(五月十七日・六月二十一日第一条)、八月二十七日御悩により堀河院西対に還御し、二目後の同月二十九日僧正寛朝及び大僧都餘慶等を戒師として剃髪、宿念であった出家を果した。時に二十七歳、法名は金剛法。閏八月六日法皇に度者百人が上られ、また法皇も播磨書写山の僧性空を召さんとしたが果さず、さらに北野社に奉幣し、阿闍梨明肇等をして修法を勤仕させるなどしたが、御悩は止まず、ついに九月十九日法皇は堀河院より円融寺に遷御した。中宮藤原遵子に就いては、すでに五月十三日に故源惟正の二条第遷御の雑事が定められており、法皇の円融寺遷御と同日に二条第に遷御している。
 宗教・学芸の関係では、源信による『往生要集』の撰集(四月是月条)と内裏歌合(八月十日条)をあげることができる。『往生要集』は念仏の一門により極楽往生に関する経論の要文を撰集したもので、その撰集は永観二年十一月頃より本格的に進められ、本年四月その功を終えたものであり、全三巻、序と跋を除き本文を十門に分っている。念仏や地獄思想を始めとして『往生要集』に盛られた思想は当時の社会に深く滲透し、当時は勿論後世の社会・文化の各方面に亘り、計り知れない思想的影響を及ぼしている。本冊には諸本を始めとして関連する各種の史料を類聚している。なお、『往生要集』は是より後、源信により師良源作の観音讃等とともに宋に送附されているが、本条にはその便宜に拠りこのことを合叙した。
 六月より八月にかけては炎旱が甚しく、祈雨の為に神泉苑御修法(六月二十八日条)、十六社奉幣(七月十三日条)、祈雨奉幣使の発遣(八月二十七日第一条)と種々の方策がとられている。
 事蹟を集録したものは、円融上皇女御二品尊子内親王(五月二日第二条)、大納言藤原為光室藤原伊尹女(六月二日条)、従五位下藤原昇子(同月十三日条)、従五位上源信時(同月二十一日第二条)、非参議皇太后宮権大夫藤原国章(同月二十三日条)、女御藤原〓子(七月十八日条)、近江権介橘廣平(九月十四日第一条)などである。
(目次一五頁、本文三六九頁、挿入図版一葉)
担当者 石上英一・厚谷和雄

『東京大学史料編纂所報』第20号 p.58