東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古文書 幕末外国関係文書之四十

本冊には万延元年五月朔日(一八六〇年六月一九日)から同年六月晦日(一八六〇年八月一六日)までの文書を収めた。この時期の重要な問題を紹介しておこう。
五月二十四日、ポルトガル使節ギマレースが、日本と修好通商条約を結ぶために品川へ来航した。ポルトガルとの条約の締結は、蘭国理事官クルチウスの幕府への進言があったようで、老中は二十五日付のクルチウス宛の書翰で、安政六年に米・英・仏・蘭・魯の五ケ国と通商を開始して以来、国産の海外への流出など多くの支障が生じているが、ポルトガルとは其許に約束した通り条約を結ぶ用意がある、と記している。しかし、その書翰の草案を見ると、新たに外国と条約を結ぶことは「我政府において好むところにあらず」とか、其許との約束は「今更背くへきにあらさるにより」とかいう文が抹消されており、幕府は、この条約の締結には、あまり乗気でなかったことがわかる。これを裏付けるように、英国特命全権公使オールコックの問合せに、老中は六月三日付で、ポルトガル以外の国と新たに条約を結ぶ考えはない旨を返信している。日葡修好通商条約の締結は六月十七日であった。
一方、クルチウスは五月二十三日付の書翰で、日本政府が新規条約の締結を好まない旨を自分が諸国に伝えようと老中に提案し、ただしプロシャは使節が来日の途上にあるので、条約締結は止むを得ないと書き添えた。老中は、この提案に賛意を表した。
五ケ国と結んだ修好通商条約の条項をめぐる問題としては、新潟または西海岸の一港を開港する件があった。新潟は大船の着岸が困難なため、条約に定めた安政六年十二月九日の開港は延期となっていた。五月二十一日、オールコックは老中に宛て、今年中に新潟またはその代港を開くべきであり、どの港が適当かを測量するために検査船を派遣する旨を通告した。この問題について老中から見解を求められた水野忠徳と外国奉行は、開港場は新潟のほか敦賀・小浜・田辺・宮津などの私領の良港を含めて選定すべきだと述べ、勘定奉行・同吟味役・大目付・目付は、私領の上知は困難だから新潟にすべきだとして、忠徳らの意見に反対した。
五月二日、幕府は洋銀の相場は時価とすることを決め、各国に伝達した。ところが、五月の末から神奈川運上所が日々の洋銀の相場を貼り出したため、米・英・仏の諸国は、幕府が洋銀相場を定めていると抗議した。幕府はこれに反論したが、結局、神奈川運上所での相場の貼出しを中止して事態を収拾した。また幕府は五月十三日から、壱分銀の洋銀との引替えを停止した。これについても各国との間にやりとりがあったが、最終的には同意が得られた。
米国弁理公使ハリスが申し入れていた将軍との謁見は、その際の礼典の手続きをめぐり双方の意見が折合わず、万延元年の初めから商議が繰り返されてきたが、五月末になって自分は大統領の名代だから将軍と対等であるというハリスの主張を幕府がうけいれ、七月四日に謁見がおこなわれる運びとなった。ひきつづいて幕府は、オールコックと仏国代理公使ド・ベルクールにも、近く将軍との謁見を許す旨を通告した。
(例言一頁、邦文目次一八頁、同本文三一四頁、欧文目次五頁、同本文五二頁)
担当者 小野正雄・多田実・稲垣敏子・横山伊徳


『東京大学史料編纂所報』第20号p.62