大日本維新史料類纂之部「井伊家史料」十四

第十四巻は、(1)安政五年十二月五日より同月晦日に至る、長野主膳・宇津木六之丞往復書翰を軸とする朝幕交渉関係史料、(2)安政五年十二月、徒目付・小人目付による水戸藩密使上京計画並びに「飯泉友輔初筆」一件関係者に関する探索報告書、(3)同時期のその他の幕政関係史料という三種類の史料群が収録されている。
 この時期における間部詮勝・長野主膳らの対朝廷政策の柱は二つあった。一つは、囚人東下(第一回は十二月五日)を頂点とする反対派の捕縛・厳重吟味であり、一つは、このことを前提として、「悪謀方」公卿を罪状自認に追いこむことであった。これら二策により彼らは孝明天皇の意志の軟化を図ろうとしたのである。
 この取調べの過程で、長野は反幕公卿の中に、水戸派と王政復古派の両派があると観察し、また梁川星巌・梅田源次郎・頼三樹三郎・池内大学が徳川家滅亡を図る「悪謀方四天王」だとする(六号)。梁川・梅田グループ関係の史料としては、安政五年八月青蓮院宮宛梅田上書(二一号別紙)や、大山綱良・岸田吟香・春日潜庵・小野湖山・勝野豊作・藤森天山らの書状を含んだ「梁川星巌取上ヶ書類写」(二八号別紙二)などが興味深い。
 孝明天皇は十二月五日、九条尚忠に再び勅書を下し、将軍と老中が蛮夷を遠ざけることに同意の由であるが、すこし疑念も残ると、更に幕府の真意を確認させようとする(一二号関連史料)。これを受け、間部は「此上者、反逆荷担之実事を顕し、邪正分明之場ニ至り不申候而者、御疑念も被為解間敷哉」と天皇に圧力をかけつつ、他面、武備整頓の上での鎖国への引戻しを約束する(五〇号別紙二)。そして天皇に最終的に幕府との和解にふみ切らせたものは、二条斉敬の江戸における対幕直接交渉の失敗であった(三八号)。十二月二十四日、天皇は「心中氷解」との勅書を下し(三四号別紙一)、長野は「誠ニ、万々歳ヲ唱へ候而も、猶不飽足恐悦ニ御座候」と歓喜雀躍する(三八号)。
 なお、このほか本巻には、(1)依然として京都所司代酒井忠義が、間部や長野と異り、朝廷融和策の線で動いていること(二一号別紙、二八号等)、(2)京都町奉行与力渡辺金三郎が長野に内通していること(二八号別紙一)に関する史料も収められており、また五六号文書は、外交問題の検討が幕府内でいかに行なわれていたかを示す好史料である。
(目次一一頁、本文三六〇頁、図版一葉)
担当者 宮地正人・塚田孝

『東京大学史料編纂所報』第20号 p.61*-62