東京大学史料編纂所

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正倉院文書調査

 昭和五十八年度の正倉院文書調査は、十月十七日より二十二日までの六日間、例年の如く正倉院事務所(奈良市雑司町)に出張し、同修理室に於て原本調査を行なった。五十六年度より正集以下の既調査の諸巻の調査結果の整理を始め、正倉院文書の目録を、接続・表裏関係等に留意しつつ作成することとし、そのための作業を集中的に行なうことにした。目録原稿と原本との対校は、
 五十六年度
  正集 五・六・七・八・十・十三・十四・十五・十六・十八・二十六・二十七・二十八・二十九・三十・三十五・三十六・三十七・四十二・四十三
                                 (計二十巻)
 五十七年度
  正集 一・二・三・四・九・十二・二十二・二十三・二十四・二十五・三十四・四十・四十一
  続修 六・十・十一・十二
                          (計十七巻、累計三十七巻)
について行なってきたが、本年度は、
  正集 十一・十七・十九・二十・二十一・三十一・三十二・三十三・三十八・三十九・四十四・四十五
  続修 一・二・三・七・十三・十四・十六
                          (計十九巻、累計五十六巻)
について行なった。
○料紙の使用法による天平九年和泉監正税帳の復原
1 目録原稿の検討の際に、石上は、従来からの原本調査の成果に基づいて、正集十三巻・十四巻の天平九年和泉監正税帳の断簡配列の復原について再考してみた。その際に用いた方法は、五十七年度の「正倉院文書調査」(『東京大学史料編纂所報』十八号、採訪調査報告)の「料紙の使用法による天平二年越前国正税帳の復原」において提示したものである。その要点は、一つの公文書が同形同質の完形の一紙(縦二八〜二九�、横五五〜五八�。界幅約二�)を料紙として貼りついで成り立っているとすれば、断簡に残存する行数から欠失部分の行数を推計して、文書全体の行数・紙数によりその構成を推定することができるということである。ところが、その際に指摘した如く、正税帳には、文書作成時に料紙の一部を切り捨て、継ぎ直したりする場合がある。天平九年和泉監正税帳は、まさにその事例にあたる。
2 天平九年和泉監正税帳は、首部と三郡の全てが断簡を有しており、また官稲混合後で記載事項は多いが郡数が三で小容量の文書であるため、�料紙の使用法による公文書の復原�の事例研究の素材となる。本文書の断簡配列は、『大日本古文書』、井上薫「和泉監正税帳断簡の整理」・「和泉監正税帳の復原をめぐって」(『奈良朝仏教史の研究』)、薗田香融「和泉監正税帳について」(『日本古代財政史の研究』)の諸説がある。断簡は、『大日本古文書』の配列順にA〜Hの記号で表示する。A〜Hのそれぞれに含まれる断簡を�����で表示し、首部・三郡・尾部の記載中における断簡の位置を首・中・尾により示す。A〜Hの正集十三巻・十四巻における一、二……の位置は頒布写真の標定用丁付けによる。またそれらが『大日本古文書』に収載されている冊頁行を二—75—3の如く示す。なお、各断簡の首部・三郡・尾部への配属については井上薫氏の研究による。
 〔天平九年和泉監正税帳の断簡配列〕
A�� 首部中
  �正集十三巻表一、二—75—3〜75—5
  �正集十三巻表二、二—75—5〜78—1
B�� 首部中
  �正集十三巻表三、二—78—2〜78—6
  �正集十三巻表四、二—78—6〜79—1
C����� 大鳥郡中
  �正集十三巻表五、二—79—2〜79—11
  �正集十三巻表六、二—79—11〜80—12
  �正集十三巻表七、二—80—13〜81—10
  �正集十三巻表八、二—81—11〜83—1
  �正集十三巻表九、二—83—2〜83—6
D�� 和泉郡中
  �正集十三巻表十、二—83—7〜85—7
  �正集十三巻表十、二—85—7
E�� 和泉郡尾
  �正集十三巻表十一、二—85—8〜86—5
  �正集十三巻表十二、二—86—6〜88—1
F�� 日根郡首
  �正集十四巻表一、二—88—2
  �正集十四巻表二、二—88—3〜89—12
G�� 日根郡中
  �正集十四巻表三、二—90—1〜91—9
  �正集十四巻表四、二—91—10〜93—2
H���� 日根郡尾・尾部
  �正集十四巻表五、二—93—3〜94—7
  �正集十四巻表六、二—94—8〜95—13
  �正集十四巻表七、二—95—13〜96—13
  �正集十四巻表八、二—96—13〜97—7
img p.128a〜131a  各断簡の残存行数、左右の接続について次に述べよう。但し、裏文書、すなわち写経所文書の接続についてはここでは論じない。
A� 十五行。右端切断により第一行は半存。左端は継直し原継目(継目裏書「和泉監収納正税帳天平九年」、継目裏印「和泉監印」あり)でA�と接続。原形は、第二行から第十四行までの平均界幅が2・1�強なので、完形の料紙が二十六行を有していたとすれば、初行と最終行(2・7�)を入れて約56�の長さとなる。
A� 二十五行。左端切断により(裏に写経所継目はがしとり痕あり)第二十五行は半存。右端は継直し原継目でA�と接続。
A�とA�の継目 表の国印は三印影とも正しく捺されているが、継目裏印については、A�の方の印影の左半分は一重であるが、A�の方の印影の右半分が二重になり(外側の縦外郭線が第一次の捺印、内側の縦外郭線が第二次の捺印でA�の印影の左半分と続く)、かつ継目裏書もA�に残っていた右半分の残画からA�の方へ新たに筆をついだ状態になっており、明らかに正税帳作成段階で継ぎ直された原継目であることがわかる。すなわち、A�は、A�に相当する部分にあった料紙(原A�と称する)を継目からはがしとったあとに、新たに貼り継がれた料紙である。原A�とA�が同じ行数であったのかどうかはA�の右原継目が残っていないので不明である(前の推定によればA�は二十六行である)。A�の右端は、表裏ともに写経所継目はがしとり痕も存否が不明である。A�とA�の継ぎ直し原継目の状態は、表の国印の捺印は、継ぎ直しの後に行なわれたことを示している。A�の原形は、第二行から第二十四行の平均界幅2�強により、二十七行を有していたとすれば、初行(2.3�)と最終行を加えて長さ55�強となる。
B� 九行。右端は切断により第一行は微存(巾1.5�)。左端は継ぎ直し原継目(継目裏書あり。継目裏印はB�にのみ半存)により、B�と接続する。
B� 八行。右端は継ぎ直し原継目によりB�と接続する。左端は切断により第八行目は上半部のみ微存で墨痕は見えない(写経所継目はがしとり痕が裏にある)。
B�とB�の継目 表の国印の三個の印影は、B�の右半分の印影が二重で、縦外郭線は内側の方がB�の左半分の印影と合致する。また横界線は接続しない。継目裏印はB�に左半分の印影があるのみで、B�には印影がない。継目裏書は、B�に残っていた左半分の残画をもとにB�の方に筆をついで書き直している。よって、この継ぎ直しは、原B�をB�との継目からはがしとり、新たに現存するB�を貼り直したものであることがわかる。また、A�とA�の継ぎ直しは表に国印を捺する以前に行なわれたが、B�とB�の場合は国印が捺された後に行なわれたことがわかる。なお、B�、B�とも端を除く行の平均界幅は約2�なので、全体が二十八行とすると、完形の紙長が56�となる。
C� 十三行。右端は原継目(継目裏書、継目裏印半存)はがしとり(表に写経所継目はがしとり痕がある)。左端は第十四行の右界線左側2�のところで切断されており、裏に写経所継目はがしとり痕があり、C�と正集編成の際につき合せにより再接続されている。
C� 十五行。右端は第一行の右界線から2�のところで切断されており(表裏とも写経所継目痕は不明)、C�の第十四行目と合致し、正集編成の際にC�とつき合せにより再接続されている。左端は原継目(継目裏書(写経所で抹消)、継目裏印あり)でC�と接続する。
C�とC� つきあわせ接続により両端に原継目を持つ完形の一紙が復原される。この完形の一紙は大きさが縦28・5�、横上辺55・4�・横下辺56・0�(右端の糊代2�を含む)で、二十八行を有し、界幅平均は2・0�となる。
C� 十一行。右端は原継目(継目裏書、継目裏印あり)でC�と接続する。左端は第十一行目の右から約三分の二のところで切断され(表裏ともに写経所継目痕は不明)、C�とつきあわせにより正集編成の際に再接続させられている。
C� 十七行。右端は切断され写経所継目はがしとり痕があり、第一行目はC�第十一行目の左三分の一に当たるので、正集編成の際にC�とつき合せにより再接続させられている。左端は原継目(継目裏書、継目裏印あり)で、C�と接続する。
C�とC� つき合せ接続により両端に原継目を持つ完形の一紙が復原されている。この完形の一紙の大きさは、縦28・6�、横上辺56・3�、横下辺56・8�(右端の糊代2�含む)で二十八行を有し、平均界幅は2・0�である。
C� 六行。右端は原継目でC�に接続する。左端は切断され、裏に写経所継目はがしとり痕がある。第六行目は行の左端で切断されている。横12・8�。
D� 二十九行。右端は上半部は内側に斜に、下半部は垂直に切断されており、表に写経所継目はがしとり痕がある。下半部には右端から5�のところに界線があり、第一行は墨痕はないが微存している。左端は原継目(新白紙に半分隠されているが継目裏書、継目裏印あり—�に関しては後述)で、D�と接続する。この料紙は二十九行を有するが完形の一紙ではない。断簡の大きさは縦28・6�、横上辺51・6�・横下辺52・5�で、平均界幅1・9�弱である。右端は前紙との原継目から近いが、裏には継目裏印の右側の外郭線の印影はないので、継目裏印が前紙・後紙に左右均等に捺されていたとすれば右半分は約3�であるから、その印影が見えないということは、元来の料紙は切断された右端より更に約3�長かったと考えられ、料紙の長さは56�弱となり、元来は三十行を有したことになる。56�の紙長は他の完形の一紙の長さの例(C��。C��)と矛盾しない。
D� 一行。右端は原継目でD�と接続。左端は切断されており、長さは右端の糊代2�を入れて、0・5�である。よって第一行の右側が微存しているにすぎないが、上から三分の二のところに墨痕がある。頒布写真の標定用丁付はD�の存在を無視しているが、『大日本古文書』は八五頁七行目の下部にD�の第一行の存在を示す「[   ]」を記している。ところで、左端裏は、写経所継目がはがしとられた際に原継目の�の側の継目裏書もはがれたらしく、現在では継目裏書はみえない。また、D�とD�の継目の表は、D�とD�の横界線が、D�の界線を上にして上下に0・5�ほどずれていて、D�の横界線のための刀子によるアタリがD�の左端に打たれており、またD�の上から5本目の横界線のアタリも見える。継目の縦三箇の印影はD�D�にまたがるので、D�とD�は表に国印が捺される以前に継ぎ直し接続がされていたと考えられる。
E� 十三行。右端は切断され、第一行の右側が少し欠けており、写経所継目はがしとり痕が裏にある。左端はE�との原継目(継目裏書、継目裏印あり)の継目右側、すなわちE�の料紙の右端(糊代の右側)で切断され、E�とつきあわせにより再接続されている。なお、左端裏にも写経所継目はがしとり痕がある。E�の原形は、第二行から第十二行までの平均界幅2・4�弱と、最終行の第十三行の幅1・9�から、全体が二十四行で、最初の行の幅を約2�とすれば、全長約56�となる。よってE�の原形は二十四行と推定される。
E� 二十四行。右端はE�との原継目の継目右側で切断され、正集編成の際につき合せにより再接続されている。また右端には、3�の幅(E�の左端の糊代上側の部分)の原継目はがしとり痕があり、更にその上に写経所継目はがしとり痕がある。左端は切断されており、第二十四行が微存している。第二十四行の右界線は上から三分の二位のところまで残っている。また左端の表裏ともに写経所継目はがしとり痕はなく、裏には継目裏印の左端1�がある。この継目裏印は、F�の右端裏にある継面裏印の5�の印影の左側欠失部に相当し、かつE�とF�にまたがって「能登忍人  校紙三百七十六枚」(八—557—5)の記載があり、更に表側にも縦に並んだ三顆の国印がE�とF�で合致するので、E�左端とF�右端は欠失部なくつき合せにより再接続させることができる。井上薫氏の「(五)(E断簡—筆者)と(六)(F断簡—同)の間の切断部に記載はなく、両紙はすぐ連続する」(五九一頁)との指摘は、以上の観察により、料紙の使用方法の点からも支持される。
F� 一行。右端は切断により第一行の右側を僅かに欠き、写経所継目はがしとり痕は表裏ともになく、表文書も裏文書も内容がE�と続くので、E�とF�はつき合せにより再接続させることができる。左側は継直し原継目(継目裏書、継目裏印あり)でF�に接続する。継目は、公文書の継目の糊代は一般に2〜3�なのに、F�とF�の継目の糊代は5�あり、しかも継ぎ方がきたない。更に継目裏書(写経所により抹消されている)は、F�の方の文字の左半分とF�の方の文字の右半分にはずれがある。継目裏印はF�・F�にまたがって捺されており、捺し直されていない。
E�とF� E�とF�を合わせると、両端に原継目を有する完形の一紙となる。復原される料紙の大きさは、縦28・6�(E�左端は28・7�、F�右端は28・5�であるが、この差は測定の誤差であると共に、正集の装訂において巻が異なるために生じたものであろう)、横56・4�(E�は長さ2・8�。横上辺55・9�(右端糊代3�を含む)、横下辺56・9�(同上))で、二十四行を有する。一行の幅は第一行が3・7�、第二十四行が2・8�であるので、中間二十三行は平均界幅2・3�弱となる。これは、C�・C�の完形の料紙の二十八行、C�・C�の完形の料紙の三十行と相違している。E�とF�が切断されたのは、正集編成の際で、十三巻と十四巻の分量を調整するためであった。F�左端の縦に三顆並んだ国印の印影の下二つの左外郭線はわずかにF�にもかかっているから、F�がF�に継直されたのは、表への国印の捺印より以前の段階である。ところが、F�とF�の継目裏印には捺し直しがない点が通例の継直しの場合と異なる。F�とF�の継目については横界線が完全に連続するかどうかを含めてなお観察を詳細に行なわねばならないが、一つの可能性として、継目裏書が書かれた後、継目裏印が捺される以前に継目がはがれたので継直したことが考えられる。そのために継目裏書のずれと継目のきたなさが生じたのである。よって、この継直し原継目は表への本文未記入の段階で生じたものであり、他の本文記入後の継直しの例の如き本文の改ざんを目的とするものではなかったと考えられる。
F� 二十三行。右端は継直し原継目でF�と接続している。左端は切断され、裏に写経所継目はがしとり痕はなく、新白紙の下に、3�幅の原継目はがしとり痕があり、写経所により抹消された継目裏書の左半分が残っており、継目裏印の左半分の印影も上辺2・4�、下辺2・5�の大きさで正立して残っている。この原継目はG�とのものである。G�右端裏には新白紙の下に継目裏書の右端の残画があり、かつ継目裏印の右半分の印影が二重に捺されている。F�の継目裏印の印影は上辺から10・3�のところにあり、G�の継目裏印の二つの印影の上辺左端も上辺から10・3�のところにある。G�継目裏印印影は、右外郭線が外側の方の印影が、上辺3・5�、下辺3・2�で右傾し、同じく内側の方の印影が、上辺3・0�、下辺3・1�で正立している。したがって、F�の継目裏印印影は、G�の継目裏印の内側の印影と合致する(後述)。したがって、この継目は継直し原継目である。E�とE�F�は、継目が継直されていないから、F�・F�E�・E�と貼り継がれていた三紙以上に相当する料紙が廃棄されて、現在のF�・F�E�・E�の料紙を継ぎ直したものであることがわかる。F�とG�の接続については、岸俊男氏の「内容上(六)(F—筆者)と(七)(G—同)が直接するとされたが、私がマイクロフィルムによって紙幅・国印の状態を検するに、どうもその間になお欠行があるように思われる」(『史学雑誌』七二編一〇号)との意見もあるが、F�とG�は継直しであるから、G�の右端に縦に三顆並んだ国印の印影が左三分の一しかなく、F�の左端に縦に三顆並んだ印影が完形であることは、原継目であることを妨げない。
G� 二十四行。右端は切断されているが、F�との継ぎ直し原継目の痕がある。右端には第四横界線と第六横界線のところに前紙の横界線の墨痕があるが、F�のそれらと一致せず、原F�のものであることがわかる。また、右端には1・5�幅の糊痕があるようであるが、その性格は不明である。左端は原継目(継目裏書、継目裏印あり)でG�と接続する。
F�とG� F�とG�は元来、継直し原継目を有して接続していたのであるが、現在は切断されている。裏文書はG�が八—五五三—四〜五五五—二で、F�が八—五五五—三〜五五七—四で、内容に欠失なく接続し、表文書も内容に欠失なく接続する。しかし、第二次の継目裏印であるF�の左半の印影と、G�の右半の内側の印影の横長は、合計、上辺5・4�・下辺5・6�で、両紙の間には上辺で5〜6�、下辺で2〜3�の欠失が存在すると考えられる。この欠失は、F�左端裏にはG�との継直し原継目のはがしとり痕があり、F�は完形の一紙であったことがわかるから、G�の方に生じているものであることがわかる。この欠失は、写経所で生じたものではないと考えられる。完形の一紙としてのF�の大きさは、縦28・5�、横55・6�(上辺55・4�、下辺55・8�で右糊代5�を含む)で、二十三行を有する。第一行は幅2・6�、第二十三行は幅2・8�で、中間二十一行の平均界幅は2・4�となる。G�は、右端の欠失分を入れると約57�となり、二十四行を有する。第一行が欠失分を入れて約2・5�、第二十四行が2・9�で、中間二十二行の平均界幅は2・3�強となる。
G� 二十四行。右端は原継目でG�と接続している。左端は、裏に原継目(幅3�)はがしとり痕が存し、継目裏印の左半部の印影がある。継目裏書の左半分の残画はよくわからないが、その理由は、次に述べる如く写経所でH�と貼り継がれた際に糊代となり、再度正集編成の際にはがしとられたために、残画が消えたことによるのであろう。また左端裏には写経所継目はがしとり痕があり、これはH1右端表にある写経所継目はがしとり痕と合致する。内容上もH�裏文書とG�裏文書は直接に続く。G�は左右に原継目を有する完形の一紙であり、大きさは、縦28・6�、横56・7�(上辺56・5�、下辺56・9�、右端糊代3�を含む)で、二十四行を有する。
H� 十八行。右端は切断されており、 第一行は微存し、 下半部に「大領日根造□〓一斛九斗」と残画がある。右端表には写経所継目はがしとり痕があり、G�左端裏の写経所継目はがしとり痕と合致する。左端は原継目(継目裏書、継目裏印あり)でH�と接続している。原継目右側の第十八行は界幅4�である。第二行より第十七行までの平均界幅は2・3�弱である。完形の一紙を復原すると、中間二十二行(2・3�×22行)と左端の最終行(4�)で合計53・7�となり右端の第一行を2�強とすれば、全長約56�となるから、H�を含む元来の完形の一紙は二十四行を有していたと判断してよい。
H� 二十行。右端は原継目でH�と接続している。左端は継ぎ直し原継目(継目裏書、継目裏印あり)でH�と接続している。H�とH�の継目は表の国印は連続する。左端は第二十一行目の右界線から約4�のところで切断されており、切断線上に三箇の墨痕がある(H�の「定」・「穀」・「天」の右側に相当する)。第一行は幅2�、第二十一行残存部分0・4�であり、残存紙長は46・5�(右端糊代3�を含む)だから、中間十九行の平均界幅2・3�となる。完形の一紙が全二十四行であったとすると、中間二十二行分が50・7�となり、第二十四行を幅3�とすれば、全長約56�となって、他の完形の一紙の大きさと矛盾しない。すなわち、H�は左端約10�が切除されているのである。
H� 十六行。右端は継直し原継目でH�と接続している。左端は継直し原継目(継目裏書、継目裏印あり)でH�と接続している。左端は第十七行の右界線より3�弱のところで切断されており、切断線上には四箇(H�の「税」・「百」・「天」・「正」の右側に相当する)の墨痕がある。H�とH�の表の国印は継目で連続している。ところで、右端は第一行の中央に横界線の刀子によるアタリがあり、第一横界線及び第七横界線(地の界線)の右端には前紙から延びてきた横界線の墨痕がある。ところが、このうち第七横界線の墨痕は、H�の横界線と約2�のズレがあり合わない。この墨痕がH�の切除部を介してH�の横界線に通じるものであるかどうかは問題がある。また右端にはアタリがあり、前紙から延びてきた横界線の墨痕があるから料紙の元来の右端であることは明かであるのに、H�との継目裏書の書き直しや継目裏印の捺し直しの痕がない。H�が完形であった時にH�と接続していたとすると、H�が完形であったときの左端に存在したであろう継目裏書・継目裏印に対応するそれらの右半部がH�右端裏にも存在するはずであるが、存在しない事実は、H�の元来の前紙はH�ではなく、かつH�と前紙は貼り継がれてはいたが継目裏書も書かれず継目裏印も捺されていなかったことを示している。すなわち、H�は正税帳の貼り継がれた料紙と同規格で界線もほぼ同様に施され貼り継がれた料紙—おそらく予備の料紙—を切りとってきて貼り継いだものであろう。H�が完形だったときの長さは、第一行の幅が2・2�(左端糊代3�を含む)で、第二行から第十六行までの平均界幅が2・2�弱なので、全体が二十五行として、第二十五行が約3�とすると、全長約56�弱(H�約35�・左切除部約21�)となり、他の完形の一紙の長さと合う。
H� 二十二行。右端は継直し原継目でH�に接続している。左端は切断され裏に写経所継目はがしとり痕がある。右端は第一行が1�弱の幅で微存しており、切断されていることがわかる。しかし、H�とH�の継目は、表の国印も連続し、継目裏書の書き直しや継目裏印の捺し直しもない。H�は墨付は巻末の第九行までで、以下は界線はあるが余白となっている。第二行から第十九行までの平均界幅は2・1�強であるから、完形の一紙は第一行と最終行が約3�で全体が二十五行であったとすると、長さは55�強となり、他の完形の一紙の長さと一致する。二十五の行数はH�の原形と同じである。H�は原形より右端が二行(微存する第一行を入れて二行分)切断されていれば、H�の原形の右端と前紙の継目裏印はH�の残存部分に残らないはずである。とすると、軸付けされていた左端は、四行弱(第二十一行は約3�残存する)切断されたことになる。四行分は約9�で、軸径が1�なら軸付の糊代は三行分の長さとなる。なお、天平二年越前国正税帳の軸付は二行分である。
 以上、やや繁雑となり、また観察の不十分な点もあったが、A〜Hまでの断簡を正税帳の構成に従って配列すると〔天平九年和泉監正税帳断簡配列復原図〕の如くなる。紙数の都合で、欠失部分の行数の推定の根拠は示しえないが、井上氏・薗田氏の推定した欠失項目に各項目の所要行数をかけて、各欠失部分の行数を推定した。これにより、料紙1の首部首に若干行数の余りがある(但し巻首なので行の使い方は本文中と別なものがあろう)場合を除いて、他は総てきっちりと納まったことを述べておきたい。かくして、料紙の使用法による公文書の復原の方法は、�虫喰算�(薗田氏の表現)的復原方法と共に、本文書の場合も有効性を持つことを示しえた。しかしなお、精密観察にまたねばならない点も存する。
                  (皆川完一・石上英一・石井正敏・加藤友康)


『東京大学史料編纂所報』第19号p.126