東京大学史料編纂所

HOME > 編纂・研究・公開 > 所報 > 『東京大学史料編纂所報』第19号(1984年)

所報―刊行物紹介

大日本史料 第九編之十七

 本冊には後柏原天皇大永二年十月より十二月まで、および同年の年末雑載(天文・災異、神社、仏寺)を収める。
 朝廷では、十月十日、皇太子知仁親王(後の後奈良天皇)の妃で方仁親王(後の正親町天皇)の御生母贈皇太后萬里小路栄子が薨じた。栄子は萬里小路賢房の女。三条西実隆にもたらされたたより(実隆公記紙背文書)によれば、十四日に葬儀が執り行なわれた。実隆はその後も正忌毎に経を送り弔問している。
 十一月十二日には上野茂林寺、下野本光寺が同時に勅願寺とされた。両寺に同日付の綸旨が残されているのは珍らしい。文書様式で例が少ないといえば、十一月三十日条に収めた結城義綱の任左兵衛佐の足利義晴袖判口宣案(近津文書)もその一つであろう。袖判の意味について、相田二郎氏は、将軍の吹挙があったことを示すもので武家に下した口宣案に特有なもの、と説明されているが(『日本の古文書』上、二五一頁)、ここでは「御湯殿上日記」によりその間の事情が示されている、
 武家では、前年春京都を出奔し、淡路に居を構えた足利義稙の下知状(大徳寺文書)が十月二十八日条に収められている。義稙発給文書の事例は少なく、この時期の政治情勢を考える材料として貴重である。十一月三日には、近江保坂関をめぐる相論に再び奉行人奉書が出された(朽木家古文書)。本年五月に引続くものであるが、五月二十八日条の連絡按文(九之十六、一三一頁)は本日条に合わせて訂正されなければならないものであることを付言しておきたい。
 義絶状態にあった京都本国寺と関東にある日朗門流の日蓮宗諸寺が和談したことを伝える十二月二十四日の記事は、京都における日蓮宗門徒の勢力が増大し、関東の諸寺にとって無視しえなくなったことを推測させ、大永三年八月七日本国寺が勅願寺にされることと併せて、いわゆる「天文法華の乱」の前史として見逃しえない。禅宗関係では、十月二十五日条に前大徳寺住持�林宗棟の死歿および伝記記事を頂相(カラー)・自筆書状の図版と共に収めた。
 是歳条に拓本の図版と共に収載した琉球国王尚真の碑文(2点)は、極く初期の琉球関係の文献史料であるばかりでなく、中世琉球語の資料としても著名なものである。また、朝鮮との通交拡大を求める使節として派遣された僧大原らの動きを伝えた「中宗大王実録」は、当時の外交交渉の実態、朝鮮側の対応を詳細に記している。なお、この項については古代史料部石井正敏の協力を得て作業を進めた。
 年末雑載では、「神社」の項では南都春日大社の、「仏寺」の項では興福寺の神事・仏事を「春日社司祐維記」「経尋記」などによって分類収載している。
(目次八頁、本文四五〇頁、挿入図版三葉)
担当者 桑山浩然・永村眞


『東京大学史料編纂所報』第19号p.51