大日本近世史料「幕府書物方日記」十六

本冊には、内閣文庫所蔵の『書物方日記』十八(元文五年正月から六月まで)、十九(同年七月から十二月まで)、二十(寛保元年正月から六月まで)、二十一(同年七月から十二月まで)の四冊、計ニケ年分を収めた。
 書物奉行五名のうち奈佐勝英が元文五年八月四日、裏門切手番之頭に転出し、九月十六日後任に小田切昌倫が小普請より補充された。跡後任命が下達されると、即日詰番の奉行桂山義樹は月番老中・本丸支配方全員に御礼を言上し、小田切は、翌日の初出勤の時に側衆・小姓・小納戸頭取らに引きあわされ、翌十八日には誓詞願書・同証文願書を坊主久覚を通して若年寄に提出する。そして、御門印鑑を調え、会所に行き同心に引きあわされる。それから、しばらく見習詰番を同役と勤め(二十一日、二十三日、二十四日、二十九日、十月朔日)、十月三日よりに詰番本役を勤めるが、指導のため先任の奉行が加出し、一人で詰番を勤めるのは十月二十四日からであった。次に同心の移動については、元文五年十月二十四日書物方同心世話役の杉山平左衛門が病死し、既に同心勤務の実子の半次郎が遺跡を継ぎ、半次郎の切米等は返上した。寛保元年五月二十九日に至って、御先手栗原仁右衛門組同心の川出清太夫をその明跡に補充した。なお、奈佐勝英の次男や小沢与四右衛門の母など近親者の病死が目立った両年であった。
 奉行の公務については、里歩の事につき、元文五年二月朔日に吉宗より下問あり、桂山義樹が中心となって、考工記述註等、あるいは府志・県志の類、杜氏通典等々を検索し、三月二十三日まで考察するが、ついに典拠とすべき書が見当たらず一応中止する。また、日次記の吟味、諸家書付の吟味等の作業も命ぜられており、深見有隣などは校合のため「楽書」などを自宅に下げられて作業をしている。
 御蔵本の補充については、木津屋吉兵衛の持参した書目録を検討し、「御用ニ立可申品」として『類聚國史』八一冊等四部三一八冊を選定した。重複本の整理も行われ、「御元服記」「三河記」「関ケ原始末記」等の二部以上あるものは、その書物柄等を見合せて取払うこととした。
 このように書物奉行や同心の職務はかなりの専門的知識が要求され、同時に書物の出納等も行っていたのであるから適任者をこれにあてないと業務がスムーズに遂行できたかったと思われる。また、将軍吉宗は、五十六歳という高齢であるにもかかわらず、かなりの書物を上呈させ、里歩の件につき下問したり、諸家書付の吟味に注文をつけたりしてその好学ぶりを発揮している。
 最後に、流行の社会史的記述について言及すれば、奈佐勝英の次男が重病のため、医者が「正真之牛肉」を用いてみたいが「世上之牛肉真偽無心元」と言うので、勝英が拝領願を提出して乾牛肉五十目を下された、という記事がある(元文五年四月十九日)。結局、その薬効なく四月二十七日に彼は病死するが、江戸市中に出廻る「牛肉」の実態と幕府での牛肉の保有について知見を与えてくれる。
 巻末には、人名一覧と書名一覧を付した。人名一覧については本冊より五十音順として検索を便ならしめ、初出の年月日を氏名の下に記した。
(例言一頁、目次三頁、本文三八二頁、人名一覧三五頁、書名一覧二七頁)
担当者 山本武夫・山本博文

『東京大学史料編纂所報』第19号 p.53**-54