東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

日本関係海外史料 オランダ商館長日記 原文編之五

 本冊は、オランダ商館長日記原文編の五冊目に当り、原文編之五(自寛永十八年正月、至同年九月 Original Text, Selection I, Volume V. Februarius 14-October 31, 1641)として、商館長マクシミリアーン・ル・メール(Maximiliaen Le Maire, ?-1673)の一六四一年二月十四日(寛永十八年正月五日)の平戸に於ける就任から、同年六月二十五日(五月十七日)の長崎への商館移転を経て、同年十月三十一日(九月二十七日)に及ぶ八箇月半に亘る公務日記の翻刻である。その前半には、商館長の江戸参府中、平戸での出来事を記した上級商務員ヤン・ファン・エルセラック(Jan van Elseracq)の一六四一年三月十七日(二月六日)から六月八日(四月三十日)に及ぶ留守日記が含まれる。日記の解読の参考に供するため、附録として、ル・メールの前任者フランソワ・カロン(François Caron, ca. 1600-1673)が離任に当って商館残留者たちに与えた訓令(一六四一年二月〔十〕日作成)と、カロンのバタフィア帰着後に総督アントニオ・ファン・ディーメン(Antonio van Diemen)他がル・メールに与えた書翰二通(一六四一年三月十六日及び六月二十六日附)とを収めた。
 本冊では、さきに大目付井上政重が平戸で発した商館長一年交代令により平戸を去るカロンを見送ったル・メールが、同じ井上の命による平戸商館の破却を続行する一方、長崎奉行柘植正時の命により、次席者エルセラックを代参させる予定を変更して自ら江戸参府に旅立ったところ、江戸では友好的な年寄牧野信成や松浦家江戸詰南総右衛門の執成しにもかかわらず三代将軍家光の謁見はなく、寛永十八年四月朔日酒井忠勝以下年寄衆の代謁の場で、商館の長崎移転とポルトガル船舶の攻撃を命ぜられる事情、松浦鎮信の出府と入れ替りに平戸帰着後ル・メールが松浦家奉行人らと長崎奉行の指導のもとに直ちに移転の準備に取掛り、さきにポルトガル人囚禁のため長崎港内に作られた築島(のちの出島)の賃貸契約及び七棟の家屋と八棟の倉庫の内必要部分の改装、六月十二日より同二十四日に及ぶ八回及びその後十数回に及ぶ舟便による商館資産の移転、平戸における残務整理と年内来航オランダ船舶への通信手段の手配に奔走した事情、次いで、新任の長崎奉行馬場利重と大目付井上政重が相ついで下向してキリスト教的行事の禁止、輸入生糸のパンカド仕法の継続、日本人使用人の解雇などを命じ、島の門前に制札を立てるとともに、オランダ船舶の今後毎年長崎来航のことを安堵し、前任奉行と大目付の江戸への退去を待ってエルセラックに商館長の任務が引継がれる事情など、鎖国完成期の日蘭関係の矢つぎ早の経過を辿ることができる。このほか、本冊には、松浦氏の江戸人質交代制、寛永十八年正月十三日及び二十四日の江戸・平戸の大火、海外在住日本人の故国への音信の処置、オランダ人船員の水葬、幕府の倹約令の発布と効果、来航四隻のうち最後のオランダ船による上級商務員カレル・ハルツィンク(Carel Hartsincq)の第三回東京航海からの帰着、長崎代官末次の湯治、築島商館での盗難なと、さまざまの史実も見え、家光治世の政情・世相の一端をかいまみることができる。
 日記本文の翻刻に用いた底本は、オランダ国立中央文書館(ARA=Algemeen Rijksarchief, Den Haag)所蔵の
Vervolg van 't Dagregister des comptoirs Firando ende Nangasaque, gehouden bij E. Maximiliaen Le Maire, oppercoopman ende opperhoofd over 's Compes. ommeslach in Japan naer 't vertreck van de E. heer president Franchois Caron 't sedert 14 Februarij passado tot ulto. October Ao. 1641.
と題する写本で、原文編之四に用いたカロン日記の写本と同じ簿冊中に収められ、四六葉から成り、ARAの旧整理番号ではKA第一一六八六号、新番号ではNFJ第五五号、本所所蔵マイクロフィルム六九九八−一−三−一一、焼付本七五九八−一−一四に当る。この日記の自筆原本及び他の伝写本は今伝わらない。この写本には著者・筆写者・校合者の署名がない一方、後年の欄外摘記が随所にあるが、これは翻刻に当り無視した。
 附録の一は、
Instructie voor den E. Maximiliaen Le Maire, provisioneel opperhooft ende presiderend oppercoopman, den oppercoopman Sr. Jan van Elseracq, mitsgaders de verdere raetspersoonen des comptoirs Firando, volgens welcke hun nae 't vertrecq van de E. president François Caron sullen hebben te reguleren. Actum den [10] Februarij 1641.
と題する訓令原本で、一九〇四年四月二十九日パリの競売でARAが入手し、第一部門追加文書(Aanwinsten, Eerste Afdeling, Jaar 1904, No. LXI, 13)として架蔵する四葉の文書で、前後数か月分の他の受信文書、発信文書控とともに平戸・長崎の商館帳簿に登載される以前に散佚したものと覚しく、日本商館文書(NFJ)にも東インド会社文書(VOC)にもその写本が残らない。発信日付の一部が損傷しているが、カロンの日記に照して補入した。
 附録の二は、カロン時代からル・メール時代に及ぶが、中間の一六四〇年十月から四一年四月までの記載を闕く単一の平戸・長崎オランダ商館受信書翰控薄Kopie-Boek van missiven ontvangen door het opperhoofd van de Nederlandsche Kantoren in Japan, 1639 tot 1641. (ARA所蔵、KA第一一六八六号、NFJ第二七八号、本所マイクロフィルム六九九八−一−三−九、焼付本七五九八−八−一六)に含まれる、
Copie missiven Gouverneur-Generael Antonio van Diemen, enz., aen oppercoopman Maximiliaen Le Maire. Batavia, adij 16. Maeij en.26 Junij anno 1641.
で、この二通は、上記の簿冊の後半“Vervolch van de Missiven geduurende de directie van den E. Maximiliaen Le Maire, oppercoopman ende opperhooft deser comptoirs 't sedert den 13en. april Ao. 1641 tot dato 8en. augusto daerenvolgende ontvangen."の第七四葉裏より第七七葉表、及び第八七葉裏より第九三葉表に写し取られている。この二通の書翰の原本は伝わらないが、当然のことながら、その発信控簿(Batavia's Uitgaand Briefboek, Jaar 1641. KA. 768; VOC. 865. 本所マイクロフィルム六九九八−二三−一一三−二、焼付本未作成)があるので、翻刻に当ってはこれと照合し、主な対校結果をBUBと略記して脚注に明示した。
 口絵には、日記の第一葉がカロン日記の末尾の対向頁に当ることを示す図と、附録一・二の部分図と、アムステルダム到着文書集(Overgekomen Brieven Amsterdam, Jaer 1644: Boek III, FFF-3; KA. 1053; VOC. 1145)所収の一六四二年七月十五日附の訓令原本(本所マイクロフィルム六九九八−五−七−四、焼付本七五九八−六〇−四二a)から採ったル・メールの自署部分の図を掲げた。
 本冊の翻刻に当っては原本所蔵者たるARAの承認を得た。日記本文は、元日本学士院事務長庄司三男氏の翻字による元所員松崎桂子の印字本につき、ライデン大学講師、一九八一年度本所外国人研究員J・L・ブリュツセイ氏(Drs. Johan Leonard Blussé van Out-Albras)の校閲を経た原稿を元に編集し、附録一は、ARA第一部次長で一九七五年度本所外国人研究員M・E・ファン・オプスタル博士(Dr. Margaretha Elizabeth van Opstall)の提供した翻字原稿を参考として翻字した。本冊の編集・校訂・序説執筆・索引作成は金井が担当した。なお本冊の訳文編は上・下分冊をしない予定である。
(目次一頁、序説・例言九頁、図版二頁、本文二三六頁、索引三七頁、原文編之四正誤表四頁)
担当者 金井圓


『東京大学史料編纂所報』第19号p.57