大日本維新史料類纂之部「井伊家史料」十三

第十三巻は、(1)安政五年十一月十二日より同年十二月四日迄の長野主膳・宇津木六之丞往復書翰を軸とする朝幕交渉関係史料、(2)安政五年十一月の京都町奉行による僧月照の行衛探索書、幕府徒目付等が行なった水戸藩関係者を含む反井伊派と目される者及び奏者番・雁之間席大名に対する探索報告書、(3)同時期のその他の幕政関係史料という三種類の史料群が収録されており、他に補遺一点を収める。
 この期の朝幕交渉は、十一月八日に出された孝明天皇の条約締結全面否定の強硬な勅書への対応として展開する。十一月四日には「少々ハ、(孝明天皇の−引用者註)御趣意も相立候様」(二四号所収)と言っていた関白九条尚忠も、八日の勅書に接して、天皇は「只々小児之だゝけるト同様」であるとして、幕府よりの使者老中間部詮勝が断固たる返答をすることが肝要だ(二三号所収)という態度に変わる。尊敬しすぎると、春に使として上京した堀田正睦同様の目にあうと言うのである。この勅書への対策は、関白九条、間部詮勝、長野主膳、島田左近等の連携の中で練られていく。そこでは、(1)すでに締結した仮条約の全面否定は「戦争御好」みも同然たること、(2)これまで様々な讒奏を行なってきた悪謀の連中を厳しく吟味せざるをえないこと(二号)の二点を基本に強硬な勅答が作られていく。こうした事態を、長野は十二日付宇津木宛書状(二号)で「又々相場之大狂ひ」ととまどいながらも、気をとりなおして、今度の勅書は内容があまりに極端なため、かえって断固たる返答を行ないやすく、今後の「治道之初」となるであろうと書き送っている。一方、こうした相談から全く疎外されていた京都所司代酒井忠義は、十二日独自に朝廷と幕府の間の「御折レ合」の必要なことを大老・老中宛に進言する(一号)が、反対に老中から叱責され、(四一号)、徐々に態度を変えていくこととなる。
 間部の勅答は、所司代酒井を通じて十七日に関白に提出されたが、ちょうどこの勅答作成期と重なる時期にもう一つの重大問題が発生した。すなわち、徳川家茂の将軍宣下伝達の勅使とともに江戸へ下向する権大納言二条斉敬が条約問題の勅書を持下り、井伊直弼と直談判するという問題である。十一月十一日を発端に、幾転変の後結局十五日に二条は直談判することを任されて京都を発足した(一四号)。長野は、この問題を、二条と左大臣近衛忠熈・前内大臣三条実万が相談の上、上京中の間部詮勝を出しぬいて幕府と直接交渉することで事態の打開を計ろうとする姦計であると推測している。彼は、十五日この認識に基づき、かつ関白九条の発意によりつつ、江戸では二条との直接交渉には一切応ぜず、全ては条約問題に関する使者として上京している間部と交渉するよう返答すべき旨(一一号)を宇津木に書き送る。江戸に着いた二条は、十一月晦日、井伊に会見を申し入れる(三八号)が、打ち合せ通り、井伊は十二月四日にそれを拒否する(四六号)のである。
 さて、先に関白に提出された間部の勅答は、二十三日にいたり、関白より孝明天皇に披露される。これを見て、天皇は「間部腹一ハイ書候と被仰」、やっと納得したらしく九条に対しても「目出度御詞」をかけられたのである(三七号)。これで、八日の勅書への対応の第一段階は終る。しかし、再びこのような事態の発生を防ぐため、反対派=「悪謀方」への徹底的弾圧=「厳敷吟味」が課題となる。十一月二十四日には、間部から、鵜飼父子関係吟味探索書(二八号所収)、三国大学吟味書(二九号所収)、月照行衛探索書(四八号)等が江戸へ送られ、また、十一月二十六日からは、渡辺金三郎・加納繁三郎両人に「小林・鵜飼其外」に対し「改而十分ニ吟味いたし候様」(三六号)命ぜられる。長野の宇津木宛書状にも吟味関係の記述が増してくることとなる。安政の大獄の本格化である。
 本巻には、以上のような経緯の他、長野が京都町奉行の尋問に対する自らの行動について答えた弁明書の数次にわたる草稿を収める(三七号)。また、江戸七組肴問屋歎願書(六一号・六二号)は社会史の史料としても興味深いものである。
(目次一二頁、本文三三三頁、図版一葉)
担当者 宮地正人・塚田孝

『東京大学史料編纂所報』第18号 p.70*-71