大日本史料第十一編之十七

本冊には、天正十三年(一五八五)七月五日から同年七月是月までの史料が収載されている。
 本冊においては、豊臣秀吉の統一政権確立にあたって重要な二つの事項が収められている。一つは秀吉の関白就任であり、もう一つは全国統一事業の一環としての四国の長宗我部元親征討である。
 まず関白任官問題では、関白二条昭実を従一位とし(十日条)、ついで昭実に替て秀吉を関白とした(十一日条)。秀吉の関白就任は、近衛信輔と二条昭実との間に起きた関白職相論の間隙を巧みに突いたものであるが、相論の経緯は「近衛文書」によって知られる。また秀吉は関白就任に際し、五摂家への慰撫策として所領を加増しており(十八日条)、昭実の弟三宝院義演は准三宮の宣下をうけている(十二日条)。関白となった秀吉は、さっそく親王准后間の座次相論を裁決しているのが注目される(十五日条)。
 四国征討については、羽柴秀長の懇望により秀吉は自らの出馬を再度延期し(六日条)、毛利勢は小早川隆景・吉川元長に率いられて伊予に上陸し、長宗我部勢の拠点であった高尾城を攻め落して伊予をほぼ平定した(十七日条)。一方阿波に上陸した秀長・秀次の勢は、木津・牛岐両城を攻略した後、讃岐に上陸した宇喜多秀家の勢と合体して一宮・脇両城を攻囲し(十九日条)、元親の降伏も間近かとなった。
 四国征討と同時に進行していった北国の佐々成政征討については、徳川家康の斡旋により和議が成立したかと思われたが(八日条)、結局出兵に決し、秀吉は前田利家に先備の目録を交付し(十七日条)、越中の勝興寺・瑞泉寺に従軍を命じた(二十七日条)。北国では越中阿尾城の菊池武勝が利家に降り、利家は武勝に誓書を与えた(二十八日条)。
 秀吉の対寺社政策としては、安土宗論に敗れて以来禁圧されていた日蓮宗の復興を許したことがあげられる(十二日条)。
 地方の動向では、信濃上田の真田昌幸が徳川氏とはなれて上杉氏と結び、景勝が昌幸に誓書を与えている(十五日条)のが重要であろう。また北条氏直は松本兵部丞に馬匹取扱の定書を交付し(十一日条)、肥前の横岳家と対馬の宗氏との間に、対馬太平寺の石塔造立をめぐって交流が見られ(六日条)、島津義久は琉球国王尚永に返書している(十八日条)。
 死没者としては、毛利勢に攻められて戦死した伊予高尾城の守将金子元宅(十七日条)、島津氏薩州家の第六代当主島津義虎(二十五日条)があり、それぞれ伝記史料を収めている。
(目次九頁、本文四二三頁、補遺三頁、欧文目次二頁、欧文本文二一頁、挿入図版一葉)
担当者 岩沢愿彦・酒井信彦・湯沢典子
欧文担当者 金井圓・加藤榮一・五野井隆史

『東京大学史料編纂所報』第17号 p.41*-42