大日本史料第十編之十七

本冊には、正親町天皇天正元年(一五七三)八月一日から、同月是月までの史料を収めている。
まず、この期間の中央の主要な政治情勢としては、織田信長による越前の朝倉近江の浅井両氏の滅亡があり、本冊の大部分がこの関係史料で占められている。すでに、室町幕府は滅び、元亀も天正と改元されて、織田政権は新しい出発を迎えているが、両氏の滅亡によって、同政権は一層の飛躍をみるのである。信長によって京都を追放された足利義昭は、河内若江で再起を図り(八月一日条)、本願寺光佐に三好義継・同康長・遊佐信教らの和睦を命じて画策するが(二十日条)、最早、昔日の面影はない。一方、信長は、長岡(細川)藤孝らに命じて義昭の残党山城淀城の石成友通を討つと(二日条)、浅井長政の将阿閉貞征の内応を容れて、岐阜から近江に出陣し(十日条)、貞征と同様に信長に与した浅見対馬守の嚮導により、長政の援軍のため在陣していた朝倉義景を、同国田上山から逐い、義景の党前美濃守護斎藤竜興らを斬って、越前敦賀に進軍した(十三日条)。更に、同国府中竜門寺に本陣を移した信長は、兵を遣して、同国一乗谷から山田荘賢松寺に遁れた義景を滅ぼすと(二十日条)、直ちに兵を旋して近江小谷城を攻め、浅井久政・長政父子を自殺させ宿願を果した(二十七日条)。このような情勢の中で、特に朝倉氏の伝記史料の蒐集にあたっては、昭和四十七年度以来継続されている福井県下の史料採訪の成果を取り入れると共に、戦国大名の遺跡として著名な現在発掘中の朝倉氏の遺跡についても、越藩拾遺録・官報等で概要を掲げた。なお、朝倉氏遺跡調査研究所の報告書を併せて参照いただければ、幸甚である。
 次に、地方の政治情勢で注目されるのは、徳川家康の活動である。家康は、前年十二月、遠江三方原で武田信玄に敗北して以来、非常な苦境にあったが、よく形勢を立直し、信玄の子勝頼に背いた三河作手城の奥平貞能・信昌父子と盟約することができた(二十日条)。この一件は、のち家康が、同国長篠で勝頼から勝利を得る重要な布石となるのである。なお、信玄の歿後にも拘らわず、武田氏の分国経営についての史料は、相変わらず豊富である(十三日・十四日・十九日・二十七日条)。また、義昭に背いて信長に与した恩賞によって、信長から山城西岡を宛行われた長岡藤孝は、青竜寺城を居城として、領内経営に着手している(二日条)。これと関連して、藤孝の組下となった革嶋氏一族の動静なども、注意されてよいであろう(二十六日条)。
 なお、本冊に収録した死歿・伝記史料には、前述の石成友通(二日条)・斎藤竜興(十三日条)・朝倉義景(二十日条)・浅井久政・同長政(二十七日条)のほかに、権中納言正三位万里小路輔房(五日条)がある。
 終りに、本冊の図版三葉は、原色版で収録できた。所蔵者の心月寺(朝倉義景画像)・高野山持明院(浅井久政・同長政画像)の御好意に謝意を表する次第である。
(目次七頁、本文三五一頁、挿入図版四葉)
担当者 菊地勇次郎・染谷光廣

『東京大学史料編纂所報』第17号 p.40**-41