大日本史料第三編之二十

本冊には、鳥羽天皇元永元年(一一一八)五月から十一月までの史料、及び陽明文庫本中右記寛治六年(一〇九二)十月から十二月の記事を中心として作成した補遺を収める。
 この間、朝廷に於いては、新御願最勝寺の造作が、地鎮(六月二十二日条)、上棟(七月二十三日条)と進み、次冊の十二月十七日落慶供養を迎える運びとなったこと以外はさしたる大事は見られない。
 白河法皇は三年連続の熊野詣(閏九月七日出立、二十二日一切経供養、十月四日還幸)をはじめ、白河新造北殿への移徙(七月十日条)、京御所・鳥羽殿等への度々の御幸、阿波仁和寺宮領等の権門所領の紛議への関与(七月二十五日・八月十一日・九月一日条)等政局の中心として活発な活動を行なっている。
 関白藤原忠実については、その記録殿暦が六月まで欠失しており、その後の記事も比重は政治から、男内大臣忠通の民部卿藤原宗通女宗子との婚姻(十月二十六日条)、宇治阿弥陀堂に於ける大叔母太皇太后藤原寛子の十種供養(閏九月二十二日条)や祈祷・仏事供養に移って行く。なお忠通の婚姻は院政期のいわゆる経営所婿取婚の有様を詳しく伝えているので、翌年四月忠通の新居を忠実が訪れるところまでを一括して収載した。
 文芸に関しては、右近中将源雅定家歌合(五月是月条)・右兵衛督藤原実行家歌合(六月二十九日条)・内大臣藤原忠通家歌合(十月二日・十一日・十三日・十八日条)、藤原顕季第に於ける柿本人麻呂影供(六月十六日条)等がある。このうち十月二日内大臣家歌合は、当時の歌壇の双壁源俊頼と藤原基俊が詳細な判詞を付して両判歌合の嚆矢となった歌論史上注目すべきものである。
 本冊に事蹟を集録したものは、権律師増賢(五月五日条)・中務大輔源能明(八月十二日条)・絵仏師法橋明舜(九月六日条)・大舎人頭藤原邦宗(九月二十五日条)・右衛門権佐兼中宮大進藤原重隆(閏九月一日条)である。このうち藤原重隆は為房の三男、蔵人・大学助・検非違使・因幡権守等を歴任し、儀式に詳しく、蓬〓抄・雲図鈔等を著わし、記録には金記がある。
 補遺として収めた中右記陽明文庫本は鎌倉中期を下らぬ良質な古写本である。これによって既刊部分に更に二十八ヵ条の綱文を加え得ることとなり、藤原頼通の薨じた所が宇治池殿であったこと等も明らかになった。また十月五日より九日の記の紙背に本文と同筆で書かれた類聚三代格巻一の抄録は、注目すべきものであるのでその首部を、中右記本文と共に図版として掲載した。
(目次一五頁、本文三五八頁、補遺目次一四頁、補遺本文五五頁、挿入図版二葉)
担当者 山中裕・土田直鎭・岡田隆夫・石井正敏

『東京大学史料編纂所報』第17号 p.39*