東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古文書 家わけ第二十一 蜷川家文書之一

大日本古文書に収載された武家文書としては、これまで浅野・伊達・相良・毛利・吉川・小早川・上杉・熊谷・三浦・平賀・山内首藤・島津などの諸家のものがある。しかし中央政権であった幕府の中核をなした家々の文書は、その伝存するものも少く、刊行するに至らなかった。今回ここに室町幕府の政所関係史料の質量ともに基幹をなす内閣文庫所蔵「蜷川家古文書」(架番号は古十六 二九五)を大日本古文書家わけ第二十一として刊行することとした。
蜷川氏の本姓は宮道氏で、蜷川の称は、鎌倉時代初期親直が越中国新川郡蜷川に住し、家号としたと伝える(寛政重修諸家譜)。系図類に拠れば、親直の子孫親心・親朝父子は伊勢氏と姻戚関係にあり、親朝は伊勢氏の主人であった足利尊氏に仕えたという。そして歌人としても著名な親当(智薀)のときから、幕府財政機関の長官政所執事となった伊勢氏の代官となり、政所代の職を相承した。しかし永禄五年九月十一日蜷川親俊の主人伊勢貞孝が三好氏と権を争って敗死すると蜷川家も衰え、まもなく親俊は出羽に下向、村山郡で死んだ。その子親長は、夫人が長宗我部元親室と姉妹であった好みで、一時元親を頼って土佐に居たが、慶長五年長宗我部氏が失脚し、その後親長は徳川家康に召出されて仕官し、その家は江戸幕府旗本として幕末に至った。
内閣文庫の「蜷川家古文書」は、大部分蜷川氏が政所代であった時期のもので、政所の実務に関する史料が多い。また伊勢氏が武家故実家でもあった関係上、弓・馬・調理等の礼式書も少なからず収められている。他に目ぼしいものとして歌書・懐紙等がある。
書名は、現在、内閣文庫図書分類目録に「蜷川家古文書」として載せているが、已前は単に「古文書」として出納されていたため、大日本史料をはじめとする史料集、研究書等が引載する場合、「古文書」「閣本古文書」、あるいは史料編纂所のレクチグラフの書名である「古文書集」、また「蜷川文書」等諸種の名称を付されていた。大日本古文書では既刊諸家文書との体裁統一上、蜷川家文書とした。
「蜷川家古文書」は蜷川家に明治期まで伝来された。そして坂井誠一氏「遍歴の武家−蜷川氏の歴史的研究−」(昭和三八年吉川弘文館刊)に拠ると、「蜷川新が、明治六年母親はつと駿河から上京して建部家に寄留した頃、建部家の家令が家伝の古文書を整理してその一部を売却した。これが現在内閣の所有となって、内閣文庫に『蜷川文書』として所蔵されている」(二三四頁)と書かれている。内閣文庫の記録には「明治二十一年十月蜷川新ヨリ購買」とみえる、坂井氏前掲書に拠れば、明治二一年は、朝比奈家から入って蜷川家を嗣いでいた庸吉氏が退隠して実家の姓にもどり、新氏が戸主となった年であり、前年蜷川家では、庸吉氏の実父朝比奈閑水氏からの送金を打切られ「家財の金目のものを売り尽し」たという(一七一頁)。文書移讓はこの記事と関係あるのかも知れない。
内閣文庫には、「蜷川家古文書」と同時に、蜷川親元・親郷・親孝・親俊等自筆の日々記・引付類・故実書・歌書が蜷川家より割讓され、現蔵されている。これら諸書にも数多くの紙背文書があるけれども、大日本古文書への収録はいま予定をしていない、尚、前田育聴会尊経閣文庫にも蜷川家文書は収蔵されている。
「蜷川家古文書」は現在二七冊二巻に整本架蔵されているが、購入時は一点々々個々ばらばらの状態であったと思われる。文書の年代は、その大部分が室町時代に属し、江戸時代にも及んでいる。大日本古文書としての刊行に当っては、大むね年月日順に編集することとし、本冊には文明十八年までを収めた。ただし将来、総目録において、現状の順序と刊本排列との照合を行う予定である。
(目次二五頁、本文三三九頁、花押一覧三丁、挿入図版三葉)
担当者 百瀬今朝雄


『東京大学史料編纂所報』第17号p.44