大日本古文書家わけ第十「東寺文書之七」

東寺文書は、大正十四年に百合文書の平仮名「い函」より刊行を開始して以来、昭和三十四年に至るまでに計六冊を出版したが、その後一時中断していた。一方、百合文書は、昭和四十二年に東寺から京都府に移管されて京都府立総合資料館所蔵となり、整理の関係上公開が停止されていた。ところが近時、資料館での整理が一段落した機会に、同館の諒解を得て、百合文書の出版を再開し継続することとなった。
 本冊では、前冊にひき続き百合文書「を函」と「わ函」の一部を函ごとにおおむね編年順に掲載している。また、従来影写本や写真帳などで知られてきた史料以外の、資料館での整理の過程で明らかになったいわゆる新史料についてもあわせて収載した。
 「を函」は、長享元年より天文十五年に至るまでと、年未詳・年月日未詳の文書を収めている。内容については、東寺鎮守八幡宮の阿弥陀三昧、大般若経輪転などに関する寺内文書がいくつかあるが、その外の大部分は、山城国の東寺領荘園に関するもの、特に久世上下荘関係の文書で占められている。長享元年の西岡地域の郷々出銭、明応七年の向日宮における国寄合(この四六五・四六六・四六七号の一連の文書は、これまで長享元年のものと考えられてきたが、武田修氏の研究「寒川家光の花押について」〈『資料館紀要』第八号〉によれば、明応七年に比定することができる。また、四六一・四六三号文書についても同氏論文参照。)、明応八年・永正元年・その他にみられる半済に関する記事などから、乙訓郡西岡の国衆や地下の侍衆の動向を知ることができよう。
 次に「わ函」は、建治元年より寛正四年までを収めた。やはり荘園文書が多いが、大和国檜牧荘が貞治元年に東寺西院御影堂に寄進された際に作成された相伝手継文書目録と、摂津国垂水荘の康永二年の内検取帳、寛正四年の浜見に関する一連の文書等が注目されるところであろう。
 最後に、本冊より改行符号を付し、巻末に花押一覧を載せるなど、編纂の体例を若干改めた。
(例言二頁、目次二〇頁、本文三三八頁、花押一覧六頁、花押・文書番号対照表四頁)
担当 稲垣泰彦(本稿は伊藤敏子執筆)

『東京大学史料編纂所報』第17号 p.43**-44