東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古記録 民経記 三

本冊には、寛喜三年四月より同年七月迄の日記と紙背文書を収めた。記主藤原経光は当時二十歳、五位蔵人であり、頻繁に内裏と関白第へ参候し、又、諸事の奉行を勤めて多忙な日々を過す。
この年七月に関白は九条道家からその息教実に替るが、道家は健在であり、朝廷に於ける九条家の優位が進行する。深刻化する飢饉のありさまも記されている。
巻頭図版に掲げた部分は、四月(上)記の末尾と四月(下)記の首部である。掲載の趣旨は、四月記が執筆当初は月初から月末に至る迄一続きのものであり、それを記主の経光が月の前半部と後半部とに分けて成巻し直したものである、と思われることを写真によって示すことにある。
右の推定の根拠は、(1)後半部の本文が、無造作に「十六日・・・・・・・・・」と記してあること、(2)その右傍の僅かな余白に、同筆で「寛喜三年四月記下」と記してあること(経光による補記と見るべきである)、(3)前半部の末尾が窮屈な状態で書かれていること(これは、十五日条の後にすぐ続いて十六日条を書き、その後で十五日条の補記を加えた、と考えられる現象である)、である。
以上の三点が、図版によって認められるであろう。
次に、編纂に用いた諸本は、二紙の例外を別にすれば、すべて東洋文庫所蔵の自筆本である。
例外となるのは、下郷共済会所蔵の断簡一紙(七月七日条の一部、これを「下オ」と呼ぶ)と、広橋真光氏所蔵の断簡一紙(七月八日条の一部、これを「広オ」と浮ぶ)であり、共に自筆本である。記事の内容と文言から推せば、「下オ」は本来東洋文庫所蔵自筆本寛喜三年七月記(以後、単に「七月記」と記す)の第七紙(これを「7オ」と呼ぶ)と第八紙(「8オ」と呼ぶ)との中間にあってこの二紙をつなぐものであり、更に「8オ」のすぐ後か、又は一、二紙をはさんで「広オ」が続いていたと思われる。
「七月記」の第九紙(「9オ」と呼ぶ)は十日条と推定されるが、日付を含む前部を欠いている。「広オ」は八日条だが後部を欠いているから、「広オ」と「9オ」との間には本来一紙乃至数紙が存したと見るべきである。
ところで、「下オ」は、その上部余白の左端に「九」と朱書してある、一方「七月記」は、第一紙(「1オ」と呼ぶ、以下同様)の上部余白左端に「二」と朱書してあり、以下順に「2オ」には「三」と、「3オ」には「四」と記されて「7オ」の朱書「八」迄続き、「8オ」には「十終」と朱書してある。
その上、それぞれの朱書の数字の左傍の紙継目の部分に、二紙にまたがって「丙」と朱書してある。
この二つの点、即ち数字の連続と「丙」字の符合とによって、「1オ」、・・・・・・・・・「7オ」、「下オ」、「8オ」の九紙は、この朱書きを含む整理作業が行なわれた時期には連続するものとして扱われていたことが明らかである。
更に、「下オ」の存在に注目することによって、左記の推測が可能となって来る。
それは、右に述べた朱書を施すという整理作業が行なわれた時期についての推測であるが、その時期は、この「七月記」(を含む民経記自筆本)が岩崎家の有に帰するよりも前であろう、という推測である。ただしこの推測の前提には、一たん岩崎家の蔵書となったものが、その後に下郷家(下郷共済会)に移ることはあるまい、という仮定がある。
民経記自筆本が現在の状態となる迄の経過を探る上で、「下オ」は興味深い材料なのである。
なお、民経記自筆本を江戸時代に書写したと思われる写本「民経御記」(広橋真光氏所蔵)がある。この写本の寛喜三年七月記には、自筆本の「7オ」、「下オ」、「8オ」の順序に等しい記事の排列が示されている。一方、「広オ」に当る記事は右の写本には収められていない。それ故、「広オ」は「下オ」よりも早い時期に「七月記」から離れてしまったと考えられる。
この「広オ」は近年発見されたものであり、その内容は、今回の出版によって初めて公開された。
(例言二頁、目次一頁、本文二七二頁、挿入図版一葉、岩波書店発行)
担当者 石田祐一


『東京大学史料編纂所報』第16号p.19