大日本古記録「後愚昧記」一

後愚昧記は、三条公忠(一三二四−一三八三)の日記で、「後押小路内府公忠公記」・「後押小路殿御記」ともいう。公忠は、清華家たる三条家の嫡流で、正二位内大臣となったが、大将を兼ねず、貞治元年十二月三十九歳で内大臣を辞して従一位に昇り、以後散位のまま永徳三年六十歳で歿した。
日次記は、康安元年より歿年に及ぶ二十三年間中十七年分にわたるが、そのほかに、朝儀・法会等に関する別記、有職故実について諸人と取り交わした問答消息などがいっしょに伝来し、早くからあわせて「後愚昧記」と呼ばれている。この称は、公忠七世の祖三条実房の日記を「愚昧記」と称するのに因んだものと考えられる。
自筆原本の大部分は本所に所蔵され、古写本一冊と共に重要文化財に指定(昭三二・ニ・一九)されているが、その三十巻の中には公忠の息三条実冬の日記「実冬公記」自筆原本二巻及び同断簡等が混入している。このほか、財団法人陽明文庫に一巻(「後愚昧記」重要文化財)、財団法人前田育徳会尊経閣文庫に二巻(「山門嗷訴記」・「実豊卿記」所報第十五号五十六頁参照)、宮内庁書陵部に二巻(「応安二年正月記」・「七仏薬師法於禁中被行例 附等持寺御八講」)などが、目下、自筆原本として確認されている。
尊経閣文庫所蔵「山門嗷訴記」は、現状では巻頭に応安元年閏六月の山門訴状案があるが、明治十九年の本所影写本によると、応安元年七月二十三日条の日記本文のあとにこの訴状案等が継入れてあったことがわかる。しかもこの日記本文は、三条西実隆による後愚昧記の抄出本(「後愚味抄 附消息」)と一致し、筆蹟の比較などによって後愚昧記の自筆原本であることが判明した。また書陵部所蔵「応安二年正月記」は、後愚昧記の諸写本には含まれている今出川公直注送の踏歌節会記であるが、若干の書き込みが公忠の筆蹟に酷似するのみならず、虫損箇所が自筆原本の正月十六日条の紙継目のそれとぴったり重なるので、もとその一部として継入れてあったことは疑いない。
写本として貴重なのは、三条西実隆・公条父子による抄出本で、各々その自筆本が書陵部(三冊)及び本所(重文の中、古写本一冊)にある。他の多数の写本のほとんどは、その範囲・奥書・誤脱等を手がかりに検討してみると、大小数組の写本がもとになっているらしいが、三条西抄出本系統以外は他のいずれの一組も江戸初期を遡るものはない。その上、現在の各写本のまとまりは、もと二組以上の写本を相補う形でとりまぜた写本集成になっている場合が多い。
今回、大日本古記録として刊行するにあたり、原本のある部分は原本により、無い部分は、諸写本よりそれぞれなるべく善本を選んで底本とした。また前述のように形態の異なる記録を含むので、まず日次記を刊行し、ついで別記・問答消息そのほかに及ぶことにした。記主自身が一応の区分をしていたと考えられるからである。全都で三冊になる予定であるが、本冊はその第一冊として、康安元年より応安三年にいたる日次記を収めた。これはすでに大日本史料第六編之二十三より三十三までがその大方の記事を各綱文に分かって収録するところであるが、三十までの編纂当時は、底本として未だ自筆原本を使用してはいなかった。
本冊所収の間、公忠は内大臣を辞し(但しその貞治元年の日次記はない。)、前内大臣として子息実冬の昇進に腐心し、その甲斐あって実冬は貞治五年六月に元服するや翌年正月には、十四歳で従三位に叙せられている。
公忠は有職故実に詳しく、絶えず公卿たちの諮問に応じているため、日次記にも当時の朝儀や法会の伝聞記事が多い。就中、後光厳天皇の外戚であり、かつ三条家の分流たる三条実継・実音兄弟は、公忠にとって頼りになる縁故者であるとともに、重要な情報源でもあった。本書の広範多彩な内容を紹介するいとまは今ないが、足利義詮の病歿記事を含む貞治六年十二月記については、近くの紙背にその草稿ともいうべきものがあって、彼此対照すると日記執筆の過程を考察する素材となろう。
(例言六頁、目次一頁、本文二三五頁、挿入図版一葉、岩波書店発行)
担当者 菅原昭英

『東京大学史料編纂所報』第16号 p.20*-21