東京大学史料編纂所

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陽明文庫史料調査

 昭和五十四年十月十五日より二十一日までの七日間、前年に引続き京都市陽明文庫に出張し、近世史料の調査・撮影を行なった。  今回の採訪は、一般文書記録(書状類)の調査・撮影の第四回目にあたり、架番号二〇〇二八より三七五四五まで、烏丸光広・金地院崇伝・伊達吉村・後水尾天皇・一糸文守・島津龍伯・堀尾忠晴・天英院などの書状、都合六九八三コマを撮影し、これにて書状類の採訪は一応終了することができた。以下前回までの分を含め一括して報告する。
 陽明文庫収蔵の史料は約二十万点と称されている。周知の如く印行された総合目録はなく、刊行されたのは国書善本・貴重漢籍を採録した『陽明文庫藏書解題』一冊が存するのみである。未印行の目録としては同文庫に十数種の部類別目録があり、本所で作成した数種の目録がある。因に本所架蔵の目録は次の通りである。
 (A)近衛家蔵書目録 四冊 昭和三十年謄写
 (B)近衛家寄託文書目録 十冊 昭和初年京大作成 タイプ印刷
 (C)陽明文庫近衛家文書分類項目 一冊 昭和二十四年謄写
 (D)陽明文庫分類目録 二十冊 昭和五十二年複写
 (E)近衛家図書目録 三冊 昭和十二年謄写
 (F)陽明文庫第二書庫図書目録甲 一冊 昭和十五年作成
 (G)陽明文庫第二書庫記録類目録 一冊 昭和二十四年作成
 (H)陽明文庫貴重書目録 二冊 昭和二十四年作成
 (I)陽明文庫及京都大学貴重記録類追補目録 一冊 昭和十五年作成
 このうち、本採訪にあたっては(B)に依拠し、(D)及び(H)を参考とした。これらの目録について若干記しておくと、(B)は、貴重書を除く一般文書記録類が大正十三年に京都大学に寄託され(貴重書は宮内庁書陵部に寄託)、昭和十三年陽明文庫設立に伴い返却をみるまでの期間に、京都大学で作成されたもので、現在の架番号は本目録に拠っており、一般文書記録類を網羅している。(D)は、(B)を(C)の分類によって改編した部類目録で、二十二部門のうち第一〜七、十一〜十九、廿一、廿二の十六部門が存する。他は未作成であり、十六部門についても網羅されているとは言い難いようであるが、内容関連の把握などに至便である。なお、書状類は第三部門である。(H)は、(B)〜(G)が第二書庫に収蔵されている史料の目録であるのに対し、第一書庫収蔵のもの(貴重書)の総合目録である。昭和二十四年、陽明文庫所蔵の六種の目録を基に、本所で調査のうえ整理編輯したもので八部から成る。貴重書状類は第六部の「貴重文書目録」に含まれている。
 一般文書記録及び貴重書中の書状類は、都合一万数千点に及ぶ。これらは水張りして皺を延ばした上、一通ごとに広げたまゝ厚手洋紙の畳紙に挾み、本紙の上部に足をつけて固定してあり、畳紙を上に捲って披見する仕組みになっている。そして大体五十〜百点毎に紙箱に収めてある。架番号は本紙裏に貼付のラベル及び畳紙の表右上に記入され、通常は後者で検索されている。
 書状類の年代は、戦国期より江戸後期に及んでいる。架番号は割合纒って付されているので、写真撮影は架番号順に行なった。書状類中には和歌懐紙・詠草なども一部含まれており、これら純文学に属するものについては除外したほか、番号続きの場合はともかくとして幕末期のものも一応これを省く方針のもとに一点ごとに調査の上採訪した。
 以上の採訪方針及び数量を考慮して、架番号の写し込みは必須のことであり、また検索ならびに利用面からいっても必要である。作業実施に当り、これらの史料の中には所定の位置に正しく納められていないものもあって、架番号順に揃え直すことゝ架番号を写し込む準備に多大の労力と時間を要した。上述の如く架番号は本紙の裏と畳紙の表右上にあるが、このいずれも本紙と同時に撮影することは不可能なので、新たに番号を付して写し込む方法を採った。すなわち撮影分には畳紙の表右下にナンバー(ゴム印)を打ち、畳紙を曲げて架番号と本紙とを一度に写すという方式である(逆にナンバーのないものは非・未撮影分であることを示す)。
 書状類はこれを大きく分ければ、他家よりの来状と近衛家内の人々=家族・家司等の書状に分けられる。近衛家内の人々の書状とは、当主等の案文のほか、本邸と別邸とに於ける親と子の往復書状とか、旅先からの発信などである。但し親子間の書状といっても時代によって残存状況に特色があるようで、例えば前久・信尹時代のものは、信尹宛前久書状は原本が多いのに対し、前久宛信尹書状は殆んどが案文である。これは、前久は出家後の天正十三年頃に相国寺より慈照寺を借請け、死去する慶長十七年までの二十七年間東山に寓居したのであるが、慈照寺の返却問題が難行したようで、そのため慈照寺の前久の手許に在ったであろう信尹よりの来状その他もまた相国寺より近衛家への引渡しがスムーズに行なわれなかったか、或いはその際に散逸したためでもあろうか、ともかくも文庫に現存する前久宛信尹書状は殆んどが案文である。また基熈書状の多くは、基熈が江戸在府中に京都にある息家熈或いは孫の家久に宛てたものである。他家よりの来状は、天皇家・宮家・門跡・公家・武家・僧侶・学者・文人・茶人・連歌師等というように各分野・階層に及んでおり、主な人々を挙げれば次の通りである。
 天皇家—陽光院誠仁親王・後陽成天皇・後水尾天皇・霊元天皇・中和門院・東御所文高女王等
 宮家—八条宮智仁親王・同智忠親王・高松宮好仁親王・伏見宮邦房親王・有栖川宮織仁親王等
 門跡—聖護院道澄・同入道道晃親王・一乗院尊政・同入道尊覚親王・妙法院入道堯然親王・青蓮院尊純親王・東本願寺光従・大覚寺亮深等
 公家—鷹司信房・一条昭良・二条康道・山科言経・中院通村・広橋兼勝・烏丸光広・土御門泰重・飛鳥井雅章・竹屋光長・冷泉為満等
 武家—織田信長・伊達政宗・毛利輝元・細川忠興・島津家久・藤堂高虎・堀尾忠晴・板倉勝重・井伊直孝・酒井忠清・小堀政一・徳川光圀等
 僧侶—南光坊天海・金地院崇伝・玉室宗珀・沢庵宗彭・江月宗玩・天祐紹杲・玉舟宗〓・一糸文守等
 学者文人—三宅亡羊・三宅道乙・黒川道祐・新井白石・安楽庵策伝・半井寿庵等
 茶人—千宗易・千宗旦・古田重然・金森宗和・松花堂昭乗等
 連歌師—里村紹巴・同昌叱・猪苗代兼説・同兼寿・同兼郁等
 都合四回の採訪により撮影した書状類は、総計八四二三点、撮影コマ数は一二二六四に及ぶ。架番号でいえば一〜三七五四五までのものである。すなわち、架番号一〜一〇〇一が昭和四十八年三月の第一回採訪分、一〇〇二〜二五八八が五十二年九月の第二回採訪分、二五八九〜二〇〇二七が、五十三年十月の第三回採訪分、二〇〇二八〜三七五四五が今回行ったところの第四回採訪分である。
 なお、これらの詳細な撮影目録は別に作成して利用の便をはかった。
 陽明文庫史料のうち、分類上でいえば少くとも家門篇・公事儀式篇などは書状篇と同様網羅的に調査して採訪していく必要があるが、これは今後の課題として考慮すべきである。
            (山本武夫・加藤秀幸・橋本政宣・梅澤ふみ子・針生邦男)


『東京大学史料編纂所報』第15号p.154