東京大学史料編纂所

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新潟県下幕末維新期史料調査

 一九七九年十一月五日から九日まで、新潟市郷土資料館、新発田市立図書館、新潟県立図書館において、幕末維新期史料の調査をおこなった。調査目的は、史料の所在と内容の概要を把握することであった。調査結果は下記の通りである。
 一 新潟市郷土資料館
 新潟市郷土資料館では、初代新潟奉行川村清兵衛修就文書を閲覧した。川村家は代々、将軍の御庭番を勤めた家柄で、清兵衛は天保十二年五月、勘定吟味役となり、同十四年六月十七日、初代の新潟奉行に就任し、嘉永五年七月晦日まで九年間、その職にあった。以後、堺奉行、大坂町奉行、長崎奉行、小普請奉行、西丸留守居、大坂町奉行、西丸留守居を歴任している。川村清兵衛文書は全体で約一五〇〇点、新潟統治の様相が詳細にわかる新潟奉行の時期のものが中心であるが、そのほか勘定吟味役時代に筆写した蝦夷地関係の諸史料、御庭番の役割を知り得る史料、砲術関係史料、屋敷拝領に関する史料など重要なものを多く含む。調査は文書目録(未刊)を手がかりに、主として政治史に関する史料を選び、内容をノートした。なお、22新潟在勤中日記(天保十四〜十五)、23諸達掛合往復留(天保十四)、24市中御触并触書留(天保十四)、29諸向文通留(天保十四〜十五)、30・37地方諸向文通留(弘化二・三)、31・34公事方諸文通留(弘化二・三)については、既に「新潟市郷土資料館調査年報」の第二・三・四集に詳細な解題と共に史料全文が掲載されているので、ここでは省略する。
 以下に調査結果の概要を記す。数字は目録にある史料番号。  

4 日光奉行佐渡奉行御用留写 文政年間                  一冊
10 佐渡奉行御用留写 天保十二年                    一冊

  川村清兵衛が、新潟赴任の準備のため、両遠国奉行の留帳から、起請文の書き方、忌服・嘉祥の行事など必要な部分を筆写したもの。   

9 北越秘説附言 天保十一年                       一冊
  清兵衛が新潟の様子を探り、幕府へ報告したもの。
20 口上之覚                              一冊

  新潟の町の様子の詳細な書上げ。末尾に次の文章がある。
 「今般以御改革御趣意、御公領ニ被仰上候上ハ、先年之振合ニ立戻、繁昌仕候様相成可申達存候、以上」  

25 申渡并達書 天保十四年〜嘉永元年                  一冊
  新潟市中への触留である。
26御触書之写天保十四年                         一冊
28御書付留并達留                            一冊
  右の両書は、幕府の触書の留である。
40〜46公事方出入吟味物銘書帳天保十四年〜嘉永五年           七冊

  公事方の事件の落着の月日と、吟味に当った担当者名を記している。40の史料から記載例を示す。   

 「卯十月廿日請取
 一、新潟町之内横町医師豊庵相手同人兄忠五郎後家たの不法出入
                  竹川竜太郎
         辰十月廿四日落着  割替 小柴喜左衛門          」
 巻末には、次のような記載がある。
 「巳年公事御吟味物     御吟味物六拾壱出入物  拾三
  数七拾四口
       内弐拾五口 辰年より引続
  内
  数五拾五口   落着
     残
  数拾九口    午年江引続                       」
47〜54 御手限請證文留 天保十四年〜嘉永二年             八冊

  「手限物受證文留」「御手限請證文」などの名称のものもあるが、内容は同じである。新潟奉行所の判決に対し、訴訟当事者が差出した請書の留。判決主文のほかに、新潟奉行が寺社・町・勘定の各奉行に問合わせて得た同種事件の判例が併記されている。史料52から請書を例示する。
「   差上申一札之事
 私儀新潟片原通四之町権右衛門宅前ニおゐて、住所不知非人大吉ニ出逢、子細不分同人持居候刃物を以、理無尽ニ為疵負逃去候後、気絶いたし相倒罷在候ニ付、右次第権右衛門倶々同町役人共御訴申上候ニ付、御検使之上、寄居白山外新田穢多行事善十郎与兵衛江御預、療養手当被 仰付候処、疵所平愈いたし候ニ付、当御奉行所江被召出、再応御吟味之上、不埓之筋も無之御構無御座、越後国尼瀬町穢多雁助外壱人江御引渡被遊候段、被仰渡承知奉畏候、仍御請證文差上申処如件、  

                     江戸南八丁堀
                      非人小屋頭
                       源助抱非人
  弘化四未年七月六日                  亀吉
    御奉行所
 前書之通被仰渡亀吉を御引渡被遊候旨被仰渡承知奉畏候、依之奥書を以申上候以上、
                   篠本彦次郎御代官所
                     越後国三嶋郡尼瀬町
                      穢多雁助
                        安兵衛代 初蔵
    差上申一札之事
    

 江戸南八丁堀非人小屋頭源助抱非人亀吉儀、町内権右衛門宅前ニ疵請気絶いたし罷在候ニ付、其段御訴申上候処、御検使之上、寄居白山外新田穢多行事善十郎与兵衛江御預ヶ療養手当被仰付置候処、疵所平愈いたし候ニ付、右亀吉一同被召出、平愈御吟味之上、私共儀不埓之筋も無之御構無御座候段被仰渡承知奉畏候、仍御請證文差上申処如件、  

                     片原通四之町
                         家持
  弘化四未年七月六日         権右衛門代同人下男   吉十郎
                             組合 市蔵
                             町代 金兵衛
                             年寄 平右衛門
    御奉行所                              」
61 江戸表と越後国新潟辺と米相場値段違凡の儀申上候 天保十四年     一冊
 金一両に付米一石を江戸表中値とすれば、天保七、八年の凶年には、
 江戸—一両に八斗五升
 越後—一両に一石四斗六升二合、である
 

「依之凶年ニハ米之値段ヲ不押最初ニ高値之土地ハ、入込沢山ニ而後復而下落いたし、餓死人も無之由、米而己ニハ無之、諸色迚も諸国之相場ニ不引合様ニ無躰ニ直段を押へ候得ハ、入込不足ニ而復而後品高値ニ相成候儀ニ御座候、猶御賢慮奉願候、
 右御尋ニ付申上候間……(下略)                」
 差出人、受取人とも不明であるが、受取人は新潟奉行と思われる。
62天保十四年正月に地方役より差出された過去三ヶ年の「越年米高」調。
  天保十一年……八三万三八五〇俵
  同 十二年……六五万四二〇〇俵
  同 十三年…一〇九万四二〇〇俵
63新潟市中風俗書 天保十四年
64新潟町売女之儀ニ付申上候書付 天保十四年十二月 若菜三男三郎差出。一冊
「新潟町売女之儀ニ付組頭衆并広間役共一同差出候評儀書被成御渡一覧仕候処、組頭衆被申立候趣ニ而ハ、願随寺裏手之方空地有候ニ付、右場所売女町ニ御渡被成候ハヽ……相応之引料被下置候ハヽ、御仁慈之程一同難有可奉存候、依之此段申上候以上、」
65天保十四年九月十三日、夜九時頃水野越前守西丸下屋敷角辻番所へ多人数集り破却一件につき、老中土井利位より本丸側衆岡部長富宛、および当番目付宛書通の写。
70宗門御改帳 天保十年
71新潟洲 崎町島毘沙門前 宗門御改帳 天保十五年十月十九日
72新潟町検断長左衛門外二名、年寄忠右衛門外七名より、奉行所へ 1新潟湊より江戸迄の里数2当所より江戸迄、江戸より当所迄の廻差月数、3丁銅・錫直段之事4運賃、についての書上 天保十五年十一月
73御役所并御役宅新規御普請御入用金高帳 天保十五年
74年寄・検断より奉行所へ、大川前通拾七軒町小川屋皆五郎二千俵、古町四之町藤井屋忠右衛門二千俵差出につき書上 天保十五年
75天保十五年七月七日、湊祭昼の部に参加する一番から八番までの町名を書上げたもの。但、夜の部に参加する町(九番から二十二番迄)は書上げられていない。
76弘化二年七月の湊祭に関し、取締向出役場所を根津奈賀次郎、大村貞次郎、矢沢升蔵、高野順蔵の四出役より書上げたもの。
82弘化元年より嘉永二年までの新潟人口書上げ。嘉永二年を例にとればその内容は左の如くである。
 二五、二五四人—人高(男一一、一六五人、座頭二四人、比丘尼二人、女一四、〇六三人)
  内 二九八人—寺町寺院(一向宗二四九人)
     七五人—町並寺社
 残二四、八八一人、 家数五四八七軒
 外 三人—渡し守(男二人、女一人)
 弘化元年から嘉永二年までの推移の大概は次の如くである。
 弘化元年 二三、〇六九人(三・三) 渡し守男 女(三一・二九) えた 男 女
 同 二年 二三、六〇九人 (三・三) (三一・二九)
 同 三年 二三、七八八人 (三・三)
 同 四年 二四、〇五一人 (二・一)
 嘉永元年 二四、六〇七人 (二・一)
 同 二年 二五、二五四人 (二・一)
84御書付留三 弘化二年正月〜同三年五月
85御書付留、達留二 弘化元年分
 84・85は、幕府よりの達を留めたもの。朱書の注記で達の日付、到着の日付、およびそのルートがわかる。
88越後国新潟町役人并市中之もの共、同所御役所御役宅向御普請之節、冥加上納願出候金銭人足高名前帳 弘化元年六月

「              川村清兵衛御預所
                越後国蒲原郡
                  新潟検断
 一金五拾両                久兵衛
  (中略)
  合金六百八拾四両永百四拾文
   人足四千二百六拾六人
  右之通御座候以上、
   辰六月                 榊原主計頭 
                      川村清兵衛」(忠義、勘定奉行)
                      

 新潟奉行所の増改築に伴なう出金、出役のリストである。外この普請に関する仕様帳、御用掛名面などの史料が87〜98に収められている。  

193御物成其外御金御有高帳 弘化元〜嘉永五年              一冊
  奉行所の収支がわかる史料。
「御物成金
  金一一万一五五七両二分、永一四一文二分 御取立高
                辰二月六日〜子七月三日迄
   内 金一〇万四五二五両一分 永二二文一分
                辰九月四日〜子九月十一日
                 御金蔵納并追々御遣払高
  残金は七〇三二両一分、永一一九文一分
                          子七月十一日
                               御有高」
                               

  外は少額、項目は、欠所物過料銭、囲船地代、古金銀・非常御備金、御武器掛、仲会所反古御払代、御役所反古御払代など。
106日新録書抜 弘化元年〜嘉永五年                   一冊
 嘉永三年日新録の用紙に記されている。はじめに天保十五年、弘化二年の頭書があり次に天保十五年一月一日より書きはじめている。一部を左に例示する。
 「 元日
 一、新潟ニ而支配向町役人共迄年頭之礼、初而受而、畢而白山社参詣、
   二日
 一、昨日当番之支配向并町医師共年頭之礼受ル、
  年頭之呈書差立ル、
   二月十七日
 ○中川一空、去月四日病死いたし候ニ付、村垣与三郎〓申越ス、        」
107
 「新潟表御備向之儀、是迄
 公儀御台場も無之候ニ付、北海防禦之御主意を以、御台場取立等之儀取調相伺可申旨、去卯六月越前守殿被仰渡候ニ付、御備筒拾貫目……都合百拾弐挺御渡方之儀奉伺候処……                    」
108は107の清書(辰九月)
149弘化元年辰正月、新潟表御武器之儀奉伺候書付
118出帆船書上
 「壱番
  一、御米千五百弐拾八俵 丹後国伽佐郡由浪湊 直乗船頭 九郎右衛門船
 右は今朔日午半剋出帆ニ付、御条目其外書物類相渡申候、此段御届申上候、以上、
   巳四月朔日                     中嶋東三郎    」
 以下、六月二六日の十九番船迄。
149御貸付金引当村方収納高書付 弘化四未年五月
 近藤小十郎(海軍奉行並支配)知行所の上野国緑野郡上大場村についての引当収納高書付である。差出しは、上大塚村村役人で、宛所は御貸附方御役所となっている。次の150と関連する。
150御貸附金村方引請証文 弘化四未年五月
 近藤小十郎知行所上野国緑野郡上大塚村百姓代・組頭・名主より御貸附方御役所に宛て差出された、貸附金村方引請証文。「……右〓御貸附方御役所ニ而御取扱之御用金地頭近藤小十郎拝借仕右為納方私共村方御差向ニ相成候ニ付地頭所江可相納物成代金之内を以年々……私共村方〓直ニ御役所相納可申旨地頭所〓申渡有之……」という内容で、奥書に、近藤小十郎内須賀喜三郎が、さらに近藤小十郎自身が、前書之通りであることを記して署名している。御貸附方御役所が幕府か新潟奉行所かあるいはその他かは、文書の伝来経路同様不詳である。
151積出残白山堀蔵所有米 弘化四年
 御城米五百六拾八俵、諸家米四万六千弐百七拾五俵など、白山堀蔵所有米合計六万千四百三拾九俵の他、大豆・小豆・大麦・小麦・稗の所有俵数書上げ。
153人数目録 弘化四未年
 新潟奉行支配下(町在)人数目録。人高弐万四千五拾壱人、内男壱万七百三拾弐人、女壱万三千弐百九拾人、内寺町寺院弐百八拾七人、町在寺社七拾壱人となっている。
154新潟湊売女之儀ニ付伺被仰渡覚
 表題は「新潟湊賣女之儀ニ付奉伺候書付」であり、川村清兵衛より榊原主計頭宛ての伺書と、それに対する榊原の許可が記されている。内容は、「遊女屋名目は差止向後廻船又は泊茶屋興名付、売女は飯焼女洗濯女等之名目を唱、衣服其外都而花美之儀無之」というものである。
155寒暖観測 弘化丁未
 一年間の江戸・新潟の天気・気温観測記録。
158御城米諸家収納米売米共川下高 弘化四年十二月
 御城米川下高(水原・出雲崎・会津御預所・桑名御預所・脇野町御預所の各々についての米俵数書上げ)合計米六万五千六百三拾三俵・籾三百四拾七俵と、諸家収納米川下高(会津・高崎・長岡・村上・新発田・村松・館村・三根山・沢海))合計米拾六万六千百六拾弐俵・大豆弐千五百弐俵・小豆八拾五俵と、廻船宿共川下米高(米拾七万八千七百九拾五俵その他)、在宿共川下米高(米弐拾壱万五千百四俵その他)の書上げとすべての合計額が記されている。さらに、去(弘化三)年の川下米高が記され、当年との差引がまとめられ、その増減高の値段金額が付箋に書かれている。
159松平河内守宛川村清兵衛書簡控 弘化四年七月廿二日
 その内容は「……仲方地方共卯年已来御収納相増御益も有之ニ付支配向一統御褒美之儀厚御含御願も可被下旨承知仕候……」というものである。
161新潟御役所元極留 嘉永元年十月六日
 諸願等扱いの職掌替えについての伺書。
 「(上略)
 一物価ニ拘り候類
 一町役人共旅行願
 一茶汲女等徘徊願
 一相場書并銭両替書上
 一寺社并市中江之御触
 一於寺社開帳内拝等之願又は諸堂社再建修覆願其外右為助成角力并芝居等興行願
 一於旅籠屋等寄興行願
 一捨もの并拾もの一件
 右之分是迄公事方掛月番ニ而取扱候得共一躰地方懸ニ而可取扱所ニ有之然ル処今般右懸り月番被仰渡候ニ付而は向後地方懸月番ニ而取扱候方可然哉ニ奉存候依之此段奉伺候猶相洩候儀は追而申上候様可仕候
   巳十月六日
 (下略)                                 」
175新潟佐渡差控伺書留 嘉永二年
 新潟役所構内御備場足軽共内、長屋〓出火仕、足軽等御仕置の伺書の留。
 (朱書)「酉正月廿六日伊勢守殿ト御直河内守上ル即日御附札を以御渡」とあり。
178仲荷物之儀ニ付嘉永二酉年市中御触書并私領中五ヶ所御番所江申渡書抜
 「新潟湊出入諸荷物之儀仲御番所改を請役銀相納候儀前々〓之定ニ候処、心得違之もの共品ニ寄諸荷物若御番所江不相届積出し、又者荷品代銀員数等紛敷取計いたし候ものも有之哉ニ相聞不埓之事ニ候……          」
 と、あらためて諸品改めの定め例式取極めを触れたもの。
182新潟御奉行外二名分御借米・御切米・御役料等調 嘉永三年
 (端裏書)に「新潟御宛行惣勘定」とある。宛行の合計金額は弐百四拾壱両永百八拾文。
188越後国米相場風聞書 嘉永三年九月
 古町通三之町松鷹屋常蔵が、越後国内各領の町在の米相場を聞合わせて、町会所宛に書上げたもの。
191米高直ニ付新潟市中窮民救方諸入用金元拂仕訳写 嘉永三戌年より翌年迄 手許控
 金二万五千七両余を、救方諸入用に宛てている。
194堺并当地御備之儀ニ付御内慮奉伺候書付 文久二年
 川村壱岐守(大坂町奉行)より松平伯耆守(大坂城代)に宛てた伺書。
 「堺湊御台場之儀立花飛騨守申上候絵図面御下ニ相成候ニ付……先年私儀堺奉行勤役中同所市中=願ニ因て…………………………今般之堺表御台場目論見等格別力を入候儀ニ御座候得共迚も之儀ニ前文之次第等勘弁を尽し台場筒数玉目等を相減し……船は平常漁業並荷船等ニ用ひ異船渡来之節々手筈極置其期ニ望積込候而も手後れニも相成申間敷哉、右等之扱も国力を延候一廉ニも可有御座哉与奉存候……
  戌五月                          川村壱岐守  」
 (朱書)「右は五月廿日尚口上添伯耆守殿江致進達候處同日伺之通相心得向々申談候様被申聞候事」
195堂嶋浜方凡有米高  文久元年
 「去々未年正月 七拾八万弐千百俵
  去申年同断  九拾六万八千百俵
  当酉年同断  六拾四万五百俵
 一当酉年有米高内実之処三拾九万三千俵程ならては無之由
 一去申年冬諸蔵売残当二月〓持越高三拾六万俵余程有之由
  右之通相聞申候事                 」
 川村清兵衛の大坂町奉行時代の史料と考えられ、従って酉年は文久元年であろう。
196大坂銭相場書写 文久元年二月廿四日
 「金壱両ニ付銭六貫九拾壱文
  但二月十日直段ニ弐拾三文下直」
197大坂市中囲穀之儀ニ付申上候書付 文久二年
 川村壱岐守・鳥居越前守の両名の名前が記され、「大坂市中非常凶年飢饉等之為囲穀之儀……」とある。虫喰い激しい。
201申年出入船高
 「一出船弐千八拾六艘
  一入船三千弐拾三艘
  右之通御座候以上
   亥三月     洲崎 御番所詰」
204臨時御金拂帳 文久三年三月十日
 大坂町奉行所勘定関係記録。
 「   定式御遣方金渡
  一金七万両    小堀数馬
    但弐分判
   是は御上洛為御用意金御廻相成候金高之内川勝丹波守一色山城守池野勇一郎文久三亥三月八日之添状を以渡
  (下略)                                」
205臨時御金銀納拂帳 文久三年三月廿九日
 前と同様な大坂町奉行所勘定関係記録。
 次に記載例を掲げる。
 「     定式御遣方金銀納 亥三月廿九日臨時
 ○—壱分銀三千弐百三拾八両 此銀弐百七拾貫三百七拾三匁 銀弐百七拾貫三百八拾五匁 内小玉銀弐拾七貫三拾八匁五分 但 亥三月廿三日大坂 御金蔵相場 金壱両ニ付銀 八拾三匁五分替 屋代 増之助
  是は御代官所豊後国去戌年御物成銀之内
  地方組
 ○—壱分銀百四拾両 此銀拾壱貫六百九拾目 銀拾壱貫七百拾六匁 内小玉銀壱貫百七拾壱匁六分 但右同断 同 人
  是は御代官所豊後国去戌年地方 但小物成銀之内
  (中略、豊前国・日向国・肥後国・肥前国・筑前国・伊予国等を略す)
 納合 金壱万百弐拾六両壱分
    銀八百四拾壱貫八百五拾七匁三分五厘七毛
 同日
  定式御遣方金銀渡
 ○一銀壱貫七百九拾八匁弐分 吉際 繁三郎 吉田 邦 蔵
   是者諸組西洋御小筒角前稽古御入用之雷管当亥年分御買上代銀松平伊豆守文久三亥三月之仮証文を以渡
 ○一壱分銀百八拾両     鈴木 源内
   是者御代官所大和国六分石高諸入用金壱ケ年金六百両之内検見入用五拾五両者追而請取候積当亥春渡之分竹内下野守小栗豊後守川勝丹波守津田近江守一色山城守都筑駿河守立田録助池野勇一郎鈴木大之進黒坂丹助裏判手形を以渡
  渡合 金百八拾両 銀壱貫七百九拾八匁弐分
  亥三月廿九日宥板 元御金蔵
  一金 拾六万八千七百拾壱両弐分三朱
   内 金六万八千五百拾八両弐分 壱分銀六万弐千弐百九拾三両三分 壱朱銀三万七千八百九拾九両壱分三朱
  右同断
  一銀四千四百六拾三貫弐百九拾七匁六分四厘弐毛              」
284〜388は砲術関係史料、とくに荻野流砲術関係が含まれている。その内、興味深いものを次に適宜記しておく。
353(上包表書)
 「坂本鉄之助〓之来書并大筒銘下書鋳物師名面」
 右上包中に二通あり。
 一通は来書(正月十二日付坂本鉄之助より川村清兵衛様宛書状)。他の一通は鋳物師姓名書上(土屋忠左衛門邦晴・土屋庄吉泰秋・村上辻村又五郎輝員)である。
367此度御買上ニ相成候硝石之儀申上候書付
 二月廿九日(年不詳)付、古谷栄太郎よりの上申書。
 二枚一綴。全文を次に引載する。
 「此度御買上ニ相成候硝石之儀申上候書付
                        古谷 栄太郎
 私取扱候御入用を以御買上御渡方相成候御支配向稽古打合薬相製候硝石之儀右は御備物足軽杉浦茂三郎儀兼而懇意いたし候奥州雀林村幸七興申もの硝石捌方いたし古町通鍛治町庄兵衛方宿ニ而番所江も差越賣買いたし候儀之處〓合�品ニ而御買上相成候ハヽ可然旨申聞候ニ付見本持越為見可申旨茂三郎江申談置候処其後当月中旬硝石三拾貫余前書幸七持越候由ニ而茂三郎見本持参いたし見請候處(朱書)「〓合も相応ニ付其段申上御買上ニいたし候義之処」幸七其外之もの共申合右〓石持越候節新潟御用物之趣申成道中筋御定賃銭相拂継越候由之風聞此節承込不容易義ニ付茂三郎呼寄一ト通り承糺候處不弁之由申聞事柄不相分候得共右躰如何之風聞も相聞候儀ニ付此上御役所ニおゐて猶取調御座候様仕度依之此段奉申上候以上
  二月廿九日                     古谷栄太郎     」
368御備玉薬火矢砲〓玉相図之玉共員数書付       竪帳
 各種火薬玉の員数調帳。表紙に「申八月十六日出来栄見分手扣」(朱書)・「川村扣」と記されている。
379支配定役砲術中附                        一袋九点
 (上袋上書)「支配定役砲術中附 川村對馬守」の袋中に以下の九点あり。順不同。
 1「荻野流種ヶ島筒稽古百発中附 嘉永三年十二月 小柴喜左衛門」
  合百発皆中 星三分三厘 四寸角入八分四厘
 2荻野流六文目玉稽古百打中附 嘉永三戌年十二月 小倉瀬平」
  百発皆中 星   三分四厘 四寸角入七分五厘 小倉瀬平高周
 3「荻野流拾文目玉稽古百打中附 嘉永三戌年十二月 古谷栄太郎」
  百発皆中 星   五分九厘 四寸角入九分七厘
 4「種ヶ嶋筒稽古百発中附 藤田織部」
  星   七分 四寸入 九分四厘
 (中略)
 9「御撰百打中附 嘉永三年十二月 砲術世話役」
  御撰百打 拾文目玉
  一皆中 別段  中出徳太郎
   星   七拾五 四寸角入九拾五
  一同 同    藤田織部
   星   七拾 四寸角入九拾五
  一同      右同人
   星   五拾五 四寸角入九拾三
  一同 別段   古谷栄太郎
   星   五拾四 四寸角入九拾壱
 1〜9まで、各人(合計二一人)についての砲術的中について、その的中印のついた的とともに記されたもの。
383新潟砲術書類書                      一袋(二五点)
 「川村扣」と上書されている。379と同様の砲術的中についての記録。
477〜507は蝦夷地関係史料。主なものは左の通りである。
477蝦夷地取締方の件 寛政二年
 幕府から松前藩への達。
478蝦夷地御用御趣意書付 寛政十一年
 幕府からの達。徳化教育の重要性を説く。
483松前志摩守領分場所場所為見廻罷越箱館在々蝦夷地の様子見分仕候趣奉申上候書付 天保二年
 普請役内藤卯三郎などの報告書。
484蝦夷地請負人高田屋金兵衛吟味の件 天保三年
 河久保忠八郎の上申書。
490松前蝦夷地之儀ニ付御内々申上候書付 天保十二年
 川村清兵衛の上申書案。東蝦夷地の上知を提案している。
491松前并蝦夷地之儀御尋ニ付見聞仕候趣申上候書付 天保十一年
 普請役田村五郎四郎の上申書。
492松前噺 天保十二年
 松前の風聞について、秋田浪人佐藤平左衛門からの聞書。
505東蝦夷地ヤマコシニ而金山問堀之儀ニ付相伺候書付 天保十二年
 川村清兵衛が提出したものゝ案文と思われる。
506東蝦夷地御主法之儀ニ付評議仕候趣申上候書付
  以下のような注記がある。「天保二卯年九月中、左之通迄ニ御調御座候処、十月廿九日、松前志摩守江被仰渡候趣も御座候ニ付、御進達御見合ニ相成候、」
542日記書抜 天保二〜十四年                      一冊
   清兵衛自身が自身の日記を書抜いたもの。
546慶応戊辰日新記                           一冊
  慶応四年の初め、将軍に随って江戸へ帰った清兵衛が、江戸で記した日記。政治上の記事はとぼしい。
583万融院様御手留
 代々の年譜。壱の冒頭を引用する。
 「 安永七戊戌年
   十二月廿七日
                  
           助次郎弟 川村繁之丞 小十人格御天主台下御庭番 戌拾八才
                              
 新規被 召出、西丸御広敷添番並被 仰付、勤候内御扶持方拾人扶持被下置候旨、於焼火之間、若年寄衆御出座、加納遠江守殿被仰渡候……  

   同廿九日
  西丸焼火之間於御席下、誓詞被仰……                   」
643御庭番御内々遠国御用被仰付候廉書
  「  天明七未年七月十九日              
                             
                          古坂政次郎 両御番格御庭番
西国四国九州筋江                     
                                村垣左太郎 同
                             
                         高橋三左衛門 小十人格御庭番
東国北国筋江                    
                                和多田要人 同
    天明八申年二月
                             
京都江 
                          梶野平九郎 小十人格御庭番
                                                                   明楽八五郎 添番並御庭番
 同年七月
                               古坂政次郎
美濃国江
                                和多田要人
 寛政元酉年七月
                                古坂政次郎
上方筋江
                             
                            明楽鉄之丞 吹上添奉行
 同二戌年六月
                               古坂政次郎
越後国筋江                          川村仁右衛門
 同五丑年二月
                               古坂政次郎
上方筋江                           村垣左太郎
 同六卯年八月
                               村垣左太郎
勢州江                         
                           高橋松三郎 添番並御庭番
 同年九月
右同所江                           村垣左太郎
                               高橋松三郎
 同八辰年三月
越後国江                           古坂政次郎
                               村垣左太郎
 同年四月
                            
                        明楽八五郎 御休息御庭之者支配
上方筋江                        
                           高橋松三郎 添番格御庭番
 同年七月
                               村垣左太郎
紀州江                         
                         馬場善右衛門 小十人格御庭番
 同九巳年十一月
                              村垣左太郎
松前表江                 
                              高橋松三郎
 同十一未年四月
                              村垣左太郎
                           
蝦夷地江
                           梶野平助 両御番格御庭番
                           
                           和多八三郎 添番並御庭番
 享和二戌年正月

対州表江                          村垣左太郎
                              高橋松三郎
 同年七月
                          
                          中村与八郎 両御番格御庭番
                           
関東筋江
                            古坂与吉 御休息御庭番
                           
                           高橋松三郎 添番格御庭番
文化元子年十一月                   
長崎表江
                              古坂与吉 後
                           
                              梶野平助 前
 同三寅年十二月
                              梶野平助
                           
松前江差表江箱館                 古坂恒五郎  小十人格御庭番
                           
                             和多田八三郎 同
 同九申年九月
                              梶野平助
上方筋江                       
                          村垣専次郎 両御番格御庭番
 文政元寅年正月                      村垣専次郎
上方筋江
                              明楽八五郎
 同年五月十七日                      村垣専次郎
浦賀表江
                              明楽八五郎
 文政四巳年三月
                          川村庄五郎 小十人格御庭番
関東 東海道 筋江                   
                            倉地新平 添番格御庭番
 同七申年十月日
                              川村庄五郎
日光表江                    添番並西丸山里御庭番
                              高橋勇吉郎
 同九戌年六月                       明楽八五郎
上方筋江                          川村庄五郎
 同十二丑年二月

関東 甲州 東海道 筋江 
                              川村庄五郎
                           
                         高橋与右衛門 小十人格御庭番
天保元寅年七月                            
                              川村庄五郎
日光表江
                          
                          倉地新平 御休息御庭之者支配
 同二卯年六月 
                              川村清兵衛
日光表江
                          
                         中村久左衛門 小十人格御庭番
 天保四巳年三月
                              川村清兵衛
上方筋江
                          
                          倉地久太郎 小十人格御庭番
 同五年六月
                             中村久左衛門
紀州江
                              倉地久太郎
 同七申年三月
                          
美濃伊勢 東海道 筋江
                          村垣左太夫 両御村格御庭番
                          
                          倉地久太郎 小十人格御庭番

 同八酉年三月
            
                              倉地久太郎
大坂表江
                          
                          村垣与三郎 小十人格御庭番

 同九戌年三月
                           
甲州江
                           川村新六 小十人格御庭番
                              村垣与三郎
 同十亥五月
西国四国九州 五畿内筋 江
                              村垣左大夫
                              川村新六
 同十亥年五月
                           
東国北国 東海道筋 江
                          和多田金七郎 小十人並御庭番
                              村垣与三郎
 同十二丑年六月
                              川村新六
出羽国 越後国 江                     村垣与三郎
 同年十二月
                              村垣与三郎
常陸国江                        
                              馬場滝三郎 添番
右之通御座候、以上、
寅十月                           梶野士佐守
                              川村清兵衛

673上方筋御用手留 嘉永七年七月〜十月                 一冊
 一部を左に例示する。
 「閏七月廿日
 

 一、今日、本郷丹後守殿、久太郎江御逢有之、去ル四月六日、京都御所炎上并六月中上方筋地震ニ付、所々破損潰家荒地等有之候ニ付、御庭番両人、彼地江被差遣候間、名前可申上旨内意有之候ニ付、川村清兵衛・明楽八郎右衛門両人被差置候様仕度旨、直様申上置候旨、久太郎〓八郎右衛門方江内状ニ申越、明日同人出勤致居候様、是又申越候趣、夜ニ入、同人より文通ニ而申越候ニ付、及返書置候、
    但八郎右衛門、少々風邪気ニ付、明日登城不致、両人御呼出之上ニ而罷出候心得之旨、是又申越候、
上包美濃紙
証文

            両御番格御庭番
                川村清兵衛
                明楽八郎右衛門
   右者就
   御用、上方筋被差遣候条、可得其意者也、
     嘉永七寅年八月           本郷丹後守印
                       竹本主水正印
                       平岡丹波守印
                       夏目左近将監印        」
                       

 御庭番川村清兵衛が上方へ派遣された時の日記。ただし、京坂の様子は704京坂滯留中日記に譲ってある。
738万延元年申六月廿八日ヨリ九州筋御用之筋手留
 内容の一部を例示する。
 「  六月廿八日
 一、今日、御本丸当番ニ而罷在候処、九時頃久太郎西丸当番ニ而面談之儀候間、相廻り候様、与八郎を以申来候ニ仕、艮剋相廻候処、今朝丹後守、久太郎江御逢ニ而、御庭番遠国被仰付候而も、此節御人少之折柄、御差支も無之哉之旨被相尋候ニ付、遠国御国ハ、御庭番第一之御用柄故、聊御差支無之旨申上候処、左候ハヽ、多分被仰付、薩州表江被遣候儀ニ可有之候、就而ハ、何れ壱人ハ清兵衛、壱人ハ誰ニ而可然哉、何れ又候可相達旨被申聞候間、其心得ニ而可罷在旨、同人被申聞候、
     七月二日
 丹波守殿御登城還ヶ罷出候処、左之通被仰渡候、
  遠国御用被仰付、薩州表江被差遣候、右御用柄ハ松平修理大夫、当四月参府可致と途中迄罷在候処、当三月三日之一条承知いたし、国許江引返し、病気申立出府不致候(中略)右等之廉之様子承糺候事、且
  御代替後初而之御用ニも有之、南都并西国筋一体之儀も取調可申上事、    」
818寄合廻状留 川村用所 慶應四年戊辰正月ヨリ
  勤仕並寄合の廻状留。同年正月からの幕府の動き、旗本への命令等が具体的にわかる。次に記載例を掲げる。
 「正月二日肝煎衆〓之刻付廻状就至来布施邦太郎殿江順達
  猶以五拾歳以下之衆は兼而御承知ニは候得共御心得〓ニ御名前書載申候以上以廻致啓上候然は美濃守殿御渡候御覚書写壱通相廻し申候就は西丸下酒井左衛門尉御預り屋敷之内泊番等も有之候間右ニ付御問合之儀御座候ハヽ紀伊守方江可被仰聞候廻状刻付ヲ以御順達止り之従御方同人方江可被成御返候以上
  正月元日                    寄合肝煎
   〔寄合肝煎江
        覚
 天璋院様
  非常御立退之節五拾歳以下ニ而三千石以下勤仕並寄合并寄合之面々御供御警衛被 仰付候得共猶不容易形勢ニ付而は五拾歳以上ニ而も同様御供御警衛相勤候様可被致候委細之儀は御目附江可被談候尤御留守居天璋院様御用人江相談候様可被致候事
 正月廿八日
  此度公儀所御取建相成候ニ付布衣以下小役人ニ至〓頭支配ニ而壱人ツヽ撰挙致可差出候事
  (中略)
  此度会儀御開相成候ニ付布衣以上之御役人并寄合有志之面々来ル廿九日四時〓大廣間江可被差出候事
  (下略)                        」
819は818の続き。
908蹴鞠御客振舞の事
  原題は「於御本丸飛鳥井殿蹴鞠相手」。以下の人名が蹴鞠相手として記されている。 江戸町人鳥海太平次、大坂町人筒井新六、京都町人瀬尾嘉酔、飛鳥井殿家来兵木頼母、駿河町人大谷作右衛門、美濃修験南岳院常閑、江戸町人馬込源兵衛、右同断加藤弥兵衛、武州百姓門井清左衛門、飛鳥井殿家来酒井嘉助、小田掛権右衛門
 二 新発田市立図書館
 新発田市立図書館の所蔵する新発田藩政史料については、同館が発行した「郷土資料目録」の第一集および第二集によって、全体の様子がわかる。今回は、この中から、幕末維新期の主な史料を閲覧した。史料名の上の番号は、「郷土資料目録」の目録番号である。A01.4/23/7—1 京都御警衛御供詰人別帳 慶応二年三月
 同年の京都御所警衛の供詰人別帳で、惣人数五〇〇人程で士以上一五三人・小役人七二人・足軽以下二五六人の姓名録である。なお、以下の六点は同じ京都警衛関係の一連のものである。
A01.4/23/7—2 京都御警衛御詰御手配筋等取調方御沙汰ニ付評議申上書 元締
A01.4/23/7—3 頭書
 例えば、「一行列之内差配侍分与有之ハ物頭歟諸役人歟平士歟問合之事」という問いに対する答を記した、警衛に関する問答書。
A01.4/23/7—4 御上京御供人御渡物一件并追心附之趣談合取調願申立書 写 元締
A01.4/23/7—5 京都御警衛御人数配帳
 一ノ先・二ノ先備、しんがり備の定を記し、人数・人名配置を示す。
A01.4/23/7—6 御先番堀田様ニ而野宮様江御伺書之写 但御付札御差図
A01.4/23/7—7 御先番堀田様ニ而野宮様江御伺書之写 但御附札御差図
A01.4/27 御警衛御在京日記 慶応二年四月ヨリ
 同年の京都御所警衛にともなう在京日記。次に記載例を掲げる。
「   四月廿五日
一、御着掛、関白様御始御回勤可被遊之処、少々御疝瀉ニ被為在候付、御回勤御見合、御行列之儘御旅館所新町頭妙覚寺江八時過頃被遊
 御着候事、  

一、御廻勤無之ニ付、左之通御届御使者……
                        二条関白様
                        両伝奏
                          飛—
                          野宮—
                        議奏
                          正親町三条—
                          六条—
                          柳原—
                          広橋—
                          久世—
                          松平肥後守様
  私儀只今御当地京着仕候処、従今暁疝瀉罷在、伺出難仕候、此段御届以使者
 申上候
        四月廿五日               御内
                            ─
                         所司代
                             松平越中守様
 拙者儀—

                         議奏御加勢衆五人に
 私儀今般京都為御警衛上京被仰付、御当地参着仕候、右御届以使者申上候、
                         一橋大納言様
 私儀今般京都御警衛として当四月〓六月迄在京被仰付候付上京、今日御当地参着仕候、此段御届以使者申上候、
       四月廿五日
                            御使者
                            ─
                         嘉 陽 宮 様
 前文言同様ニ而御届
                         両 町 奉 行
                           ─
                           ─
                         禁 裏 付
                           ─
                           ─
                           ─
 拙者儀……右御案内、以使者申入候、
                           石井左衛門督様
                           平松三位様
                           千種侍従様
                           

暖和之節御座候得共、弥御安泰被成御座、珍重御儀思召候、将又今般主膳正様御儀、京都為御警衛、当四月〓六月迄御在京被仰付、今日御参着被成候、御不案内之儀被成御座候間、御滯京中御心添被成進候様被成度思召候、右御案内御

 頼旁以御使者被仰進、
     四月廿五日
                           御内
                            ─
  ……
     四月廿九日
一、所司代〓御呼出ニ付、寺田喜三郎罷出候処 左之通御書付を以被仰達候旨申聞事、
                           溝口—
  日之御門前警衛被
  仰付候間可被請取候                    」
A09.3/2〜17 達書

 「申渡留帳」「時々達留帳」「時々申渡帳」などの名称で、天明五年から明治四年に至る時期の達留が三八冊ある。当初は町方のみで、文化十年以降は寺社町方と郡方との二系統がある。寺社町方の留帳は一人の奉行が寺社方と町方とを兼帯していた時期の達留であって、寺社および町方への達は区別される事なく日を追って留めてある。達の内容が具体的であるので、その内容を通して寺社や町の状況を具に知ることができる。また、町人などからの願書も留めてある。このほか、「但、在中江郡奉行所より触達候写別紙壱通、為心得相達置候間、可被得其意候」というような註記と共に、郡方への達が記載されている例も多い。
 郡方の留帳も、各大庄屋組に宛てた具体的な達が多く、そこから、当時の在方の様方をうかがう事ができる。
 以下に、寺社町方達書の記載例と、さらに、郡方達書の記載例を示す。
A09.3/9/3 時々達留帳 寺社町方嘉永五年〜同六年
「一、子十二月十一日、左之通御達ニ付御口達
                           畠山中務江
其方義、亡父上総跡相続、触頭役申付、尤若年之義ニ付、大和江後見申付候間、其旨可相心得候、
                         外城村社人
                             大和
畠山中務義、此度亡父跡相続、触頭役申付、尤未若年ニ付、其方へ後見申付候間、職道不取煩様、諸事入念取扱可申候、                        」
「一、丑十二月六日、御月番午蔵殿〓詰合一同付人迄御呼出、今般相模国浦賀表海岸江亜墨利加船漂流一件ニ付、御月番半之允殿左之通御達ニ付、可得其意旨、被仰達候間、一同重ク畏候旨御受申上、并翌七日、小頭喜平次御呼出之上、右同様御達被成候事
 従江戸御使有之、去月朔日、殿様御登城被遊候処、御老中様方御列座、阿部伊勢守様〓御直御渡之御書附写別紙拝見被仰付、万一ニ臨ミ、未練之義無之、各忠節を可抽旨御沙汰之趣、支配下江可被申含候、尤末々之もの江〓、御書付之趣差含、小頭〓為申含候様可被相達候、
   但、御書付写入用相済候ハヽ、返上可有之候、              」
A09.3/11/(1) 時々達留帳 寺社町方 安政元年〜同二年
「一、三月十二日左之通御達
  一金拾五両      明王院
 但当年本山三宝院御門主御入峯ニ付一派之修験一同供奉可致旨達ニ付一自分并二代賢随義も召連罷登右供奉之節官位為致度之處諸入用過分相掛難渋ニ而才覚手段無之趣を以金五拾両拝借願出候、右〓官位入用等拝借之御振合も無之ニ付難及沙汰候其方本山供奉ニ付入用之義御時節柄ニ〓候得共、無余義相見候ニ付格別之訳を以願之内右高拝借年賦返上申付候間当卯暮〓一ヶ年弐両ツヽ未年〓壱両急度返上可致候、            」
「一、                  明王院
  其方儀忰賢随当年官位之ため本山供奉上京序召連度之処、前々難渋ニ付彼是諸入用与て金五拾両先般拝借願出候得共、官位入用等拝借振合も無之ニ其方供奉入用与して金拾五両拝借申付候処、賢随官位金指支之趣ヲ以拝借金又ハ御家中町方計当年相対奉加被仰付度旨無余儀相聞候ニ付、御家中町方相対奉加願之通申付尤物之多少ニ不限志次第可致候間聊も御威光ヲ差含ねたりケ間鋪筋無之様可致候、
   但御家中江も相達置候、且奉行所〓町方江達書写前代中壱通相達候間可得其意候、     」
A09.3/12/ 時々達留帳 寺社町方 萬延二年
「二月廿五日
 一、此度親鸞上人遠忌ニ付町方身元之者ハ勿論挙而上京いたし候趣相聞候処、近年之義凶作打続一同困窮之上諸色高直ニ付日用営方差支町方小前難渋もの粥を始直安米等之御手宛を以漸々露命相繋居候躰之者多分有之、其上ニも極窮之者ハ御家中始所々袖乞いたし歩行候趣ニ相聞不容易困窮之次第ハ銘々思召聞も有之處右体之困苦を余計目ニいたし祖師之遠忌与申候〓仮令身元之者ニ有之候而も当節柄をも不顧何之無斟酌上京いたし候段甚無心次第ニ有之(下略)                             」
A09.3/13/(1) 時々留帳 寺社方 文久二戌年
「一、三月七日検断中村藤蔵呼出左之通相達
  一当町方ニて近来尺八稽古いたし、中には虚無僧寺へ入門、師弟之契約いたし候様申唱、虚無僧之姿ニ出立町在徘徊候者も有之趣相聞心得違不埓之至ニ候(下略)   」
「一、四月十九日
  水原御支配所大中嶋村医者修平義当戌〓来子〓三ヶ年之内御領内町在江種痘施薬仕度旨願之通聞済候間其旨修平江可相達候
  種痘施薬ニ付修平〓被出候趣意書左之通
  一村々種痘之儀前広私方〓其村々へ申遣候ハヽ其村名主或〓可然方ニ而種痘施薬請度者与人数調置、当日手広之宅ニ而種痘候宿申合置候様仕度、私義ハ弟子壱人召連 種痘仕 其後八日目ニ再ヒ罷越診察之上其内苗痘ニ可相成小児を隣村〓召連相移シケ様仕度奉存候事(下略)                                」
「一、五月六日 口達振
  日下部大和義当夏江戸大角力当方江罷下り候節道普請修復為助成興行仕度旨願出候得共未タ一同不治定之義ニ付願書差戻候、尤以来〓弥当国筋江罷下り候処ニ而日取場所ホ取期、書付相添事実を以願候様可被致候、                    」
A09.3/13/(3) 時々留帳 寺社方 文久三亥年
「一、十月六日左之通御達之事              当町検断
  桶町借屋良伯儀病人為療治家伝之薬湯相立度旨兼而聞済置候処洗湯ニ紛敷取計いたし候由ニ而風呂屋共〓品々迷惑筋歎出差留置候処尚又病人面々を以願書候右〓療治之儀ニ〓候得共医僚之儀ハ鍼薬之儀候得〓引受病人不残入湯不為致候而ハ療治不相成与申訳ニハ有之間敷ニ候右之内入湯ニ無之候而ハ療治難出来病症之もの而已両三人位願之通聞済候尤入湯之儀ハ一ト廻り与歟二タ廻リ過て三廻リ位之ものニ候入湯ニ無之候而ハ療治難出来ものハ名前日限り其時々相届可申(下略)                     」
A09.3/13/(3) 時々留帳 寺社方 文久四年
「一、九月廿五日
  当町三組 岡方 山嶋 沼垂町濱通右組々検断庄屋勝手向之儀去ル卯年御趣法替後間もなく御大造なる御公務を始御領内折々之水難堤通普請窮民御手宛不容易御物入打重り候折柄御位階御昇進引続御上洛供奉上々様御下向定府御差下禁闕御守衛佐州御警衛其外不時臨時不可牧挙候處孰も急處延引きならさる御入用ニ付都度々々大坂御蔵元地廻当分御才覚を以一過之御用度ハ兎ニ角繰合候得共一時莫大之御借財高ニ相成右御返済方ハ勿論此後之御繰廻必至与御差支之場ニ至リ然ルニ方今之形勢何時異変可有之も難計片時も御安堵難相成彼是御当惑之次第ニ付此度御領内石掛ニ而三萬五千両才覚被仰出候郡中之儀も近来品々御用も被仰付候折柄ニ付可成御用捨被成下度思食候得共孰も承知之通打重リ未曽有之臨時ニ而何分御差略も出来兼不得止事被仰出候次第ニ付小前末々〓得与申諭旧来御国恩ニ浴シ冥加之程相弁ひ御用度相整御安堵ニ至リ候様厚心配可取計候御返済方ハ別紙書付相渡候、   

  子九月
      覚
 一、三万五千両  石掛才覚
  但無利足来ル寅暮〓弐拾ヶ年賦壱ヶ年千七百五十両ツヽ御下被成下
      内
    弐万両   当暮納
    壱万五千両 来丑七月納
   子九月                                」
A09.3/14 時々留帳 寺社町方 元治二年
「一、三月十六日、御城江御呼出之上左之通御達之事
                          郡奉行
                          寺社町奉行
                          御預所奉行
                          御勘定奉行
                          御普請奉行
                          

 手代附人御版行方山守之義、万一之節御遣方之ため炮術堀一藤次へ世話被仰付、(大筒方)角前稽古いたし来候得共、常々習熟不致候而〓、急拠之場合実用之働難出来ニ付、此度毎月日割を以、西洋炮角前共調練稽古申付候、繁勤之向も可有之候得共、差略いたし無懈怠入精、非常之節一廉御用度ニ相成候様可被取計候、右ニ付高山安兵衛堀扶持之助懸調練之義ハ軍事方江世話被仰付候間得差図候様可被相達候、(御近習頭)(目付)尤稽古之ものへ野扶持米被下置、且玉薬其外諸雑費も御渡被成下候、当節御物入多之義も各承知之通ニ候処、右躰御手厚ニ御世話有之義、実不容易次第ニ付、厚申諭、支配頭ニも折々出席御趣意行届候様、厚心配可被致候
   丑三月                                」
「一、六月触頭明王院義、本山秘密之陀羅尼助薬、本山〓取締向達有之、且町方信仰之者へ施薬仕度旨願出候ニ付、御手限御聞済之事、
   明王院                     山田吉太郎
 本山秘密之陀羅尼助薬、店ニ而紛敷売薬相制、(製カ)猥ニ売弘メ候者有之趣相聞候由ニ而、取締向本山〓達有之候ニ付、右薬信仰之者へ施薬仕度旨願之通聞済みニ付右之趣町方江相達候間、其旨可被相心得候以上、                    」
「                     録所
                      触頭
 此度就
 御進発、寺社御奉行〓諸寺社献金之義、別紙之通御達有之候、尤本所本山=達可有之候得共、右書付之趣意厚御心得、配下寺社江面々力丈ケ出精献金致候様、�御取計可被成候、納方之義〓当役場ニ上納致度面々〓取集御差出可被成候、
   丑五月                                」
「一、七月六日                    当町検断
 此節新潟表米相場引上ケ候〓、当町穀屋共在方持出米買込、或〓手持米等、川下ケいたし由相聞、弥右様之義有之候ニ而ハ、当所米不足ニ[ ]迷惑ニ可及ニ付、右躰川下ヶ米之義厳重差留方�取計候、
   丑七月                        」
 次に郡方達書の記載例を示す。
A09.3/9/(4) 時々申渡帳 郡方 嘉永七年
「一、壬七月十日、左之通、泉町助九郎達方、村継ニ而五十公野組庄屋逸八方へ申達ス
      覚
一、会津家中新安藤兵衛義、国産之品々与松前産之魚類交易いたし度ニ付、当町ニおゐて上町徳兵衛、泉町助九郎を下タ計ひ方ニ遣ひ度旨、其筋役人中〓掛合来候ニ付、右交易荷物駄送之義、当町并継所村々江及沙汰候処、此度徳兵衛、助九郎儀、継所村役人江夫々対談ニおよひ、駄送規定為取交書差出候、右ニ付、先方江も打合之上、壱ヶ年試として駄送之義、藤兵衛申立之通聞済候、依而右交易取計中、下計ひ方、徳兵衛、助九郎江相達候間、申合、何儀も正路ニ取扱可申旨可相達候、
   寅閏七月                               」
「  九月廿四日
一、江戸御留守居方〓左之趣、寺社方与両向江申来候ニ付、以村継例之通川北組庄屋共へ相達候事、
    御達手扣
 嵯峨御所御役所内大野郡司と申者、江戸御留守居方江罷越、近来紛敷受領呼名乗候もの有之趣、相聞候ニ付、当国見廻として柴山平之進近々差遣候旨、別紙写之通申立候段、申来候、右〓、御領内ニおゐて位階受領且菊桐御紋呼名等之差免無之ニ、猥ニ菊桐御紋付呼名等相認、紛敷看板等ヲ差出候者無之訳ニ候得共、若心得違之者有之、被見咎候ては、品ニ寄不容易迷惑ニも相至可申ニ付、為心得相達候間、其旨村々江も不洩様可申達、右之趣外組々江ハ、其方共〓可申含候事、
   寅九月
 別紙写
     口 上 書
 位階受領呼名等被差
 免来処、近来紛敷受領呼名等相名乗者有之候ニ付、以来外々江猥ニ申込、紛敷相名乗不申様、江戸京大坂夫々江御説諭之儀被仰出候処、近来紛敷受領相名乗候趣相聞候ニ付、越後国見廻り、柴山平之進差遣候間、此段可然様ニ御領分江御達被下候様奉頼候、以上、
                        嵯峨御所御役所内
    八月四日                    大野郡司      」
A09.3/10/(1) 時々申渡帳 郡方 安政二年
「一、六月十七日、左之通被仰付候間、書下ニ而五十公野組詰掛名主六郎右衛門江達ス
     覚
一、此度於清水谷大鋳筒立ニ付、入用土砂八百駄、五十公野真木山桃山〓運送申付候間、品々難渋筋申立、賃銭御渡方願出、右場所ニ不相当之駄賃仕訳差出ニ付、相糺候処、去年中土砂運送之砌〓、川々出水、堤切等ニ而、人足遣立、……無拠雇馬等為致候〓、賃銭増相成候間、五十公野桃山之分ハ、壱駄ニ付百五拾文、真木山之義〓土取場迄弐里余も有之候付、壱駄三百文ツツ御渡被成下度、其余増銭之分ハ三組〓相弁申、尤以来引格不致旨、猶又申立之、右〓近年違作相続之上、……難渋之次第、其筋申立之趣も有之ニ付、格別之訳を以此度限り、左之通御渡被成下候間、其旨申達、請書可差候、已上、
   卯六月 郡方
                        三組庄屋方
一、銭百五拾貫文 (大筒鋳立入用 土砂運送八百駄 分賃銭
 但五十公野〓桃山砂ニ而六百駄、壱駄ニ付百五拾文、真木山〓壱百駄、壱駄ニ付三百文宛                                     」
「一、十月廿五日、左之通御士附速水八弥殿〓御達ニ付、以書下、詰懸り庄屋阿部節之助江達ス、
     覚
一、当夏中、佐州相川沖江異国船相見、一ノ手出張之節、差付候力夫江被下金を始、留守扶持并二ノ手力夫江被下金共、左之通御渡被成下候間、其旨可申達候、以上、
   卯十月 郡方
                        三組岡方組 山嶋組々庄屋宛
一、金四拾三両弐分
   但一ノ手力夫八拾七人用意金、壱人ニ付弐分ツツ米三石四斗八升
   但残家内江被下扶持米、四月廿日より同廿三日迄、日数四日分、力夫壱人ニ付、一日壱人扶持ツツ
一、金三拾両三分
   永八拾三文三分九厘五毛
   但二ノ手力夫百八拾五人分懸り被下金、壱人ニ付弐朱、永四拾壱文六分六厘七毛
一、十一月二日、左之通御達
   三浦彦太夫殿                速水八弥
 当夏中、佐州相川沖合江異国船漂流一件ニ付、五十嵐文六始御他領之者江御会釈、別添申立之通、存寄無之候間、被下方�被取計………金子之義其向江断置候、巳上、
    十一月二日
一、金千疋                    五十嵐文六
  但当夏、佐州相川沖合ニ異国船漂流ニ付、人数差向之節、渡海船雇方を始、諸品用意方等之儀手配方、出役人江万端深切ニ申談、何儀も差支不相成様、厚世話いたし呉、……其地江出張ニも不相成、心懸�、格別用弁相成候ニ付被相贈、          」
 ※その他沢海御知行所新飯田町や村上ツバメの庄屋、同所地蔵堂年寄、桑名寺泊問屋にも金子が贈られている記事がある。
A09.3/15 時々申渡留帳 慶応四年
 「郷土資料目録」第2集には、寺社町奉行分となっているが、内容を検討したところでは郡方のものと思われる。

一、正月廿八日 左之通御達相成候事
                           諸役人
                           諸支配頭
 追々相達候通、切迫之時勢、何時非常之変も難計義、各ニも承知之通有之、然ルニ瑣細不急之御用向も、平常躰之取扱ニ而〓混雑いたし、自然当今之先務之取調も行届兼候哉ニ付、日用之御用向〓暫く差置、不差急願事或〓申立筋も差扣、御軍務一途ニ心懸可被申候、然ル上〓下役共も、右勤方ニ餘暇武術一ト際入精可致義勿論之事ニ候、
  (中略)
一、二月五日、左之通三組庄屋共呼出之上及口達候事、
    口達
……左之村々も町方同様之儀ニ付、村役人共ニ而探索いたし、疑敷躰之もの寄宿為致置候者有之候ハヽ、早可立候、仮令慥成ものニ而も他領もの〓勿論他支配之者等、逗留為致置候様義有之候ハヽ、是又早々差立、実地御締向厚心配可致候、
  辰二月五日
      猿橋村、東村、泉村、二枚橋長屋                 」
「一、三月四日、左之通御達ニ付、詰懸り庄屋共御呼出之上、御達相成候事、
  銃隊掛中        溝口靱負
 銃隊共儀、非常為御備、追々為呼登置候処、品々難渋筋等申立、自然気栄も不宜、当節人気引立不申候而〓不相成ニ付、銃隊勤中、帯刀差免之儀被申立候、右〓帯刀之義、容易ニ難聞済候得共、当節非常御遣方有之、其上登込之者、帯刀場江も遣立候儀ニ付、格別之訳を以銃隊勤中、帯刀差免候間、其旨可被相達候、御扶持方被下之儀ハ、申立之趣も有之候得共、難及沙汰候、以上、
    三月四日
   口 達 扣
 三組岡方山嶋組々浜通組、銃隊人共儀、当節非常御遣方有之義ニ付、格別之訳を以、自今銃隊勤中、帯刀差免候間、其旨可申達候、
一、八月十九日                新津組庄屋 桂 慎吾
                             同 謹吾
 其方共儀
 大政御一新之御趣意厚く相弁、専ラ勤王筋相心得、殊勝之儀ニ付、出格之訳を以新津町始拾五ヶ村支配被仰付旨、民政局〓御達之趣申出……              」
A09.31/6 時々申渡留帳 明治二年
 同目録には寺社町奉行分とあるが、郡方のものと思われる。

一、三月十七日、左之通御書下、詰懸り庄屋今井金次江相達候事、
      覚
一、戦地御遣立歩卒討死之もの跡、御手元向之義、兼而相達置次第も有之候処、当節、兵隊御取立之御時節も有之ニ付、格別之以思召、右相続人共之内、御奉公申上度志願之もの江=、弐人扶持被下置、被召抱候ニ付、有志之もの有之候ハヽ、老若之外強壮主意御用度相成候もの取調、急速可申聞候、……

    巳三月  窪加右衛門
                            新発田組
                            五十公野組
                            川 北 組
                            小須戸組
                            蒲原横越組
                            中之嶋組 庄屋方
一、九月廿八日、左之通御呼出之上、御相達成候事
                        中ノ口組 上木山名主 彦之丞
                        

 其方儀、
 御国恩相弁、去秋中、願之上、若松表小荷駄手江出張、且同所民政局江被遣立彼是尽力之始末、殊勝之義ニ付、其身一代、独
 御礼申付、
   巳九月
一、十二月晦日、左之通御達ニ付 五十公野組名主竹次郎 岡方組 同 藤三郎 江以書付相達候事
 三浦彦大夫殿                速水八弥
  左之通可被相心得候、以上、
    十二日晦日
                        三奉行
 五十公野組庄屋井上千代之丞、岡方組庄屋曽我長左衛門始有志之者、一隊を取立出兵いたし度旨、願之通申付候処、所々進撃いたし、右出兵中諸入用付候上、仕分書を以御渡方願出、右〓不相当之口ニも相見候得共、扱済ニ付、左之高御渡被下候間、以来引格不相成旨相達可被申候、尤残り諸品、器被方江相納候様可被相達候、
  金三百二拾四両  五十公野組拝借分 差引残高
  金百四拾壱両   岡方組右同断                     」
A10.2/20/(1) 御在城御留守行事 元治元年四月〜十二月
 月番家老の記録。城中の外、月番家老宅にて政務を執り行うこともある。本書は、各種部局の関係内容を網羅しているが、しかしそれらすべてを写し置くというよりは取捨選択がなされている。藩の最高機関の記録として、後日、作成されたものと理解出来る。当年の月番家老名は、速水八弥(一月)、溝口半之允(二月)、溝口内匠(三・五・七・九月)、溝口十蔵(四・六・八・十一)、窪田平兵衛(十・十二月)である。次に記載例を掲げる。  

「(正月)廿七日
 一、会所御用ニ付拙者共宮北郷左衛門出仕御目付里村縫殿御相詰候事、
 一、左之通相達元〓江改候事、
    (中略)
                        山庄 小左衛門
                        郡 奉行
                        町 奉行
                        御勘定奉行
                        

 醫師たる者醫学之儀ニ付天明年中左之通被 仰出候処近年医学館出席少ニ而中ニハ醫学一向不心掛候族も相聞心得違之事ニ候、已来被仰出候御趣意弥厚相心得館中江罷出勉励可致候、他邦修業於ハ猶更之儀帰国之上開業いたし候とも病用繰遣不怠出席猶以研窮いたし末々御用立候様可心掛之旨御家中を始町在諸生不洩様可被相達候、
 天明年中御触書写
 醫師たるもの醫学不致候而ハ難成儀ニ候然ル処御當地ニ而〓修行もいたし兼可申ニ付格別之以思食醫学館被建置候処講会共ニ出席人少ニ相見其上一見致出席候者も欠座多く心得違之儀ニ候依之以来御家中を始町在医師末々諸生ニ至〓右之趣相心得講会江罷出可致出精候、
   九月
一、右医師之外醫学望之者も勝手次第之事、
 右以手紙達
                          講師
                          舎長
 右之通被 仰出候間其旨相心得猶以厚教導いたし可成丈休会等無之様可被申合候
 右山庄小左衛門江達
一、郡奉行町奉行江町在ニ而旅医師逗留いたし口説を以人を欺き胡乱なる方術を施し候もの有之其害不少事ニ相聞候以来猥ニ療治等いたし候儀差留無余義筋ニ而開業相願候様之儀有之候ハヽ其時々申立次第得ト穿鑿之上申付候方ニ相成可然哉於各得ト評議之上申聞候様達候事、
一、小右衛門江右之通被仰出候付而者他邦修行願ヲ始御番入被召出其外新規被召抱御米被下等凡而職業精不精之模様ニより御沙汰之次第も有之ニ付右之心得ニ而取調申聞候様口達いたし候事、
一、二月十九日
 町奉行〓左之通町仕江可相達哉之旨評議伺之趣存寄無之達方�取計候様相達候事
  町仕醫者之儀従他邦良医之方修業を遂開業可致之處近来中ニハ医学未熟ハ勿論一向不心得者にても開業いたし口説を以胡乱なる方術を施し或ハ出生不慥成施医者等之治療を受候者も有之哉ニ相聞医術之儀ハ人命ニ預リ不軽儀ニ有之間向後猶以町村役人共厚致心配右体之者及見聞候ハヽ堅差留且以来従他邦医者住居開業相願候節素生を始修業候次第得ト遂穿鑿締向行届候様可致候、
 (正月)廿八日                      」
一、(下略)
 正月廿七日付の中に、関連する達しとして二月十九日付の達しが記されていることから、後日に記された記録であることがわかる。
「(九月)廿五日
 町在江石掛才覚金被仰付候付検断庄屋共会所江呼出町奉行元〓列座月番之郡奉行七里敬吉郎左之通申渡会所役人山中仙右エ門出席町奉行手附大橋彦四郎郡廻青木郡兵衛罷出差引いたし候事、
一、右ニ付前々日月番町奉行元〓御用部屋江呼出し月番内匠 御勝手方主役 上京ニ付月番ニて引受 〓検断庄屋共江被仰渡一件申合右ニ付書付弐通相渡候事、
  御勝手向之儀……(A09.3/13/(3) 時々留帳 寺社方 文久四年の九月廿五日付の達しと同文故、略す)   

一、右申渡之節罷出候面附左之通之事
  当町検断中村藤蔵
     大野安之助 岩村恒次郎
  
     斎藤伊喜 次五十公野組兼 新発田組庄屋
    (下略)                              」
A10.2/21 御滯府中 行事 慶応元年
「(二月二日)
一、軍事掛江佐州江左之通可申送方�取計候様達候事
                        坂井栄五郎
                        三浦四一郎
                        

 佐州御警衛詰炮士始御足軽共〓、炭薪ハ勿論諸色直段逐々引上、雑費相掛難渋之趣を以、拝借金願出候、右〓相当御渡之外品々御質物等も有之処、勝手之願難及御沙汰訳候得共、乍去冬分ニ至リ候而〓通船打絶、諸色直段益引上ヶ、暮方差支之趣、無余義相見候付、各始一同江去十月〓十二月迄三ヶ月分、御扶持方相場弐割増之処三割増被成下候間、其旨相心得、達方�被取計候、
  (中略)
   二十日
 佐州表御警衛之儀、去ル亥年被仰付、(文久三年)榊原式部大輔両人申合、(政敬、高田藩主)隔年ニ年番相立、昨子年私年番ニ付人数彼地江差渡置候、然処此節異人静謐ニも相聞候付、如前々当非共在所表江、人数相備置、佐州奉行〓達次第ニ差渡候様致度旨、昨子年十二月阿部豊後守殿江式部大輔〓、(正外、老中)別紙之通相伺候処、可為伺之通旨、今般御付札を以、御差図有之旨、通達有之候、右ニ付而〓、私儀も同様相心得、且差渡置候人数、此節為引取可申哉、此段奉伺候、以上、
   二月十日                         御名
 右外国御懸り御用番諏訪因幡守様江被差出候処、(忠誠、老中)翌十一日御付札左之通、
  〔可為伺之通候、
 別紙
 佐州表異変之節人数可差出旨兼日被仰付候処、去亥年三月中攘夷之儀被仰付佐渡奉行岡松伊予守〓申達候趣も有之、人数差渡置候処、追々静謐ニも相成、人数引取方之儀、去暮佐渡奉行瀧川主殿江及問合候処、当分之内溝口主膳正拙者両人ニ而隔年年番相立、先勢人数壱ヶ年詰ニ而、非番方ハ在所ニ人数相備、異変之節ハ、申達次第速ニ出張之手筈ニ可申付旨、家来之者江申渡有之、当子年之義ハ主膳正年番ニ付申合、当十二月中致交代、人数在所表江引取、相備置候、来丑年拙者年番ニ付、来二月中人数差渡、主膳正人数与交代可致之処此節異人静謐ニも相聞候付、如前々当非共在所表江人数相備置、佐渡奉行〓達次第速ニ差渡候様致度、此段相伺候、以上、
   十二月十二日                榊原式部大輔
  〔可為伺之通候、
(中略)
  (三月十二日)
一、銃隊掛〓清水谷調練場之儀、兼々地狭ニ而十分駆引差支も有之、差当り銃隊組調練駆引差支之趣を以、角場打小屋掃除屋敷引移を始、御足軽屋敷裡地之内、引揚之上、取広之儀、絵図面を以申上之趣、存寄無之、御普請奉行申談、�取計候様達、右ニ付、左之通取計候事、
                                 物頭   」
A10.2/33〜44 裏御用部屋日記
 「御留守御在城御用状案詞」と題する裏御用部屋の日記は、文政の初年から慶応三年までの時期のものがある。藩主の在国の時に、新発田の裏御用部屋で記したもの。新発田の用人が在府の用人に藩主やその家族の動静を報じた書状の留が主で、政治的な記事はとぼしい。以下に記載例を示す。
 安政四年九月十七日(江戸発)の御用状の例では、
「一、同日(九月十日)牧野備前守様〓於御座之間、御加判之列御免、溜詰格被蒙仰、且御村替之儀〓、御時節柄、容易難被及御沙汰筋ニ候得共、年来御出精被成御勤候付、別段之以思召、御領分之内高免之場所、御村替可被仰付旨、御用番大和守様被仰渡候段、為御知申来候ニ付、御悦之儀、日積を以取計可申候、」
A10.2/40/(3) 御用部屋日記
 右の裏御用部屋日記の中に、「御在府御留守御用状案詞」と題する安政六年の御用部屋日記が、一冊だけ混在している。江戸の用人から新発田の用人へ送られた書状を、新発田の藩邸で留めたもの。
 一部を左に例示する。
「   十月廿六日立
  尚々年寄中江別段不申入候間、御達可被成候、以上、
 御領所役所〓宿継差立候ニ付、得其意候、先以
 殿様・若殿様・幾姫様御機嫌能被成御座奉恐悦候、此表、上々様方御安泰被為入候間、可被心安、随而御一門様方無御別条、御屋鋪向相替儀無御座候、
一、去ル廿一日、御用番内藤紀伊守様江、御領内堤切ニ付、水損御届等被差出、御使者御留守居中相勤候、則写一通差下候、
一、去ル廿二日、松平対馬守様〓御留守居御呼出ニ付、鈴木�五郎罷出候処、明廿三日、御黒印御朱印并御領知目録写添被差出候様、御書付を以被仰渡候、
一、右ニ付、松平対馬守様江御請御使者、鈴木�五郎相勤候、
(中略)
一、同日、海防御懸り御用番間部下総守様江、新潟沖合ニ異国船相見候付、為援兵御人数被差下候段、去ル十日之御書付ニ而御届書被差出、御使者御留守居中相勤候、則写一通差下候、
一、同廿五日、松平対馬守様〓御留守居御呼出ニ付、鈴木�五郎罷出候処、一昨廿三日被差出候御領知目録、被成御戻候付、請取罷帰候、
一、同日、右ニ付、松平右京亮様、松平対馬守様江御領知目録御返却被成、右御請表御使者被差出候、
一、左之通相達候、且去ル廿二日、御飛脚御足軽二人差立候、道中無滯可致着と存候、以上、
   十月廿六日                    不残六人
  御用人中                                」
A10/36 新潟開港一件                    一〇通
 すべて新潟開港にともない、沼垂の上知になる事を心配して差出した意見書。添削がしてあるものもある。年代は慶応三卯年と思われる。左の二例以外は、筆者、宛先共に不明。
・窪田平兵衛・溝口伊織より堀丈太夫・溝口内匠・速水八保・溝口半兵衛・溝口靱負宛  七月二十六日
「 新潟開港一件之儀、先便申入候通、いつれ御役人方御下向、御見分之模様次第御治定と之儀、横浜英仏之方も、手蔓を以探索いたし見候ニ、同様之次第ニて未治定之容子ニハ無之、然レハ沼垂町上知等之義ハ、菊池様御内話之通、未御詞所にも不相見、容易ニ私領御手之入候義ハ有之間敷候共(下略) 」
・差出人・宛先は右に同じ。 七月十五日
 「昨十四日、小笠原壱岐守様〓御留守居御呼出ニ付、鈴木弥五大夫罷出候處、此度北海港々御見分為御用、外国御奉行菊地伊予守様、御目付原弥十郎様被差遣、委細之儀は右御両人〓御達可被成旨、一印写之通、御達書御渡(下略)
 一新潟開港之儀、兼而御心配之處、此度之御見分ハ松ヶ崎辺重ニ御調之由、内々御談之次第も有之、多分、新潟開港之御見込哉に相見、困入候儀ニは候得共、併当今之御時勢不得止次第天聽ニ相任せ候外は無之、[ ]御心配ものハ上知之儀ニ候処、是以容易ニ有之間敷儀とは不被存候得共、油断は有成兼候(下略)                  」A10/37 沼垂御蔵所一件 慶応二年              一二通
 慶応二年の米価高騰で近領に打ちこわしがおこったとの風聞を入手し、新発田藩米倉のあった沼垂の警備について対策をねった時の評議書類。
一部を左に例示する。
・「慶応二寅年十一月十二日
  御近領不穏趣ニ付、沼垂御蔵所万一之節御手配向評議申上書下」(端裏書)
      覚
 沼垂御蔵所之義、当節米価追々沸騰いたし、御近領等不穏趣ニも相聞候處、諸役人末々迄打込候而も一向少人数、兼々万一之義有之候而ハ、大切之御場所柄不相済義ニ付、何とか御手当向(下略)  

   寅十一月                           元〓  」
・「寅十一月
  沼垂御蔵詰人数大凡取調書」(端裏書)
 「  沼垂御蔵所定詰人数
  弐人 御代官     壱人 御徒士目付
  壱人 御足軽目付   弐人 手代
  四人 判取      六人 鏡ヶ渕御番所詰御足軽
  弐人 御旅屋守
   〓拾八人
     外三人 家来地抱 老人子供而已
      七人 奉仕
  合〓弐拾八人
    此節御収納御取入ニ付増詰人数
  四人 御奉行上下   三人 御代官
  壱人 御徒士目付   壱人 御足軽目付
  四人 手代      八人 剃取
  六人 鏡ヶ渕御番所詰 弐人 御旅屋守
   〓弐拾九人
     外四人 家来
      七人 奉仕
  合〓四拾人                      」
  

A12/33 奇兵組取立大綱見込書写 明治元年
 人数は一五〇〇人、経費は米千俵、金五百両が見込まれている。
A12/35 奇兵隊御取立評義御下ニ付見込申上評義書下 慶応四年三月
「……強壮之者御募り、奇兵隊御取立之御趣意見込之趣評義可申上旨、御沙汰之趣、実ニ至急之御先務尤之御義奉承知候……右ハ数代恩禄を食ミ候者と違、一時御駈集之土民共、御扶持等も不被下置候而ハ、一旦募りニ応じ候とも、御遣立之場ニ乍臨ミ、色々之義誘引、令難渋筋等申立、制兼候様之義ニも可相至哉……就而ハ小役人以下御奉公人共之二三男御召抱ニ相成、先ツ最初ハ三俵ツツも被下置、……               」
A12/37 教導隊生徒及大坂徴兵人員
 教導隊生徒は四名、大坂徴兵人員は卒七名、卒未仕七名、農十五名、商二名、工一名。
H00/18 犯罪関係書状                    一括三十三通
 内容は、次の三分野に大別される。
1 明治三・四年頃の新律綱領関係等の書簡。一例をあげれば次の如くである。
「(上略)
一、新律綱領先般御渡分差下申候、右ハ壱部而已ニてハ不足ニ付、外二、三部求メ度ニ付、其筋問合候処、書肆江売弘メ、普く天下江施行セしめ候方可然与之評議ニ有之由、其内相求メ次第差下可申与奉存候、以上、

   二月七日                       出村総太郎
    大属中殿                              」
2 天保期頃の、「無宿并野非人旧里帰郷令」関係、無宿引渡しに関する史料など。左に一例を掲げる。
「                   御領分
                     赤渋組吉川村
                      百姓宅兵衛三男
                    大惣次事 久 蔵
                          当寅二十四才
                         申 口
                         

 私儀、今般町御奉行鳥居甲斐守様御手ニ而被 召捕、当御屋敷様江御引渡相成候始末有躰可申上旨御尋御座候、
  此段私儀古川村百姓宅兵衛三男ニ而御座候、母〓拾ヶ年已前頃与覚申候六月中、病死仕候、惣領ハ山蔵与申、当年三拾五才位与覚、二男宅右衛門〓廿八才罷成、尤同人義中山道桶川宿江稼ニ相越居、親方江も折節面会罷越申候、且私儀四ヶ年已前亥年二月十六日村方無沙汰ニ罷出、武州崎玉鷲ノ宮鈴木屋長五郎与申者、私叔父ニ付、同人方江罷越、去丑二月中迄、農業仕居候処、同人江古河駅江罷越候旨申置、罷出、古河町何町壱丁目ニ元中ノ口組戸頭村越後屋熊吉与申者、日雇人足致世話候付、同人方ニ罷在、日雇稼仕居候、然ル処、同村佐右ヱ門忰幸吉与申もの江戸品川台町坂下車屋十蔵方ニ奉公仕居候間、同人方手寄可参与、去月廿七日古河駅出立、翌廿八日千住駅江参ル途中ニ而被召捕、同日鳥居甲斐守様仮牢被 仰付、翌廿九日浅草溜被差遣候、其後去ル三日頃与覚申候、御呼出御糺有之、夫より六日頃壱度御呼出、猶又昨十五日御呼出御糺被下、御引渡相成候義御座候、
                         右久蔵
   御留守居
     御役所                      」
3 沼垂町真言宗法光院儀、同町光照寺小路彦兵衛妹〓んと密通の一件関係史料。
V00/1/(1) 醫学舘法律 教師附
 安永五年二ノ丸御用屋敷内ニ醫学館御取立を仰せられて以来、天明年中の教師への御達し、文政四年七ヶ条伺書などを記し、嘉永七年三月までの、醫学館の規格を書き上げたもの。本書自体は、文久二年五月に速水貞玄によって記されたものであることが奥書によって判明する。
V00/1/(2) 醫学舘法律別帳 教師附
 右と同時に書き上げられた、醫学舘講会課目と課目担当者名を記す。右の別帳である。
 三 新潟県立図書館
 同館所属に係る幕末維新関係史料でまとまっているものは、一つは「府県史料新潟県史」の稿本(正本は国立公文書館所蔵)であり、政治部、制度部等に分けられている。この稿本は、例えば「制度部 兵制一」には明治八年から十年迄があつかわれ、西南戦争時の臨時巡査の動きが記されていたり、「政治部民俗一・二」には、県下区郡単位の民俗(明治十六年現在)が書かれているなど、明治前半期の県下の政治、社会、教育等を見る上で不可欠の史料である。尚「民俗一・二」中、新潟区報告の冒頭には、次のように記されている。
「国史編輯ニ付、区内民俗之概略取調方云々御申越之趣承了、則御垂示之項目ニ係リ、左ニ記載致、及御回答候也、
  明治十六年十一月             新潟区役所
    本県庶務課御中                    」
 あと一つの史料は、長善館学塾資料である。同館は、西蒲原郡吉田町粟生津に幕末維新期に存続していた私塾であり、塾主鈴木家の子孫より県が同館資料を一九六七年に購入したものである。
 一九七四年、県立図書館から、「新潟県立新潟図書館所蔵長善館学塾資料目録が出されている。また、同年、新潟県教育委員会は、「新潟県文化財年報第十四」として、「長善館学塾史料」(上)・(下)を刊行している。(上)には「文台詩集」、「文台文集」、「�軒文集」、「�軒詩集」、「�軒関係書翰」、「�軒時事論集」、「柿園文二篇」、「柿園関係書翰」、「彦嶽詩文・書翰」が、(下)には「�軒日記」(安政元年〜明治五年)、「長善館学規」、「長善館門人姓名簿」が収められている。
 長善館学塾資料の中には、多くの館主宛書翰がふくまれているが、ここではその一例を掲げておく。
 708—15 京都詰〓来翰写(丑三月)(慶応元)
「昨年中〓世上騒々敷折柄、公辺ニて莫大之御入費、右等ニ付而〓中々公辺之御武備、厳重ニ有之与甲訳ニ〓参り兼候間、摂�兵庫表江為国益開港いたし度旨、於御所ニ関白様始伝奏衆・議奏衆御一座ニて、伯耆守・豊後守被
仰上候処、関白様・両伝奏衆大ニ御立腹にて、幕府之閣老共、横浜之一条并長州表之始末不束之取計不得其意、兵庫開港抔とハ如何不埓申上候哉、若外乱出来ニても不致候哉、下れと高声ニ被仰聞候処、御両人とも平伏被成、乍恐申上候、公辺ニても近年打続莫大之御入費、此節和宮御下向ニ付、五万俵も年々御所江被遣候訳ニ御座候所、兵庫開港之願、御聞済無之候而=、右五万俵御進献御断申上候外無之様被仰上候所、両伝奏衆益々御立腹ニて、交易之ためニ五万俵被献之訳ニ候ハヽ、只今直ニ五万俵幕府へ差戻し候間、其旨関東江可申達様被仰渡候由、兼而長州人御所へ乱入之義ニ付而〓、将軍早速上洛いたし候様被仰出候処、今以上京も不致、長州之征伐不束之取計、未タ其儘ニ致置、且御所〓被仰出候攘夷之儀も其儘ニ打捨置、旁以将軍不束之儀ニ付、此度ハ将軍上洛ニも不及、攘夷之義并長州征伐之義ハ、国主諸侯へ申付候間、国老両人へ急度申度候旨、関白様〓被仰聞候間、右ニ付、御老中一言之御返答モ無之、奉恐入御帰、不取敢御供揃次第伯耆守殿ハ大坂江御出、夫〓蒸氣船ニて御下り、豊後守殿ハ東海道御下りニ相成候、
    丑三月                               」
                  (小野正雄・宮地正人・高埜利彦・塚田孝)


『東京大学史料編纂所報』第15号p.112