大日本史料第九編之十六

本冊には、後柏原天皇大永二年四月より九月までを収める。
 朝廷・幕府は共に一時の平穏を享受し、また諸大名も激動から離れて、時を過しつつあった。
 朝儀はその復興の後、幕府の後援の下に再興継続せられ、七月には八朔直垂料が幕府より支出された。また後柏原天皇は元應寺光智より圓頓戒を、安楽光院長悦より四分律戒を受けた。准朝儀化された主上受戒によって、大乗戒と小乗戒が均衡をとりながら授けられていることが知られ、興味深い。平安を取り戻した京都へ還る公家が見られる一方で、加賀在国十九年のままこの年七月死去した勧修寺政顕の姿もあった。九月には高辻長直も歿している。両人の筆蹟はコロタイプ図版で収めた、
 六月七日には祇園會が例年の如く行われたが、式日に将軍義晴は麻疹を煩い、同月二十七日まで山鉾巡行は延期された。当日将軍が見物した棧敷の図が「ニ水記」に描かれている。
 仏事については、南都興福寺で開催された春日社法華八講と、興福寺五師職補任をめぐる公家・武家を巻き込んだ寺内確執に関する事件を、大乗院々主経尋の日記を中心にしながら収めた。法華八講は興福寺内で維摩會・法華會と並ぶ重要な法會とされ、僧侶昇進に重要な役割を占めるものであった。一方京都泉涌寺では、文明二年の兵火で焼失した舎利殿の造営勧進が勅許され、幕府より諸大名に助成が命ぜられる事となり、以後近世初頭に至る寺内再建の緒となった。
 武家の動向は、特に大きな事件はないが、幕府関係では裁許・御料所経営等の財政にかかわる記事が多く、諸大名については、宇都宮・今川・六角・畠山・山名・赤松・朝倉・細川・大内・尼子・菊池・宗・島津氏等の姿を見出す事ができる。その中で、本年三月上洛した六角定頼が五月まで居座ったため、細川高国の参宮が延期されたことなどは、ささやかな波欄と言えようか。七月十七日には河内守護畠山尚順が卒している。
 学芸の分野では、将軍義晴の要請により三条西実隆が三十六歌仙絵和歌を書き進めた。宮中・諸家・諸寺社でしばしば開かれた連歌會については、四月二十六日条にまとめて収めた。また八月には細川高国の発願を承けて、連歌師宗長は宗碩を請じて千句連歌会を大神宮で興行した。この時の歌は多くの写本で伝えられているが、最古写本と考えられる太田武夫氏所蔵本(天文四年写)によって収めた。
(目次一五頁、本文三七五頁、挿入図版二葉)
担当者 今枝愛眞・桑山浩然・永村 眞

『東京大学史料編纂所報』第15号 p.56*-57