大日本古文書家わけ第十七「大徳寺文書」之十二

本冊は、第十、第十一巻につづく「庚箱」文書、および、箱外の未整理中世文書を収めた。この箱外文書は、大徳寺の文書倉に大量に保存されている近世文書の中より撰び出したものである。
本冊所収の文書は、地域的には山城・播磨・備前・備中・伊予・筑後・丹波・近江・越前・美濃・尾張・伊賀・周防などにわたり、内容的にも様々である。
寺史の問題として注目されるのは、第一に、大徳寺第一世徹翁義亨の応安元年の書状三点(二九三六・二九三七・二九三九号文書)であろう。義亨は、応安二年五月に死去するので、これらは死去前年の書状ということになる。このうち、挿入図版とした二九三六号文書は病臥中に一筆で書き下したものである。第二には、二九五九号文書の書写山の僧鎮継慈傳書状が注目される。鎮継は、書写山本願上人性空の再来と評された人物であり(「書写山文書」)、大徳寺第二六世養叟宗頤が書写山に学んだ時の師である。その縁によって、鎮継が在地武士の荘園所職について大徳寺に口入したのがこの書状である。第三に、二九八六号文書の伊予河野家家臣沙弥純阿書状は、南朝方と大徳寺の関係の一端を示している点で注意をひいた。なおこの純阿は、「豫軍記」に「延吉純阿入道」とみえる。
武家関係では、赤松、浦上、河野、斯波、朝倉、土岐、織田、大内などの文書を収めた。各々一定の量とまとまりがあり利用価値があろう。これらは、所謂林下と地方名門武家の密接な関係を示すものであり、本冊の特徴となっている。個々の内容は省略せざるをえないが、三〇三五号文書の朝倉景隆書状が「先方之儀者此方不覚悟候」として、過去に斯波氏と大徳寺との間で結ばれた関係の破棄を主張しているのは興味深い。
この他、三〇七三号文書の室町将軍足利義満家御教書の裏判は、担当奉行による擦消・修正部分の確認の裏花押の一例である。
なお、本冊より、改行符号を付し、文書料紙の法量を記すなど、編纂の体例を若干改めた。
(例言二頁、目次二二頁、本文三〇七頁、挿入図版一葉、花押一覧七頁)
担当者 保立道久

『東京大学史料編纂所報』第15号 p.57*