東京大学史料編纂所

HOME > 編纂・研究・公開 > 所報 > 『東京大学史料編纂所報』第15号(1980年)

所報―刊行物紹介

大日本古記録 猪隈関白記 四

 本冊には、前冊に続いて建仁三年正月から承元二年六月までを収めた。記主藤原家実は二十五歳−三十歳、右大臣から左大臣、さらに摂政・関白へと昇進している。ただし、この五年半の間、日記が現存しているのは、建仁三年春・夏・秋、建永五年夏・冬、承元元年秋、承元二年春・夏のみである。なお、建永元年以降は自筆本が存しないので、古写本を底本として用いた。
 基通・家実父子が閉門を解かれたのは、建仁二年の暮も押しつまってからであるが、翌年正月一日には、基通に代って摂政となった九条良経の拝賀の儀が行われた。出仕を許された家実ではあるが、年が明けても、しばらくの間は所労の由を称して出仕しなかった。三月一日良経から一上を譲られて、気をとり直したのか、初めて参内して祈年穀奉幣の上卿を勤めた。以後漸く自己のペースを取り戻して行くのである。ところが、建永元年三月七日良経が三十八歳の若さで急死したので、同月十日代って摂政となり、同年十二月八日には関白に任ぜられた。
 主要な記事としては、恒例の年中行事を別とすれば、次のようなものが挙げられる。上皇の熊野御幸(建仁三年三月十日)、法勝寺多宝塔供養と大赦(同年五月二十七日)、聖徳太子の墓の舎利の盗難(同年六月十九日)、熊野御幸(同年七月九日)、将軍源頼家死去すとの誤報(同年九月七日)、基通随身兵仗の慶申(建永元年四月十三日)、多武峯鳴動(同月十九日)、改元(同月二十七日)、熊野御幸(同年五月一日)、家実一座の宣旨(同月二十八日)、熊野御幸(同年十二月九日)、疱瘡の流行(承元元年八月)、多武峯と金峯山の衆徒闘争事件(承元二年正月−二月)、熊野御幸(同年六月三日)などである。
 就中、両寺闘争事件は、遂に藤原鎌足像の焼失という、関白・氏長者たる家実にとって最悪の事態にまで発展してしまう。しかも、多武峯側としては、最初この事件を極力秘匿しようとしたことから、かえって事態をこじらせる結果となり、家実はこの善後策に約半年間を費やしている。
(例言一頁、目次二頁、本文二八二頁、挿入図版二葉、岩波書店発行)
担当者 近衛通隆


『東京大学史料編纂所報』第15号p.57